第七話 消えてしまう人たち(1)
左腕は元に戻った。
何事もなかったみたいに。
傷も。
骨も。
血も。
全部。
最初から存在しなかったみたいに。
だから研究員達は言う。
問題なし。
経過良好。
再生確認。
正常範囲。
それだけだった。
少女だけが違った。
左腕を見る度に思い出す。
白い訓練場の床。
広がる血。
肩から吹き出した蒼白い光。
転がる腕。
泣きそうになりながら見上げた研究員達の顔。
そして。
腕は生えない。
普通は。
その言葉。
何度も何度も頭の中で繰り返される。
課題を解いている時も。
食事をしている時も。
検査室へ向かう時も。
眠ろうとしている時も。
忘れようとしても忘れられなかった。
胸の奥へ小さな棘が刺さったままになっているみたいだった。
気付けば。
左腕を掻いていた。
痒いわけではない。
痛いわけでもない。
けれど気になる。
昨日まで無かった場所。
昨日まで失われていた場所。
そこへ指が触れる度に。
あの光景が蘇る。
だから。
気付くと掻いている。
何度も。
何度も。
爪が皮膚を擦る。
赤くなる。
それでも止まらない。
本当にそこにあるのか。
本当に自分の腕なのか。
身体が勝手に確かめているみたいだった。
それから。
少女は少しだけ周囲を見るようになった。
別に興味が湧いたわけではない。
友達が欲しくなったわけでもない。
誰かと話したいわけでもない。
ただ。
前より少しだけ。
目に入るようになっただけだった。
白い廊下。
白い壁。
白い照明。
忙しそうに歩く研究員達。
資料を抱えた技術者達。
警備員達。
今まで背景みたいだったものが。
少しだけ輪郭を持ち始めていた。
検査棟へ向かう途中だった。
長い廊下。
窓のない通路。
消毒薬の匂い。
機械の低い駆動音。
少女は一人で歩いていた。
その向こうから。
一人の少年が歩いてきた。
白い髪だった。
少女と同じくらいの年齢。
細い身体。
青白い肌。
包帯の巻かれた腕。
どこか疲れたような目。
見覚えがあった。
何度か見たことがある。
食堂で。
検査棟で。
訓練場の近くで。
名前は知らない。
けれど知っている顔だった。
目が合う。
少年が立ち止まる。
少女も立ち止まる。
しばらく沈黙が流れる。
二人とも。
どうやって話せばいいのか分からなかった。
先に口を開いたのは少年だった。
「痛かった?」
突然だった。
少女は少し考える。
「なにが」
「腕」
ああ、それか。
少女は小さく頷いた。
「痛かった」
少年は少しだけ笑った。
安心したような。
諦めたような。
不思議な笑顔だった。
「そっか」
小さな沈黙。
それから。
少年はぽつりと言った。
「僕も痛かった」
少女は首を傾げる。
「どこが?」
「いっぱい」
少年は少し笑う。
けれど。
その笑顔はどこか寂しそうだった。
泣くことも。
怒ることも。
諦めてしまったみたいな顔だった。
「僕ね」
「?」
「外を見たことあるんだ」
少女の目が少しだけ見開く。
外。
その言葉だけで胸が反応した。
「外?」
「うん」
「どんなの?」
少年は少しだけ考えた。
本当に少しだけ。
そして。
「風があった」
と言った。
少女は黙る。
風。
その言葉だけでは分からない。
でも。
なぜだか羨ましかった。
外を見たことがある。
風を知っている。
自分の知らないものを知っている。
それだけで。
少しだけ。
羨ましかった。
「風ってなに?」
少女は聞いた。
自分から質問するのは珍しいことだった。
少年は少し驚いた顔をする。
それから。
少しだけ嬉しそうに笑った。
「冷たかったり」
「温かかったりする」
「見えないけど」
「触ると分かる」
少女は想像する。
出来なかった。
でも。
知りたいと思った。
もっと。
少しだけ。
知りたいと思った。
その時だった。
「第七個体」
研究員の声。
少年が振り返る。
「移動だ」
「はーい」
軽い返事だった。
慣れているみたいだった。
少年は歩き出す。
そして。
少しだけ振り返った。
「またね」
小さく手を振る。
少女は少し迷う。
でも。
真似をした。
ぎこちなく。
不器用に。
小さく手を振る。
「うん」
それだけだった。
名前も聞かなかった。
また会えると思っていたから。
次もどこかで会うと思っていたから。
だから聞かなかった。
◇
その日の夜。
課題をしながら。
少女はふと思い出した。
風。
という言葉を。
見えないのに触れるもの。
冷たかったり。
温かかったりするもの。
どんなものだろう。
どんな感じだろう。
少しだけ。
知りたいと思った。
そして。
気付けばまた左腕を掻いていた。
何度も。
何度も。
爪で擦る。
赤くなる。
それでも止まらない。
腕はそこにある。
確かにある。
けれど。
本当にそこにあるのか。
まだ少しだけ分からなかった。
◇
翌日。
少年はいなかった。
食堂にも。
検査棟にも。
廊下にも。
いなかった。
翌々日も。
その次の日も。
見かけなかった。
でも。
少女は特に何も思わなかった。
研究施設ではよくあることだった。
検査。
移送。
隔離。
観察。
見なくなる人はいる。
それだけ。
そう思っていた。
だから。
少年のことを考えたのは。
その時が最後だった。




