揺れる天秤
隣の少女は、何も言わなかった。
さっきまで男へ向いていた淡い紫の瞳も。
今は。
床へ落ちている。
指が。
膝の上で重なっていた。
いつもなら。
何かを考える時。
指先が動く。
今は。
動かない。
……
O-M-1。
おもちを。
その名前で呼んだ。
「少し。」
男の声が続く。
「髪が伸びましたか?」
返事はない。
「……それに、随分と様子も変わったようですね。」
両目を覆う。
黒い面。
こちらから見えるのは。
それだけだった。
どこを見ているのか。
わからない。
「おもち……?」
呼び掛ける。
唇が。
何度か動いた。
「え……あ、え?」
掠れた声。
指が。
膝の上で縮こまる。
少女は。
その手を見る。
男が一歩。
近づいた。
身体が先に動いた。
椅子から腰を上げる。
「姫。」
父の声。
ずきっ。
右肩に痛みが走る。
「っ……。」
息が。
詰まる。
それでも。
隣の少女との間へ。
身体を入れた。
男の足が止まる。
黒い面が。
こちらへ向いた。
「おや。」
胸元へ手を添える。
「ご挨拶が遅れました。」
頭が下がる。
「お初にお目にかかります。殿下。」
白い服の袖が。
腕に沿って落ちる。
皺一つ。
動かない。
男が顔を上げる。
「私は、現在こちらで保護されている当施設の所有物を管理している者です。」
黒い面が。
肩越しへ向く。
……
所有物。
眉が寄る。
書状。
紙の上に並んでいた文字。
返還。
所有権。
O-M-1。
指先が。
冷たくなる。
今は。
その言葉を。
目の前で聞いている。
「以後、お見知りおきを。」
「セレス、エステラ。」
父の声。
姉と妹が顔を上げた。
「先ほどの件を。」
二人の視線が。
男へ向く。
姉の眉が寄る。
妹も。
男を見ていた。
「……承知いたしました。」
「かしこまりました。」
姉が。
こちらを見る。
少女は。
小さく頷く。
二人は。
扉へ向かった。
男が。
脇へ身体を引く。
妹が。
その横を通る。
姉も続く。
すれ違う時も。
男の姿勢は。
変わらない。
扉が閉じた。
少女は。
男へ向き直る。
「おもちは。」
息を吸う。
右肩が。
まだ熱い。
「渡しません。」
黒い面が。
こちらを向く。
「オモチ、というのは。O-M-1のことでしょうか。」
「そうです。」
「なるほど。」
黒い面が。
隣へ向いた。
「愛称を付けていただいたのですね。」
「随分と愛着を持っていただいているようで、管理する側としてもありがたいことです。」
「そういう意味じゃない!」
ずきっ。
「っ……。」
右肩を押さえる。
息が。
浅くなる。
男が。
頭を下げた。
「気分を害してしまい、申し訳ありません。」
……
少女は。
男を見る。
下げられた頭。
胸元の手。
さっきと。
同じ声。
男は顔を上げる。
「療養中とうかがっております。無理をなさらぬ方がよろしいかと。お体に障りますよ。」
黒い面が。
隣へ向く。
「O-M-1。」
びくっ。
肩が跳ねた。
「殿下を煩わせてはいけません。こちらへ来なさい。状態を確認します。」
……
隣の少女は。
動かない。
男も。
動かない。
「……嫌。」
黒い面が。
わずかに傾く。
「嫌。それは、なぜです?」
指が。
膝の上で。
開いて。
閉じる。
淡い紫の瞳が。
こちらへ向いた。
「ガゼルと。」
唇が止まる。
「いる。」
……
胸の奥が。
きゅっと縮む。
少女は。
握られた自分の服へ。
視線を落とす。
黒い面が。
こちらへ向いた。
「なるほど。」
また。
隣へ。
「ですが、状態を確認すると申し上げました。」
視線が。
床へ落ちる。
「今のあなたが通常とは異なる状態にあることは、自分でも認識しているでしょう。確認は必要です。賢いあなたなら、わかりますね?」
喉が。
小さく動く。
「……わかる。」
「では。」
「……嫌。」
顔が上がる。
眉が。
寄っている。
「わかる。」
「でも。」
「嫌。」
……
男は。
その顔を見ている。
「必要性を理解した上で、拒否しているのですね。」
返事はない。
「自分の意思を、そこまで明確に言葉にできるようになりましたか。」
黒い面が。
少女へ向いたまま。
「良い変化です。」
……
隣の少女の指が。
止まる。
少女は。
男を見る。
黒い面。
薄く開いた唇。
声。
何も。
変わらない。
「ですが、O-M-1。」
びくっ。
「これは命令です。」
身体が。
強張った。
肩。
腕。
指。
全部。
固くなる。
それなのに。
足が。
床を踏む。
「おもち?」
隣の少女が立ち上がる。
「おもち。」
もう一歩。
「行っちゃだめだよ……。」
淡い紫の瞳が。
こちらを見る。
唇が動く。
声は出ない。
指は。
身体の横で。
強く握られている。
足だけが。
前へ出る。
「おもち!」
左手を掴む。
「だめ。」
足が止まった。
冷たい。
さっきより。
冷たい。
繋いだ手の中で。
指が。
わずかに曲がる。
隣の少女は。
その手を見る。
「待て。」
父の声。
黒い面が。
そちらへ向く。
「何か?」
「誰が、その子との面会を許可した。」
父は。
男を見ている。
「私は貴殿に、この部屋へ入る許可も、その子へ接触する許可も出していない。」
父の目が。
細くなる。
「ここに姫がいることも、伝わっていたはずだ。」
「はい。承知しておりました。」
男は。
頭を下げる。
「その点につきましては、私に非がございます。申し訳ございません。」
「ならば、下がれ。」
繋いだ手が。
小さく動いた。
「……いい。」
「おもち。」
隣の少女は。
二人の手を見ている。
「私が。」
「行く。」
「だめだって!」
眉が寄る。
「あの人はおもちに嫌なことしたんでしょ……?」
「……。」
「じゃあ――」
「でも。」
顔が上がる。
男。
少女。
また。
二人の手。
「私がいく。」
「それがいい。」
「それに。」
「あの人。」
「嘘……言わない。」
「状態確認。」
「それで終わり。」
……
少女は。
その横顔を見る。
握っている手へ。
力を込めた。
「……わかった。」
「じゃあ。」
「私も行く。」
淡い紫の瞳が。
瞬きをする。
「一人では。」
「行かせないから。」
「……ガゼル。」
「確認するだけなんでしょ?」
男を見る。
「だったら。」
「私が一緒でも。」
「問題ないですよね?」
黒い面が。
こちらへ向く。
「ええ。構いません。」
「待て。」
父の声。
振り返る。
「必要性を示せ。なぜ今、その子の状態を確認する必要がある。」
男の身体が。
父へ向く。
「はい。」
「O-M-1は、施設を離れて以降、一度も正式な状態確認を受けておりません。」
黒い面が。
隣へ向く。
「魔力循環と身体構造は通常の人間とは異なります。長期間、観測を外れた状態で変化を放置することには危険があります。」
白銀の髪。
そこに混じった。
淡い色。
「加えて、現在のO-M-1には施設にいた頃には見られなかった変化があります。その原因も、身体に与えている影響も、現時点では把握できておりません。」
父は。
男を見る。
「確認とは、何をする。」
「現在の魔力状態、魔力循環、身体への負荷、以前の記録との差異。まずは、それらを確認します。」
「処置は。」
「必要であると判断した場合には、改めてご説明いたします。」
……
父の視線が。
隣の少女へ向く。
少女へ。
戻る。
「状態の確認のみ許可する。それ以上は、私の許可なく行うな。」
黒い面が。
父へ向く。
「承知しました。」
繋いだ手を離さず。
前へ出る。
男との距離が縮まった。
黒い面。
白い服。
長い髪。
見上げるくらいの距離。
少女は。
男を睨む。
「……随分と警戒されていますね。」
「当たり前です。」
「ええ。それでよろしいかと。」
「……え?」
「ご自身の立場と相手との距離を考え、安易に信用しない。良い王女教育を受けておられますね。」
……
少女の眉が。
ぴくりと動く。
「……それは。」
男を睨んだまま。
「どうもありがとうございます。」
「いえ。」
黒い面が。
隣へ向く。
「では、確認します。」
黒い面が。
隣の少女へ。
こちらへ。
色の抜けた髪。
また。
隣へ。
白銀に。
淡い色の混じった髪。
「殿下。」
「はい。」
「O-M-1へ魔法を使用しましたか?」
眉が動く。
「……使いました。」
「星癒魔法を?」
「はい。」
黒い面が。
二人を行き来する。
男が。
一歩近づいた。
隣の手を。
強く握る。
男の足が止まった。
「触れる必要はありません。」
……
少女は。
自分の手を見る。
力が。
入りすぎていた。
指を。
ほんの少し緩める。
「この変化は、単純な治癒の残滓ではありませんね。」
黒い面が。
隣へ向く。
「殿下から流れ込んだ魔力が、O-M-1側に残っている。それも、かなり深く。」
白銀の髪に混じった。
淡い色。
窓からの光に。
細い毛先が揺れる。
「通常であれば、ここまで残ることはありません。受け入れる側に、それだけの余地がなければ起こり得ないことです。」
男の頭が。
わずかに下がる。
「つまり、その時。O-M-1の魔力はほとんど残っていなかった。」
指に。
力が入る。
目の前の髪が。
あの日の。
血に濡れた髪へ重なる。
呼んでも。
返事をしなかった。
「何かありましたね。」
男の声。
顔を上げる。
「O-M-1。詳細を。」
「その呼び方。」
男を見る。
「やめてください。」
黒い面が。
止まる。
「おもちには。」
「おもちって名前があります。」
……
「そうですか。」
黒い面が。
隣へ向く。
「では、殿下に倣って。オモチと、そう呼びましょう。」
……
少女は。
男を見る。
それだけだった。
「では、改めて。オモチ。詳細を。」
隣の少女の眉が。
わずかに寄る。
少女の指も。
繋いだ手の中で動く。
隣の少女は。
繋いだ手を見た。
それから。
話し始める。
カミュに追われた。
魔力を吸われた。
身体が動かなくなった。
途切れながら。
一つずつ。
男は。
口を挟まない。
黒い面が。
ずっと。
隣へ向いている。
話が終わる。
「……カミュが。」
男の手が。
止まった。
「魔力を吸った?」
少女は。
顔を上げる。
さっきまでと。
声が違った。
黒い面が。
父へ向く。
「皆さん、カミュをご存知のようですが。どうしてでしょう?」
「王城にいた。」
「……。」
「侍女として。」
男の身体が。
止まる。
袖口の先。
指も。
動かない。
「この王城に?」
「そうだ。」
父が。
男を見る。
「では、貴殿の知っていることを話せ。」
「はい。」
男の手が。
身体の横へ戻る。
「彼女は施設に所属していた研究員です。オモチを含む実験個体の魔力、及び魔力回路に関する研究に携わっていました。」
父が。
男を見る。
「今は施設にいないのか。」
「おりません。」
「いつからだ。」
「オモチが施設から姿を消した時期と、ほぼ同じ頃です。カミュも消息を絶ちました。当時、捜索も行いましたが、発見には至っておりません。」
父の眉間に。
皺が寄る。
「二人が同時期に消えたことを、関連付けなかったのか。」
「可能性の一つとしては考慮しました。ですが、それを示すものは当時確認できませんでした。」
少女は。
隣を見る。
「じゃあ。」
「おもちは。」
「カミュのこと。」
「知らなかったの?」
首が傾く。
「……知らない。」
「その場所にいたんだよね?」
「うん。」
淡い紫の瞳が。
上へ向く。
「人はいた。」
「でも。」
「白い服。」
「それだけ。」
「顔は覚えてない。」
「人に。」
「興味。」
「なかった。」
……
少女は。
その顔を見る。
男を見る。
喉の奥が。
詰まる。
父が。
口を開く。
「そのカミュに、変わった点はなかったのか。魔力に対して。」
男は答える。
「強い関心を持っていました。そして、少々奇妙な行動も。」
「奇妙?」
思わず。
声が出る。
「ええ。検査用に採取された血液を口にする。そういった報告です。」
「施設には、研究へ没頭するあまり風変わりな行動を取る者も少なくありません。彼女も、その一人と判断しておりました。」
背中が。
冷える。
丘。
笑っていた顔。
血。
喉が。
きゅっと狭くなる。
繋いだ手へ。
力が入る。
父の声が。
低くなる。
「止めなかったのか。」
「研究に支障がある場合は、当然止めます。ですが当時、能力の行使とは認識しておりませんでした。」
黒い面が。
隣へ向く。
「オモチに強い関心を持つ研究員は非常に多かった。」
「オモチは、我々にとって奇跡そのものですから。」
隣の指が。
小さく縮む。
「奇跡って。」
男を見る。
「なんですか……。」
「長く続けてきた研究が、ようやく一つ形になった。そういう意味での奇跡です。」
……
「世界のために、施設では様々な研究を行っております。」
黒い面が。
少女へ向く。
「殿下にとっても、学ぶものは多いでしょう。ぜひ一度、施設へお越しください。」
隣から。
息を呑む音。
黒い面が。
そちらへ向く。
「オモチ。あなたの家を、殿下にも見ていただくといい。」
びくっ。
「が……。」
声が震える。
「ガゼルは。」
「だ、だめ……。」
淡い紫の瞳が。
男を見る。
指先が。
震えている。
少女の前へ。
身体が出る。
ほんのわずか。
少女は。
その背中を見る。
繋いだ手を。
両手で包む。
「そうですか。仕方ありませんね。」
男の身体が。
こちらへ向くことはない。
「しかし、血の摂取が魔力そのものを直接吸収する行為だったとは、把握しておりませんでした。」
黒い面が。
二人の髪へ向く。
「オモチの魔力をほぼすべて吸収できたのであれば。」
父が問う。
「何かわかるのか。」
「いくつか、施設で起きた異常に説明がつく可能性があります。」
男の言葉が続く。
「施設では、扉や観測装置、記録装置、区画を管理する設備、研究設備を含め、多くの機構が魔力供給を前提としております。」
扉。
少女の目が。
男へ向く。
「オモチが施設から姿を消した日、複数の設備で同時に異常が発生しました。」
父の声。
「原因は。」
「特定できませんでした。」
黒い面が。
父へ向く。
「ですが、カミュの能力が生体だけでなく周囲の魔力供給にまで干渉するものであったなら、本来自由に通れない区画を抜け、オモチが施設の外まで出られたことにも説明がつく。」
隣を見る。
淡い紫の瞳も。
男へ向いている。
少女の手の中。
指先の震えは。
いつの間にか。
止まっていた。
男は。
隣へ顔を向ける。
「では、オモチが外へ出られる状況を作ったのは。」
……
「カミュだった。」
黒い面が。
隣へ向く。
「その可能性が高いですね。」
父は。
何も言わない。
「この件は、改めて当時の記録を確認します。」
「もう一つ。」
黒い面が。
隣へ向く。
「オモチ。」
「施設を出たあと、どのようにしてここまで来たのです?」
淡い紫の瞳が。
瞬きをする。
「……わからない。」
「施設から王城までは、およそ五百キロあります。」
……
「森。」
「森?」
「うん。」
「魔獣に。」
「襲われた。」
「その後は?」
淡い紫の瞳が。
こちらへ向く。
「わからない。」
「目が覚めたら。」
「ここ。」
……
少女は。
隣の顔を見る。
「私が。」
黒い面が。
こちらへ向く。
「おもちを見つけました。」
「殿下が?」
「はい。」
「森で。」
……
男の顔が。
わずかに傾く。
「王都の近辺で、ですか?」
「えっと……。」
少女は。
父を見る。
「時々。」
「一人になりたい時に。」
言葉が。
小さくなる。
「城壁に。」
「穴があって……。」
父を見る。
……
碧色の瞳と。
目が合う。
何も言わない。
……
知ってる。
少女は。
視線を戻した。
「そこから外に出ると。」
「森があったんです。」
「何度か。」
「行ったことがあります。」
「何度ほど?」
「四……。」
指を。
わずかに動かす。
「五回くらい。」
黒い面が。
こちらを向いたまま。
動かない。
「その度に、森が?」
「はい。」
……
「でも。」
少女は。
眉を寄せる。
今になって。
引っ掛かる。
王都の外。
馬車の窓から見た景色。
街道。
建物。
遠くの山。
……
森。
「あれ……。」
「どうしました?」
「王都の近くに。」
「森なんて……。」
少女は。
父を見る。
「ない……ですよね?」
「ない。」
父が答えた。
……
少女は。
口を開いたまま。
止まる。
「では。」
「あの森は……。」
「おそらく、伝承の森だろう。」
「……伝承?」
顔を上げる。
聞いたことがない。
父は。
少女を見ている。
「《静謐と紅の森》。」
「心に迷いを抱えた者が、いつの間にか迷い込むとされる森だ。」
……
少女は。
隣を見る。
「おもちが……?」
淡い紫の瞳が。
瞬きをする。
父の声が続く。
「木々の緑に、紅が混じる森だ。」
「あ。」
思い出す。
深い緑。
その中に。
混じっていた赤。
葉。
草。
小さな花。
「……はい。」
「赤かったです。」
「とても。」
「綺麗な色で。」
……
少女は。
眉を寄せる。
「でも。」
「どうして。」
「そんな場所に。」
「私が……?」
父の目が。
こちらへ向く。
「お前は特別だ。」
「……私が?」
「王妃亡き今。」
父は。
少女を見る。
「お前が、あの森に引き寄せられたのだろう。」
……
少女は。
父を見る。
意味は。
よくわからない。
「あの。」
「私は。」
「迷ってなかったと思うのですが……。」
「自覚のない場合もあるのだろう。」
「……。」
……
「……系譜が。」
小さな声。
少女は。
男を見る。
黒い面が。
こちらへ向いている。
「そこにいたのか。」
男の指が。
顎へ触れる。
「なるほど。」
……
黒い面が。
隣へ。
こちらへ。
「それなら。」
声が。
小さくなる。
「しかし。」
「そこまでの距離を。」
「引き寄せるとは……。」
……
男の指が。
止まる。
「殿下。」
「……はい。」
「オモチを見つけた際。」
黒い面が。
こちらへ向く。
「他に、人は見ませんでしたか?」
「人……?」
あの日。
森。
逃げていった鳥。
うさぎ。
鹿。
木々の間に。
浮かんでいた光。
「……見てません。」
口を閉じる。
……
「でも。」
「声がしました。」
黒い面が。
動かない。
「声?」
「はい。」
「誰もいなかったのに。」
耳元。
あの声。
『――こっち。』
「こっちって。」
「何度か。」
「声の主は。」
「わかりません。」
「姿も見ていない?」
「はい。」
……
「それと。」
少女は。
あの日を辿る。
「光が。」
「光?」
「小さな。」
「精霊みたいな光が、たくさんいて。」
「その光が。」
「森の奥へ。」
黒い面が。
こちらへ向いたまま。
「それを追った?」
「……はい。」
「追った先に。」
隣を見る。
「おもちがいました。」
……
男の指が。
顎へ戻る。
「なるほど……。」
黒い面が。
隣へ。
こちらへ。
また。
こちらへ。
「その四、五回は、すべて同じ場所から入ったのですか?」
「はい。」
「森へ行こうと思えば、いつも穴の向こうにありました。」
「道に迷ったことは?」
「ありません。」
「森の中で、行きたい場所へ辿り着けなかったことはありますか?」
少女は。
首を傾げる。
「……ないと思います。」
……
「いつも。」
男が。
繰り返す。
「そうですか。」
……
「興味深い。」
背中が。
なんとなく。
落ち着かない。
少女は。
隣の手を握り直した。
黒い面が。
その手へ落ちる。
「……系譜そのものなら。」
ぼそり。
声が落ちる。
「いや。」
「それでも。」
「五百キロを……。」
……
何を。
言っているんだろう。
「殿下。」
「……はい。」
黒い面が。
また。
こちらへ向く。
「その声を聞いたのは。」
「オモチを見つけた日だけですか?」
「はい。」
「それ以前は?」
「聞いたことはありません。」
「そうですか。」
……
黒い面が。
こちらから。
離れない。
「……そういう意味では。」
男が呟く。
「カミュには。」
「感謝すら、すべきなのかもしれませんね。」
少女は。
眉を寄せる。
「感謝……?」
「ええ。」
黒い面が。
隣の少女へ向く。
また。
こちらへ。
「オモチが施設を出なければ、得られなかったものが随分と多い。」
……
何を。
言っているんだろう。
黒い面は。
まだ。
こちらを向いていた。
男の指が。
顎から離れる。
黒い面が。
隣へ戻る。
「さて。」
繋いでいた手が。
また。
冷たくなる。
「話が逸れました。状態の確認を続けましょう。」
男の手が。
白い服の内側へ入る。
隣の身体が。
強張った。
少女も。
身体を寄せる。
「何を……。」
銀色の輪。
首に巻けるほどの大きさ。
細い金属。
内側の素材。
埋め込まれた小さな結晶。
男の手の中で。
光を受ける。
隣の少女の息が。
止まった。
淡い紫の瞳が。
銀色の輪へ向く。
繋いだ手から。
力が抜ける。
指が。
するりと。
少女の指の間へ沈む。
「おもち……?」
男が。
輪を持ち上げた。
「以前のものは、重いと言っていましたね。」
唇が。
わずかに開く。
「今回は軽量化しました。接触部分も変更してあります。」
男の親指が。
銀色の縁を滑る。
「オモチ。」
少女の眉が動く。
「あなたの忘れ物ですよ。」
かちゃ。
「……っ。」
銀色の輪が。
首を囲んだ。
細い髪が。
金属の下へ。
数本。
挟まりそうになっている。
少女の指が。
反射的に伸びる。
「……首輪。」
掠れた声。
「えっ。」
身を乗り出す。
「ちょ、ちょっと……!」
手を伸ばしかける。
顔を見る。
血の気が。
引いている。
「おもち。」
「大丈夫?」
「痛くない?」
「苦しくない?」
淡い紫の瞳が。
こちらへ向く。
焦点が。
合う。
口が動く。
声は出ない。
「おい。」
父の声。
黒い面が。
そちらへ向く。
「それはなんだ。」
「《O-M-1専用第三種星導魔術補助装置》。その改良型です。」
「補助装置……?」
「はい。星導魔法の安定、魔力循環の補助、状態の測定。主にそれらを目的としております。」
黒い面が。
隣へ向く。
「オモチの魔力は、構造も出力も通常の人間とは異なります。その負担を軽減するためのものです。」
「だからって……。」
銀色の輪へ。
手を伸ばす。
「勝手につけないでください!」
指を掛ける。
冷たい。
引く。
動かない。
反対側へ。
指を滑らせる。
留め具。
見つからない。
「……どこ。」
「無理に触らない方がよろしいかと。」
男を見る。
「外してください。」
「私が外す必要はありません。」
「あります!」
「その装置は、設定された管理者、あるいは装着者本人の意思によって解除できます。」
指が止まる。
「本人……?」
「ええ。構造を理解していない者が無理に取り外す方が危険です。魔力の流れを乱せば、オモチの身体に負担が掛かりますから。」
少女の指が。
銀色から離れる。
冷たさだけが。
指先に残る。
隣の少女は。
首元へ触れている。
銀色の輪を。
指が辿る。
一周。
途中で止まる。
また。
動く。
「おもちなら。」
男を見る。
「外せるんだよね?」
「はい。」
「おもち。」
淡い紫の瞳が。
こちらへ向く。
「外そ?」
……
視線が。
少女。
男。
銀色の輪へ。
指が掛かる。
親指が。
何かを探る。
……
動かない。
「おもち……?」
「外せない?」
眉が寄る。
首が。
わずかに横へ動く。
少女は。
その顔を見る。
「じゃあ……。」
声が止まる。
銀色の輪へ掛かった指が。
離れる。
また。
触れる。
「おもち。」
……
胸が。
苦しい。
「……その首輪が。」
「外せなくしてるんだよね……?」
「違います。」
男の声。
「この装置に、オモチの意思へ干渉する機能はありません。」
「じゃあ……。」
隣を見る。
「どうして。」
「外さないの……?」
「オモチの意思ですよ。」
少女は。
男を見る。
黒い面。
変わらない口元。
「……どうして。」
声が。
震える。
「どうして。」
「そんなこと。」
「言い切れるんですか。」
男の手が。
伸びた。
銀色の輪へ。
「触らないで――」
指が。
輪に掛かる。
ほんのわずかに。
引く。
その力が。
首へ掛かるより先に。
足が。
前へ出た。
「……っ。」
冷たい指が。
手の中から滑る。
「おもち!」
「手を離せ。」
父の声。
男の指が。
銀色の輪から離れる。
隣の少女は。
男のすぐ傍で。
立ち止まった。
男との距離。
ほんの一歩。
淡い紫の瞳は。
こちらへ向いている。
指先が。
震えていた。
「必要であるなら受け入れる。不要であるなら排除する。」
男が言う。
「そう判断できるように。」
肩が。
小さく揺れる。
「そういう風に、作りましたから。」
……
少女の唇が。
開く。
息だけが。
出る。
隣の少女も。
動かない。
黒い面が。
その横顔へ向く。
「よくできているでしょう。」
……
隣の少女の指が。
強く握られる。
白い指先が。
手のひらへ沈む。
足が。
こちらへ向く。
一歩。
戻ってくる。
男は。
白い外套を整えた。
「さて。状態も確認できました。」
黒い面が。
一度。
父へ向く。
「カミュについても有益な情報を得られましたから、ここへ来た目的も達成できました。」
扉へ身体を向ける。
「では、失礼します。」
「待て。」
足が止まる。
「はい。」
父が。
立ち上がった。
「貴殿は、私と来い。」
黒い面が。
父へ向く。
「まだ話すことがある。」
「承知しました。」
男が。
隣の少女へ顔を向ける。
「O-M-1。」
びくっ。
「そちらの装置を装着しておけば、二日ほどで状態は安定します。」
黒い面が。
首元の銀色の輪へ向く。
「魔力も、七十八パーセント程度までは回復する見込みです。」
……
「それでも――」
「いい加減にしろ……。」
「続きは歩きながら聞く。」
父の声。
男の言葉が止まる。
「来い。」
……
「承知しました。」
父が。
扉へ向かう。
途中で。
足を止めた。
「姫よ。」
「……はい。」
父の目が。
隣の少女へ向く。
少女へ戻る。
「この場は、問題ないな?」
少女は。
父を見る。
……
口が。
わずかに開く。
けれど。
声は出ない。
隣を見る。
銀色の輪。
震えの残る指。
淡い紫の瞳。
こちらを見ている。
少女は。
息を吸った。
「……はい。」
「そうか。」
扉が開く。
父が出る。
男が続く。
白い外套の裾が。
扉の向こうへ消える。
扉が。
閉じた。
……
少女は。
閉じた扉を見る。
もう。
黒い面はない。
身体から。
力が抜ける。
「……っ。」
膝が折れた。
床へ。
へたり込む。
右肩が。
ずきずきする。
「ガゼル。」
足音。
顔を上げる。
隣の少女が。
こちらへ来る。
一歩。
足が止まる。
また。
動く。
目の前へ。
しゃがみ込む。
「……平気?」
……
首には。
銀色の輪。
指先は。
まだ震えている。
少女の眉が。
歪む。
「……おもちの方こそ。」
声が。
掠れる。
「ごめんね……。」
淡い紫の瞳が。
瞬きをする。
「ガゼル。」
「私。」
口が止まる。
手が。
自分の首元へ触れる。
少女も。
そこを見る。
手を伸ばす。
銀色の輪の前で。
止まる。
その下。
肩へ触れる。
「痛くない?」
「……うん。」
「苦しくない?」
喉が。
小さく動く。
「……平気。」
「……そっか。」
隣の少女が。
横へ座る。
左腕に。
隣の腕が触れた。
服越しの温度。
少女の肩から。
力が抜ける。
「ガゼル。」
「……うん。」
「元気……ない。」
返事をしようとして。
顔を見る。
淡い紫の瞳。
淡い色の混じった髪。
銀色の輪。
視線が。
止まった。
隣の少女も。
その視線を追う。
首元へ。
指が触れる。
「……ガゼルは。」
「これ。」
指先が。
銀色を辿る。
「嫌……?」
「え。」
……
少女は。
銀色の輪を見る。
隣の少女を見る。
また。
輪へ。
口を開く。
閉じる。
「私……。」
声が。
続かない。
隣の少女は。
こちらを見ている。
……
手が。
首元へ添えられる。
指が。
縁へ掛かる。
「おもち?」
かち。
銀色の輪が。
外れた。
白銀の髪が。
首元へ落ちる。
少女は。
目を見開く。
隣の少女の手の中。
銀色の輪。
その指が。
輪を持ったまま。
止まっている。
隣の少女は。
それを見る。
こちらを見る。
「ガゼル。」
「これで。」
「……大丈夫?」
……
違う。
こんなことを。
させたかったんじゃない。
唇を。
強く噛む。
右手が。
拳になる。
そのまま。
床へ。
叩きつけた。
「っ……!」
ずきん。
右肩から。
腕の奥まで。
痛みが走る。
身体が。
折れる。
「ぅ……。」
右肩を抱えるように。
うずくまる。
痛い。
息が。
できないくらい。
痛い。
それでも。
握った拳は。
開かなかった。
ぽた。
床に。
一滴。
落ちた。
……
もう一滴。
「ガゼル……。」
隣の少女の声。
顔を。
上げられない。
銀色の輪が。
床へ置かれる。
硬い音が。
足元で鳴った。
すぐに。
手が伸びてくる。
けれど。
右肩へ触れる前で。
止まる。
握った拳へ。
指先が近づく。
また。
止まる。
行き先をなくした手が。
震えている。
「ガゼル。」
「痛い……?」
……
唇を。
もっと強く噛む。
また。
涙が落ちる。
「ガゼル……。」
「ごめん……なさい。」
今度は。
さっきより。
近い声。
冷たい指が。
左手へ触れる。
ためらうように。
それでも。
握る。
その手まで。
震えていた。
……
少女は。
握り返せなかった。
顔も。
上げられなかった。
ただ。
涙だけが。
止まらなかった。
繋がれた手を。
離すことも。
できなかった。
……
床には。
外された銀色の輪が。
残っていた。




