内包と外延
雲ひとつない青空が、王都の上に広がっていた。
王城の白い城壁には陽光が降り注ぎ、庭園の木々が風に揺れている。
その穏やかな景色とは対照的に、王城の一室では、厳重な警備のもとで会談の準備が進められていた。
研究施設から訪れた三名の代表者は、すでに長机の一方に着席していた。
中央に座るのは、白い服に身を包み、長い髪を背へ流した男。
両目を覆う黒い面によって、その表情を読み取ることは難しい。
OriginMirabilis計画を統括する、研究施設の最高責任者である。
その両脇には二名の関係者が控え、机上には持参した資料が並べられていた。
通常の書面に加え、魔力によって文字や図式を表示する薄い板状の魔導具も用意されている。
机の脇には、金属で補強された大きな鞄が置かれていた。
これらの持ち込み品は、すべて事前に王城側の検査を受けている。
しかし、施設側の背後に立つ騎士団長は、警戒を解いていなかった。
白髪を蓄えた巨漢は、普段の豪快な笑みを消し、室内の動向に目を配っている。
会談室の外にも騎士が配置されていたが、今回の議題について知らされている者は限られていた。
やがて、扉の向こうから足音が近づいた。
施設側の三名が席を立つ。
扉が開かれ、国王が入室した。
漆黒の長髪を腰まで伸ばした国王は、施設側へ碧色の瞳を向けると、長机の向かい側へ進んだ。
その後ろには宰相が続き、さらに杖を手にした侍女長が入室する。
侍女長は扉が閉じられたことを確認すると、国王の後方へ控えた。
国王が席に着き、施設側の三名にも着席が促される。
宰相は持参した書類を机上に並べ、そのうちの一通を手前へ引き寄せた。
研究施設から王国へ提出された、正式な返還要求通告書である。
今回の会談は、この通告書を受けて設けられたものだった。
要求の対象は、Origin-0-Mirabilis-1
かつて研究施設の管理下に置かれ、現在はアステルガード王城で保護されている少女。
王国側が「おもち」と呼ぶ存在である。
宰相は通告書の内容を確認すると、施設側へ視線を向けた。
「それでは、会談を始めさせていただきます。」
宰相の言葉を受け、施設の責任者が軽く頭を下げた。
「本日は、このような場を設けていただき、ありがとうございます。」
穏やかな声だった。
その口調からは、返還要求をめぐって王国と対立しているという緊張を感じさせない。
「まず、先日お送りした通告書についてですが、内容に変更はございません。」
責任者は机上の資料に手を添えた。
「当施設は、Origin-0-Mirabilis-1の返還を正式に求めます。」
宰相が書面へ目を落とす。
「その要求は承知しております。ですが、通告書に記された根拠について、いくつか確認させていただきたい。」
「ええ。どうぞ。」
「まず、通告書にある管理資産という扱いについてです。これは現在も有効な登録に基づく主張と考えてよろしいですか。」
「そのとおりです。」
責任者は傍らの関係者へ視線を向けた。
関係者の一人が資料を操作すると、薄い板の表面に文字が浮かび上がる。
「Origin Mirabilis計画は、世界災害への対抗を目的とした特殊研究として申請され、所定の認可を受けています。O-M-1は、その計画において生成された特殊魔導兵装として登録されています。」
「人体研究としてではなく、兵装として、ですか。」
「はい。」
責任者は即答した。
「当時の制度には、人工的に生成された魔導生命を独立した人間として扱うための明確な規定がありませんでした。そのため、既存の登録区分を適用しています。」
宰相は資料から顔を上げた。
「つまり、人間として登録できなかったため、兵装として登録したと。」
「正確には、計画の目的と運用形態に照らして、その区分が適当であると判断しました。」
「その判断を下したのは?」
「私です。」
返答に迷いはなかった。
宰相は一度、手元の書面を確認した。
「では、その登録を根拠として、王国に身柄の引き渡しを求めているわけですね。」
「ええ。登録上の管理権は、現在も当施設にあります。王国による保護が始まったことで、その権利が自動的に失効するわけではありません。」
「なるほど。」
宰相は眼鏡の位置を直した。
「ですが、こちらにも確認すべき事実があります。」
「何でしょう。」
「おもち殿には、自ら考え、判断し、意思を示す能力があります。王城での生活でも、それは確認されています。」
「存じております。」
「その点について、異論はないのですね。」
「ありません。」
あまりにあっさりとした返答だった。
宰相は責任者の言葉を待ったが、男は続けて何かを否定する様子もなかった。
「O-M-1には高度な認識能力があり、学習、判断、意思表示も可能です。計画の性質上、それらの能力は必要でしたから。」
「では、本人が施設への帰還を望んでいない場合は?」
「それは、本人の現在の意思として記録すべき事項ですね。」
「記録、ですか。」
「はい。ただし、それによって登録上の管理権が失われるかどうかは、別の問題です。」
宰相の表情がわずかに険しくなった。
「意思を持つ存在であると認めながら、その意思を管理上の判断に優先させないということですか。」
「現行の制度に従うなら、そうなります。」
責任者は淡々と答えた。
「もちろん、制度そのものを見直すのであれば話は変わります。しかし、現在の登録が有効である以上、施設としてはその権利を主張する必要があります。」
「制度の不備を承知のうえで、ということですね。」
「ええ。」
その言葉に、宰相は一瞬だけ口を閉ざした。
責任者は何も隠そうとしていなかった。
むしろ、問題となる部分を指摘されても、それを否定するつもりがないようだった。
「制度に不備があることと、現行の手続きが有効であることは、必ずしも矛盾しません。」
責任者は続けた。
「そして、私どもが返還を求める理由は、登録上の権利だけではありません。」
「と、おっしゃいますと?」
「O-M-1は、通常の人間とは大きく異なる身体構造を持っています。維持に必要な知識も、専用の設備も、現時点では当施設に集中しています。」
机上の資料が切り替わり、複雑な図式が表示された。
「長期間にわたって管理環境から離れている以上、身体状態の確認は必要です。万一、異常が生じた場合、一般的な医療技術では対処できない可能性があります。」
「王城にも医師はおります。」
「存じております。ですが、O-M-1の身体に関しては、私どもが最も多くの記録を保有しています。」
責任者はそこで一度言葉を切った。
「返還を求めるのは、研究の継続だけが理由ではありません。対象の維持と安全を考慮した判断でもあります。」
宰相はすぐには答えなかった。
施設側の主張には、無視できない部分があった。
Origin Mirabilis計画によって生み出された少女の身体について、王城が把握している情報は限られている。
研究施設が保有する記録や技術が、今後必要になる可能性も否定できない。
しかし、それと身柄の引き渡しは別の問題だった。
「一つ、確認しておく。」
それまで発言を控えていた国王が口を開いた。
責任者が顔を向ける。
「はい。陛下。」
「お前たちは、あの娘を人間として扱うつもりがあるのか。」
会談室に沈黙が落ちた。
責任者は、すぐには答えなかった。
「人間、という言葉の定義によります。」
「聞き返しているのではない。」
国王の声は低かった。
「お前たちが、どう扱うつもりなのかを聞いている。」
「承知しました。」
責任者は姿勢を変えずに答えた。
「施設では、O-M-1を研究対象として管理してきました。今後も研究を継続するのであれば、一定の管理は必要です。」
「本人の意思よりも、研究を優先するのか。」
「必要な場合には。」
「そうか。」
国王は短く答えた。
その表情に変化はなかった。
「ならば、返還は認めん。」
宰相が国王へ視線を向ける。
施設側の二名も、わずかに身じろぎした。
だが、責任者だけは落ち着いていた。
「理由を伺ってもよろしいでしょうか。」
「登録を理由に、あの娘を所有することは認めん。」
「現在の制度では、管理権が認められています。」
「その制度が、人間を兵装として扱うことを許しているなら、見直す必要がある。」
「それは、制度の変更を検討されるということでしょうか。」
「そうだ。」
責任者は小さく頷いた。
「なるほど。」
その反応には、驚きも反発もなかった。
「では、王国としては、O-M-1の登録上の扱いそのものを問題にされるわけですね。」
「それだけではない。」
国王は責任者を見据えた。
「あの娘は、物ではない。」
責任者は黙って聞いていた。
「自ら考え、意思を持つ者だ。兵装として登録したというだけで、連れ戻すことは認めん。」
責任者はしばらく沈黙した。
やがて、静かに口を開いた。
「陛下のお考えは理解しました。」
その声は、先ほどまでと変わらず穏やかだった。
「ですが、そうなりますと、解決すべき問題がいくつかございますね。」
責任者は机上の資料へ手を伸ばした。
「まずは、O-M-1の登録をどのように扱うのか。そして、研究を継続するための条件をどう定めるのか。」
黒い面の向こうから、国王へ顔を向ける。
「その二点について、お話しさせていただいてもよろしいでしょうか。」
国王は短く頷いた。
「話せ。」
「ありがとうございます。」
責任者は机上の資料を一枚取り上げた。
「まず、登録上の問題についてですが、現行の制度では、人工的に生成された魔導生命の扱いが十分に定められていません。」
「先ほども伺いました。」
宰相が応じる。
「ええ。ですので、当施設としても、登録区分の再検討そのものに異議はございません。」
宰相はわずかに眉を動かした。
「返還を要求しておきながら、登録の見直しには応じると?」
「制度の見直しと、現在有効な登録に基づく要求は、別の問題ですから。」
責任者は淡々と続けた。
「仮にO-M-1が独立した人格を持つ存在として認定されるのであれば、それに応じた管理方法へ変更する必要があるでしょう。」
責任者は一度言葉を切った。
「現行の制度が有効である以上、当施設はそれに基づいて返還を求めます。」
「ですが。」
「その制度そのものが改められるのであれば、我々も新たな基準に従うことになります。」
「管理方法、ですか。」
「はい。ただし、登録の変更によって、身体の維持に必要な研究まで不要になるわけではありません。」
責任者は別の資料を示した。
「当施設が保有する記録には、O-M-1の身体構造、魔力特性、各種処置への反応などが含まれています。これらは、今後の健康管理においても重要な資料となります。」
「研究の継続が必要であることは、こちらも否定しておりません。」
宰相が答えた。
「問題は、その研究をどのような条件で行うかです。」
「ええ。私も、そこを明確にする必要があると考えています。」
責任者は頷いた。
「研究を継続する場所、設備の管理、担当者の選定。そして、本人の生活と研究活動をどのように両立させるか。」
「少なくとも、これまでと同じ運用は認められません。」
「承知しております。」
「身体を傷つける実験や、本人の意思を無視した処置もです。」
「その点については、実施可能な研究と必要な医療処置を区別する必要がありますね。」
責任者は資料へ目を落とした。
「ただし、研究の制限には慎重な検討が必要です。O-M-1が持つ能力は、通常の魔法体系では再現できないものですから。」
その言葉に、隣に座っていた男が顔を上げた。
責任者は構わず続ける。
「特に星導魔法に関する研究は、世界各地で進行する破砕域への対策にも関わります。研究を継続できる環境を確保することは、施設だけでなく、王国にとっても利益となるはずです。」
「その重要性は理解しております。」
宰相は答えた。
「ですが、研究の価値が高いからこそ、扱いを誤るわけにはまいりません。」
「おっしゃるとおりです。」
責任者が頷く。
「では、まず研究の実施条件から整理しましょうか。」
「失礼ながら、一つよろしいでしょうか。」
責任者の隣に座っていた男が、不意に口を開いた。
それまで発言を控えていた、Origin Mirabilis計画の主任研究員だった。
「我々の研究が、どれほどの成果を上げたのか。王国の皆様には、まだ十分にご理解いただけていないようです。」
「その件については、私から説明します。」
責任者が制した。
しかし、主任は引き下がらなかった。
「いえ。実際にご覧いただくのが最も早いでしょう。」
男は席を立ち、机の脇に置かれた鞄へ手を伸ばした。
「主任。やめなさい。」
「何も問題はありません。すべて正式な実験記録です。」
留め具が外され、鞄の中から魔導装置が取り出された。
事前に持ち込みを許可された投影機だった。
「起動を許可した覚えはありませんよ。」
責任者の声が、わずかに低くなる。
「ですが、これは必要な説明です。」
主任は構わず装置を起動した。
机の上方に光が広がり、やがて立体的な映像を結んだ。
そこに映し出されたのは、灰色に変色した大地だった。
不規則な亀裂が走り、その向こうでは空間そのものが歪んでいる。
破砕域に見られる現象と同じ性質を、実験用に再現した領域である。
「こちらをご覧ください。」
主任の声には、隠しきれない興奮があった。
「従来の魔法では、この領域を一時的に封鎖することしかできませんでした。ですが、Origin-0-Mirabilis-1は違います。」
映像の中に、小さな少女が立っていた。
銀色の髪を揺らし、少女が片手を掲げる。
淡い紫色の光が広がると、歪んでいた空間が収束し、亀裂が閉じていった。
やがて、異常を示していた領域は元の状態へ戻った。
「ご覧になりましたか! 修復です! 単なる封鎖でも、現象の抑制でもありません! 破砕域と同質の異常を、根本から修復しているのです!」
宰相は映像を見つめていた。
それが事実であるならば、世界中の研究者が求め続けてきた成果にほかならない。
破砕域の拡大を食い止める技術は存在する。しかし、失われた領域を元に戻すことは、現在の魔法技術では極めて困難だった。
「さらに、こちらもご覧ください。」
映像が切り替わった。
幾重もの魔法陣が、少女の周囲に浮かび上がっている。
それぞれ異なる構造を持つ術式が重なり、複雑に組み合わされていた。
「魔術構築能力の検証記録です。複数の術式を同時に展開し、相互干渉を制御しながら、独立した魔法として成立させています。」
主任は映像を拡大した。
「注目すべきは、構築速度だけではありません。既存の魔術理論では両立が困難とされる術式を、独自の構造へ再編しているのです。」
映像の中で、少女が指先を動かした。
魔法陣の一部が分解され、別の術式へ組み替えられる。
複数の魔法が互いに干渉することなく発動し、実験室に設けられた標的を次々と捉えた。
「単に膨大な魔力を持っているだけではありません。理解し、解析し、構築する。そのすべてが、既存の魔術師とは比較にならない水準に達している!」
主任は満足げに笑った。
「もはや人類の域を逸脱していると言っても、過言ではないでしょう。」
その言葉を聞き、宰相は国王へ目を向けた。
国王は何も答えず、映像を見据えていた。
「そして、戦闘能力です。」
次に映し出されたのは、広大な訓練施設だった。
少女の前には、武装した魔導人形が並んでいる。
「こちらは複数目標に対する戦闘訓練です。各人形には独立した判断機構を搭載しており、通常の兵士を想定した攻撃動作を行います。」
合図とともに、魔導人形が動き出した。
少女へ向けて、複数の魔法が放たれる。
だが、そのすべてが淡い紫色の障壁に阻まれた。
直後、少女の周囲に幾つもの魔法陣が展開する。
放たれた魔法は、それぞれ異なる軌道を描きながら魔導人形を捉えた。
次々と人形が停止していく。
少女は、ほとんどその場を動いていなかった。
「防御、迎撃、複数目標の同時処理。いずれも極めて高い水準です。攻撃対象の構造を把握し、必要な箇所だけを正確に破壊することもできます。」
主任は映像を進めた。
今度は、別の訓練記録だった。
破損した魔導人形が回収され、より大型の機体が投入される。
それでも結果は変わらなかった。
「通常の魔導兵装では、もはや有効な脅威になりません。」
続いて、映像に魔獣が現れた。
分厚い外皮と鋭い爪を持つ大型の魔獣が、少女へ向かって突進する。
少女は片手を上げた。
魔獣の足元に光が走り、その巨体が動きを止める。
次の瞬間、魔法が放たれた。
魔獣はその場に倒れ伏した。
「魔獣との実戦においても、問題なく対応できています。対象の種類や規模に応じて術式を変更し、最適な攻撃手段を選択する。これほど高度な判断を、単独で行えるのです。」
主任は誇らしげに続けた。
「本来であれば、複数の熟練魔術師を必要とする状況です。それを、たった一体で処理してしまう。」
騎士団長は黙って映像を見ていた。
少女の魔法が優れていることは疑いようがない。
しかし、戦闘記録に映るその姿は、訓練を受ける子供のものではなかった。
攻撃を受けても、敵を倒しても、少女は表情を変えない。
次の指示が与えられるまで、ただその場に立ち続けていた。
「これだけではありません。」
主任は別の記録へ切り替えた。
映像が変わる。
今度は、白い室内だった。
中央には寝台があり、その上に少女が横たわっている。
少女の身体は固定されていた。
「こちらは再生能力の検証記録です。」
主任は、まるで新しい魔導具の性能を紹介するかのように説明を続けた。
映像の中で、研究員が少女の腕に器具を当てた。
皮膚が穿たれ、注射器によって薬液が注入される。
少女の身体が小さく跳ねた。
しかし、器具が引き抜かれると、開いた傷口は瞬く間に塞がっていった。
「通常であれば回復に時間を要する損傷も、このとおりです。傷口は瞬時に塞がり、損傷した組織そのものが再生される。」
主任は映像を止め、傷口が消える直前の場面を拡大した。
「注目すべきは、外部からの魔法的な処置を必要としない点です。我々が星癒魔法の原理を応用して開発した技術とも異なる。これは、個体そのものに備わった再生機構なのです!」
侍女長の手が、杖の柄を握り直した。
宰相もまた、先ほどまでとは異なる表情で映像を見ていた。
そこに映っているのは、研究成果だけではなかった。
寝台に固定された少女は、器具が近づく前から身を強張らせていた。
注射の瞬間には、明らかに痛みを感じている。
それでも、実験は滞りなく進められていた。
「実に素晴らしいでしょう。」
主任は満足げに言った。
「世界の修復能力に加え、高度な魔術構築能力、圧倒的な戦闘性能、そして、この自己再生機構です。」
男は、映像の中の少女を指し示した。
「我々は、既存の人類が到達し得なかった領域に、ついに踏み込んだのです。これほど完成された個体は、今後二度と生み出せないかもしれません。」
「主任。」
責任者が再び呼びかけた。
「映像を停止しなさい。」
「なぜです? まさに我々の成果を説明しているところではありませんか。」
「説明は十分です。」
「十分? とんでもない!」
主任は国王へ向き直った。
「陛下。失礼を承知で申し上げますが、王城の方々は、あの個体の価値をあまりにも軽く考えておられる。」
宰相が顔を上げた。
「どういう意味でしょうか。」
「教育、食事、遊戯、休息。通常の子供と同じ生活を与えることに、どれほどの意味があるというのです?」
主任は机上の映像を指した。
「これほどの能力を持ちながら、ただ城の中で日々を過ごさせるなど、研究資源の浪費にほかなりません。」
「発言にはお気をつけください。」
宰相の声が硬くなった。
しかし、主任は気にも留めなかった。
「皆様は、目の前にある可能性を理解しておられないのです。人類が何百年もの間、到達できなかった領域に、我々はようやく手を掛けた!」
男は興奮したまま言葉を続けた。
「それを、子供がかわいそうだなどという感傷で止めてしまう。これだから研究を知らない方々は――」
「やめなさい。」
責任者の声が遮った。
先ほどまでの穏やかな口調とは異なっていた。
主任が振り返る。
「ですが、統括。この成果は――」
「映像を停止し、席に戻りなさい。」
「……。」
「これ以上、許可なく発言することも認めません。」
主任は不満げに口を閉ざした。
やがて投影機を操作し、映像を消した。
会談室に、元の明るさが戻る。
責任者は国王へ向き直った。
「部下が失礼をいたしました。」
深く頭を下げる。
「彼の発言は、今回の交渉における施設側の正式な見解ではありません。」
国王は答えなかった。
その視線は、映像が消えた空間へ向けられていた。
やがて、低い声が響く。
「一つ、聞く。」
責任者が顔を上げた。
「はい。」
「先ほどの映像は、すべて実際に行われた実験の記録か。」
「そのとおりです。」
「そうか。」
国王は短く答えた。
そして、宰相へ視線を移した。
「今の記録も、調査の対象に加えろ。」
「承知いたしました。」
宰相は書類へ記載を加えた。
責任者は、そのやり取りを黙って見ていた。
やがて口を開く。
「必要であれば、原本を提出いたします。」
主任が勢いよく顔を向けた。
「統括!」
「正式な調査に必要な記録です。」
責任者は静かに答えた。
「提出を拒む理由はありません。」
主任は何かを言いかけたが、結局、言葉を飲み込んだ。
宰相は手元の書類を閉じ、責任者へ向き直った。
「では、先ほどの映像に関連する記録も、すべて提出をお願いできますか。」
「ええ。記録の保管状況を確認したうえで、提出可能なものを整理いたします。」
「提出できない記録がある、ということでしょうか。」
「研究内容によっては、他国の機関との共同研究に関する情報も含まれています。開示範囲の調整が必要になるものはあるでしょう。」
「なるほど。では、その点については別途協議するとしましょう。」
宰相は頷いた。
「ただし、おもち殿に対して行われた実験については、可能な限り詳細な記録を求めます。」
「……おもち?」
主任が顔を上げた。
「失礼ですが、先程からそれは何の名称でしょうか。」
「彼女の名前ですよ。」
宰相が答えると、主任は眉をひそめた。
「Origin-0-Mirabilis-1には正式な識別名称があります。そのような稚拙な呼び名を、勝手につけないでいただきたい!」
「主任。呼び名など、どうでもよいでしょう。」
責任者が口を挟んだ。
「ですが、統括!」
「研究内容に影響するものではありません。話を続けてください。」
宰相は責任者へ視線を戻した。
「では、詳細な記録の提出をお願いします。」
「承知しました。」
責任者は異議を唱えなかった。
その隣で、主任が不満げに視線を落とした。
会談室には、先ほどまでとは異なる緊張が漂っていた。
映像は施設が主張する能力の価値を裏付けると同時に、その実験の実態も明らかにしていた。
宰相は記録をまとめると、改めて口を開いた。
「さて。研究の継続についてですが、先ほどの映像を拝見した以上、こちらとしても条件をより慎重に検討する必要がありそうです。」
「それは理解しております。」
「特に、本人の意思に反する実験については、今後一切認めることはできません。」
「本人の意思、ですか。」
責任者はその言葉を繰り返した。
「ええ。」
「確認させていただきたいのですが、その意思をどのように判断されるのでしょうか。」
宰相は目を細めた。
「どういう意味でしょう。」
「O-M-1には高度な知性があります。しかし、研究内容を理解できることと、その研究が自身に与える影響を適切に判断できることは、必ずしも同じではありません。」
責任者は落ち着いた口調で続けた。
「例えば、身体の維持に必要な検査を拒否した場合です。本人の意思を尊重するという理由で、必要な処置まで中止するのでしょうか。」
「必要性を説明し、納得してもらうべきでしょう。」
「説明しても拒否した場合は?」
宰相はすぐには答えなかった。
責任者はその沈黙を急かすことなく待った。
「その場合は、処置の必要性と危険性を改めて検討することになります。」
「なるほど。」
責任者は頷いた。
「では、緊急性が高く、判断を待つことで生命に危険が及ぶ場合はどうでしょう。」
「そのような場合には、当然、救命を優先することもあるでしょう。」
「ええ。私もそう考えます。」
責任者は机の上で両手を組んだ。
「ですから、研究と医療を一律に扱うことはできません。O-M-1の身体は、我々にも完全に解明できていないのです。」
「その点については、専門家の意見も必要でしょうね。」
「ぜひ、そうしていただきたい。」
宰相は責任者を見つめた。
先ほどの主任とは違う。
この男は、王国側の主張を頭から否定しているわけではなかった。
むしろ、その主張を認めたうえで、制度として成立させるために必要な条件を問い続けている。
だからこそ、容易には退けられなかった。
「ただし。」
宰相が言った。
「医療上の必要性を理由として、研究目的の実験を行うことは認められません。」
「当然でしょう。」
責任者は答えた。
「その区別を明確にすることには、私も賛成です。」
その返答に、主任がわずかに身じろぎした。
だが、今度は口を挟まなかった。
「もう一つ、確認したい。」
それまで黙っていた国王が口を開いた。
責任者が顔を向ける。
「はい。」
「先ほどの実験は、すべて把握していたのか。」
会談室の空気が引き締まった。
責任者は、すぐに答えた。
「はい。計画の統括者として、実験の実施とその結果について報告を受けています。」
「承認もしたのか。」
「私の承認のもとで実施されたものです。」
国王はしばらく男を見据えていた。
「ならば、あの娘が受けた苦痛も知っていたのだな。」
「記録上、苦痛を伴う処置が含まれていたことは把握しております。」
「それでも続けた。」
「はい。」
責任者は否定しなかった。
「当時の我々には、それらの実験が必要だという判断がありました。」
「今も必要だったと考えているのか。」
「研究によって得られた成果には、現在も価値があると考えています。」
責任者は一度言葉を切った。
「ですが、その価値によって、実験の過程で行われたことの責任が消えるとは考えておりません。」
国王の表情は変わらなかった。
「では、その責任は誰が負う。」
「最終的な承認を行った私です。」
隣に座る主任が顔を上げた。
「統括、それは――」
「事実ですよ。」
責任者は主任を見ずに答えた。
「計画の方針を定め、実験を承認したのは私です。現場の研究員だけに責任を負わせるつもりはありません。」
主任は口を閉ざした。
国王は責任者を見据え続けた。
「お前は、あの娘を人間だと思うか。」
責任者は、わずかに首を傾けた。
「その問いについては、先ほども申し上げたとおり、定義による部分が大きいと考えています。」
「定義の話ではない。」
国王は遮った。
「お前自身が、どう思っているかを聞いている。」
責任者は黙った。
黒い面に覆われた目元から、その表情を読み取ることはできない。
やがて、男は口を開いた。
「……難しい質問ですね。」
その声は、これまでと変わらず穏やかだった。
「O-M-1は、我々が設計し、育成した存在です。身体の構造も、能力の一部も、自然に生まれた人間とは大きく異なります。」
責任者は続けた。
「ですが、我々の想定にない行動を取ることもあります。教えられていないことを学び、与えられた指示とは異なる判断を下すこともある。」
宰相は黙って耳を傾けていた。
「そのすべてを、設計された反応として説明できるわけではありません。」
「ならば、あの娘自身にどう生きたいかを聞くべきだろう。」
「ええ。」
責任者は頷いた。
「その必要はあると思います。」
主任が勢いよく顔を上げた。
しかし、責任者は構わず続けた。
「ただし、その意思を確認するのであれば、施設へ戻ることも、王城に残ることも、本人が選択できる状態でなければなりません。」
宰相が口を開く。
「その点については、こちらも同じ考えです。」
「でしたら、次に検討すべきは、その選択をどのような条件で行うか、ということになりますね。」
責任者は国王へ顔を向けた。
「陛下。O-M-1本人との面会を、正式にお願いできますでしょうか。」
国王はしばらく責任者を見据えていた。
やがて、背後に控える侍女長へ顔を向けた。
「侍女長。」
「はい、陛下。」
「あの娘に。」
国王は一度、言葉を切った。
「ここで何を話しているのか。」
「説明してやってくれ。」
侍女長は黙って続きを待つ。
「その上で。」
「あの娘自身に。」
「ここへ来るかどうかを聞け。」
侍女長は一礼した。
「かしこまりました。」
そう答えると、侍女長は会談室を後にした。




