朱の跫音を追って
城門を抜けた。
その瞬間、音が近くなった。
馬車の車輪。
馬の蹄。
人の声。
店先から飛ぶ呼び込み。
どこかで金属を叩く音。
その全部が、城壁の内側で聞いていたものよりずっと近い。
少女はほんの少し足を止めた。
……
見たことはある。
前に、お母様と馬車に乗ってこの町を通った。
祭の日。
窓の向こうには、たくさんの人がいた。
みんな私達を見ていた。
手を振って、楽しそうに笑っていた。
……
今は誰も私を見ていない。
少女の横を、籠を抱えた女性が通り過ぎる。
少し遅れて、大きな袋を肩へ担いだ男。
その向こうでは、小さな子供が誰かの手を引いて走っている。
誰も、灰色の外套を着た少女へ目を留めない。
少女は自分の胸元を見た。
灰色の布。
その下にはいつもの服。
紅い髪も、外套とフードの内側に隠れている。
……
こんなふうに。
町の中へ立ったことはなかった。
「こちらへ。」
声に顔を上げる。
少し先で、姉が振り返っていた。
……
姫様。
とは呼ばなかった。
姉は少女のところまで戻ってくると、片手を差し出した。
「人が多いですから。」
少女はその手を見る。
小さい頃から何度も握ったことのある手。
何も言わずに重ねると、姉の指がすぐに握り返した。
「離れないでくださいね。」
「うん。」
二人は歩き出した。
城門から伸びる大きな通り。
左右には店が並んでいる。
布。
食べ物。
魔道具。
花。
紙。
色も、匂いも、声も、一つを見ればすぐ隣のものが目に入る。
少女の視線が右へ、左へ動いた。
店先では、看板の縁に嵌め込まれた小さな魔石が順番に光っている。
青。
白。
また青。
少し先を、馬の引く荷車が通った。
車輪の軸には細い術式。
淡い光が回転に合わせて流れている。
……
補助術式。
授業で似たものを見たことがある。
教本の中では止まっていた線が、目の前では車輪と一緒に動いている。
少女は通り過ぎる荷車を少しだけ目で追った。
前から一人の男が歩いてくる。
濃い色のローブ。
手には背丈ほどもある長い杖。
先端には磨かれた石があり、男が歩くたび、その奥で薄く光が揺れる。
……
魔法使い。
王城にも何人も来る。
式典で見たこともある。
けれど、こんなふうに普通に道を歩いているのを見るのは初めてだった。
そのすぐ後ろから、少女とそう変わらないくらいの子供たちが三人歩いてくる。
同じ形の短い外套。
肩には教本の入った鞄。
腰には細い杖。
一人が何かを言いながら指先で小さな術式を描き、隣の子がすぐその手を叩いた。
「道でやるなって。」
「まだ何もしてないって。」
「先生に見つかったら怒られるぞ。」
三人の声が遠ざかっていく。
少女はその背中を見送った。
魔法学校の学生かな。
まだ小さい。
私と、そんなに変わらない。
……
おもちも。
この町を一人で歩いた。
少女は前を見る。
こんなものも見たのかな。
魔法使いも。
学生も。
看板も。
荷車も。
知っていたのかな。
少女の足が少し速くなる。
姉も歩幅を合わせた。
少女が車道側へ寄るたび、姉が何も言わず位置を入れ替える。
気づけば、いつも少女が建物側にいる。
繋いだ手は、そのままだった。
「まず。」
姉が前を向いたまま言う。
「近くの詰所へ向かいます。」
少女は頷いた。
「うん。」
「王城から。」
「すでに。」
「保護要請が回っているはずです。」
「何か情報が入っていれば。」
「そこから。」
「おもち様の足取りを。」
「辿ることができます。」
……
足取り。
少女は通りの先を見る。
人。
馬車。
道。
その向こうには、また道。
どこへ行ったのか。
何を見たのか。
誰と話したのか。
今はまだ何もわからない。
でも、おもちはこの町のどこかを歩いている。
「急ごう。」
「はい。」
少女の手に少しだけ力が入り、姉の手もすぐに握り返した。
◇
大通りをしばらく進むと、道の角に王国章の刻まれた小さな建物が見えた。
入口には騎士が二人。
壁には周辺の地図と、何枚かの紙。
姉は少女の手を握ったまま、そちらへ向かった。
「失礼いたします。」
一人の騎士が顔を上げる。
「はい。」
姉は声を落とした。
「先ほど。」
「王城より。」
「白銀の髪の少女について。」
「保護要請が届いているかと思います。」
騎士が一度瞬きをする。
「ああ。」
「届いています。」
少女の足が止まった。
「何か。」
姉が続ける。
「情報は。」
「入っておりますか。」
騎士は机の上に置かれた一枚の紙へ目を向けた。
「あ。」
指が文字の上で止まる。
「一件。」
少女の指が姉の手を握り直した。
「少し前に。」
「王都総合案内所から。」
「特徴の一致する子供を。」
「確認したと。」
……
少女が顔を上げる。
「いたんですか?」
騎士の視線が少女へ向き、一瞬だけ隣の姉を見る。
「……はい。」
「白銀色の長い髪。」
「十歳ほど。」
「少し。」
「紫がかって見える髪色。」
……
おもち。
胸の奥が、大きく鳴った。
「いつですか?」
「まだ。」
「それほど時間は経っていません。」
「今も。」
「そこにいるんですか?」
騎士が紙の続きを見る。
「いえ。」
少女の指が止まった。
「王城へ連絡を入れようとしたあと。」
「建物を出たそうです。」
……
また。
少女の眉が寄る。
「おもち……。」
姉が小さく息を吐いた。
「案内所は。」
「ここから。」
「どちらですか。」
騎士が地図へ手を伸ばす。
「この道を。」
「しばらく真っ直ぐ。」
指が進む。
「二つ目の大きな交差路を。」
「右です。」
「そこから。」
「水路沿いを進めば。」
「大きな建物が見えます。」
姉が位置を確かめる。
「ありがとうございます。」
「いえ。」
騎士はもう一度紙を見る。
「それと。」
姉が顔を上げた。
「服装が。」
「王城から聞いていたものと。」
「違うそうです。」
少女も騎士を見る。
「違うんですか?」
「はい。」
「詳しくは。」
「案内所の職員へ。」
「直接聞かれた方が。」
「よろしいかと。」
……
少女は城門の騎士の言葉を思い出す。
侍女服。
そのまま外へ出た。
それが、もう変わっている。
どこで。
どうして。
……
本当に。
ずっと動いてる。
「行きましょう。」
姉の声に、少女はすぐ頷いた。
「うん。」
二人は詰所を出て、再び人の流れへ入った。
◇
さっきより、少しだけ町がわかる。
道の端。
人が歩くところ。
馬車が通るところ。
角には行き先を示す札があり、店の上にはそれぞれ違う看板がある。
それでも人は多い。
少女は姉の手を離さなかった。
前から大きな箱を抱えた男が来る。
姉が手を引き、少女を半歩だけ建物側へ寄せる。
男が通り過ぎれば、また前へ。
少女は少しだけ姉を見た。
「セレス。」
「はい。」
姉はすぐに顔を向ける。
少女は繋いだ手を見る。
「……なんでもない。」
「そうですか。」
姉はそれ以上聞かず、また前を向いた。
……
おもちも。
誰かと手を繋いでたら、よかったのに。
前に、おもちは言っていた。
ガゼルが手を握ってくれてる時。
胸の奥が落ち着くって。
……
今。
誰かがおもちの手を握ってくれてたらいいのに。
少女の視線が少しだけ下がる。
でも。
今。
おもちの隣には。
誰もいない。
少女は前を見た。
「急ごう。」
「はい。」
歩幅を少しだけ大きくする。
やがて、大きな交差路へ出た。
人の流れが四つに分かれている。
角には長い杖を持った女性。
その向かいには、腰へ短い杖を下げた男。
少し離れたところには、同じ色の外套を着た五人ほどの若者がいる。
一人は分厚い教本を抱え、一人は小さな箱を両手で持っていた。
箱の側面には簡易術式の封。
……
また魔法学生。
少女は一瞬だけそちらを見る。
教本。
杖。
術式。
どれも王城の授業で知っている。
けれど、その全部が町の中で普通に使われ、運ばれ、誰かの日常になっている。
知ってるものなのに。
知らない。
少女は少しだけ目を細めた。
おもちも、こんなふうに見ていたのかな。
知っているものと。
知らないものが。
一緒に並ぶ町を。
姉の手が少しだけ少女を引いた。
「こちらです。」
「うん。」
右へ曲がる。
水の音。
建物の間を細い水路が流れている。
橋を渡った先に、人の出入りする大きな建物が見えた。
入口の上には文字。
――王都総合案内所。
少女の足が速くなる。
「ここ。」
「はい。」
姉と一緒に数段の階段を上る。
扉の前で、少女が手を伸ばしかけた。
その前に脇の魔石が光る。
すう。
二枚の扉が左右へ開いた。
少女の手が宙で止まる。
「……ほんとに開いた。」
姉が一度、少女を見る。
少女も姉を見た。
「さすがでございます。」
「大げさだよ。」
「いえ。」
「とても感激しております。」
「茶化さないで。」
少女は少しだけ頬を膨らませる。
「授業で習ったから。」
「このくらい当たり前だもん。」
姉の口元が少し緩む。
「世界で一番お上手です。」
「もう。」
二人は中へ入った。
◇
人。
紙。
地図。
いくつもの窓口。
外とは違うざわめき。
少女は一度、辺りを見回した。
……
おもち。
ここに来た。
姉の手が離れる。
少女の指もゆっくりと下りた。
二人は並んで近くの窓口へ向かう。
「失礼いたします。」
「はい。」
台の向こうで、一人の女性がこちらを見る。
姉は軽く頭を下げた。
「先ほど。」
「白銀の髪の少女について。」
「王城へご連絡を。」
「いただいたと伺いました。」
女性の目が少し大きくなる。
「王城から……。」
姉は小さく頷いた。
「保護要請に関わる者です。」
「ああ。」
女性も頷く。
「でしたら。」
奥へ手を向ける。
「先ほどの子に。」
「待っていてもらった部屋がありますので。」
「そちらで――」
「申し訳ありません。」
姉の声に、女性の手が止まった。
「恐れ入りますが。」
「こちらで。」
「お願いいたします。」
「え?」
姉は奥へ続く通路へ一度だけ視線を向けた。
「少々。」
「事情がありまして。」
「個室や。」
「人目の少ない場所へ。」
「移ることはできませんので。」
……
女性は姉を見て、その隣に立つ灰色の外套の少女へ視線を移した。
「……わかりました。」
少し首を傾げながら頷く。
「では。」
「対応した者を。」
「呼んでまいりますね。」
「お願いいたします。」
女性が奥へ向かう。
少女はその背中を見た。
「セレス。」
「はい。」
「ここで話すの?」
「はい。」
姉は窓口や職員、行き交う人へ視線を巡らせる。
「こちらの方が。」
「何かあった際に。」
「周囲の目があります。」
少女も辺りを見た。
「……そっか。」
「はい。」
少しして、奥から一人の女性が歩いてきた。
髪が僅かに乱れている。
少女と姉を見ると、そのままこちらへ近づいた。
「お待たせしました。」
姉へ頭を下げる。
「私が。」
「捜索中の子の対応をしました。」
姉も軽く頭を下げる。
「ありがとうございます。」
「まず。」
「確認させていただきたいのですが。」
「はい。」
姉が女性を見る。
「王城を出た時とは。」
「服装が変わっていたと。」
「伺っております。」
「ああ。」
女性はすぐに頷いた。
「そうなんです。」
「長いローブを着てました。」
少女が顔を上げる。
姉は続けた。
「どのようなものか。」
「覚えていらっしゃいますか?」
「ええっと……。」
女性は少し上を見る。
「深い青から。」
「紫に。」
「色が変わっていくような。」
「そんな色で。」
「銀色の。」
「星みたいな模様が。」
「たくさん入ってました。」
……
星。
少女の目が少し開く。
「フードも。」
「かなり深く被っていて。」
「最初は。」
「髪も。」
「ほとんど見えなかったんです。」
姉が小さく頷いた。
「白銀の髪は。」
「確認されましたか?」
「はい。」
「王城から。」
「特徴を聞いたので。」
「一度。」
「外してもらいました。」
女性は少女を見る。
「白銀の長い髪。」
「少し紫がかっていて。」
「年齢も。」
「十歳くらい。」
「聞いていた特徴と。」
「一致してました。」
……
間違いない。
「それと。」
女性が少し眉を寄せる。
「そのローブ。」
「なんというか……。」
「妙に。」
「ほこりっぽくて。」
少女が瞬きをした。
「……ほこりっぽかったんですか?」
「はい。」
「見た目は。」
「すごく立派なんですけど。」
「近くに来ると。」
「ちょっと。」
「古い布みたいな匂いがして。」
……
少女は少し首を傾げた。
どこで、そんなものを。
「そのローブを。」
姉が尋ねる。
「どこで手に入れたのか。」
「聞いていらっしゃいますか?」
「それが。」
女性は首を横へ振った。
「そこまでは。」
「聞いてないんです。」
「そうですか。」
「はい。」
姉は一度目を伏せ、それから女性を見た。
「こちらへ来た目的は。」
「聞いておりますか?」
「ああ。」
女性が頷く。
「それは聞きました。」
「人を。」
「探してるって。」
少女が女性を見る。
「人……ですか?」
「はい。」
「賢人。」
……
少女の目が大きく開く。
「……賢人、ですか?」
「はい。」
「古い時代の魔法を。」
「研究してる人を。」
「探してるって言ってました。」
……
エステラの声が頭の中へ戻る。
魔法都市。
王立学園。
そして、古い時代の魔法を研究する賢人。
宰相が言っていたのは、そこに記録が残っているかもしれないということだけだった。
名前も。
場所も。
何も知らない。
それなのに。
おもちは城を出て、知らない町を歩いて、案内所を探して、知らない人へ尋ねた。
本当に。
探してる。
少女の口が少し開く。
「本当に。」
「探してる……。」
女性が少し首を傾げる。
「ちょっと。」
「気になってたんですけど。」
姉が女性を見る。
「あの子。」
女性が声を少し落とす。
「どこかの。」
「令嬢か何かなんですか?」
……
少女の目が僅かに動く。
姉は表情を変えない。
「なぜ。」
「そう思われたのですか?」
「だって。」
女性は指を一本立てる。
「王城が。」
「あんなに探してるでしょう?」
もう一本。
「それに。」
「髪も。」
「すごく目立つし。」
「着てたローブも。」
「ほこりっぽいのに。」
「仕立ては。」
「すごくしっかりしてて。」
少女は黙って聞く。
「でも。」
女性は眉を寄せた。
「それにしては。」
「無頓着というか……。」
「自分が。」
「どう見られてるか。」
「全然。」
「気にしてない感じで。」
……
たぶん。
気にしてない。
少女の口元がほんの少し動く。
「だから。」
女性は小さく首を傾げる。
「令嬢なのか。」
「そうじゃないのか。」
「全然。」
「わからなくて。」
少女は少しだけ視線を落とした。
女性は首を傾げたまま少女を見る。
少し間を置いて、女性が思い出したように眉を寄せる。
「それにしても。」
「ほんっと。」
「大変だったんですよ。」
少女が女性を見る。
「何かあったのですか?」
「まず。」
女性は指を一本立てる。
「待っててって言っても。」
「出ていこうとする。」
少女の眉が少し寄った。
「それで。」
「止めたら。」
「今度は。」
女性の声が少し大きくなる。
「王様が来たって。」
「嘘までつくんですよ!?」
……
少女の目が止まる。
「嘘……?」
「そう。」
「嘘。」
女性は大きく頷いた。
「後ろにいるって。」
「私も。」
「一瞬。」
「えっ!?」
「ってなったんですけど。」
……
少女は何も言わない。
嘘。
さっき。
城門で初めて聞いた。
おもちが、自分から嘘をついたって。
ガゼルと城下町に行く。
先に外で待っていてと言われた。
全部、嘘。
……
あのおもちが。
……
まだ、うまく繋がらない。
「それで。」
女性は続ける。
「嘘でしょって言ったら。」
「嘘じゃないって。」
「じゃあ何って聞いたら。」
肩を竦める。
「冗談って。」
……
少女の目が少し大きくなる。
冗談。
それも。
さっき。
城門で聞いたばかりだった。
王様が。
まずは知れって怒ったのは。
冗談。
……
今度は。
自分で。
冗談って言った。
少女は少しだけ口元へ手を当てる。
……
冗談。
「はい。」
「真顔で言うんですよ。」
……
おもちが嘘をつく。
おもちが冗談を言う。
同じことを、ここでもしてる。
少女の眉が少し寄った。
……
いつの間に。
女性は一度瞬きをする。
「それでも。」
「出ていこうとするから。」
両腕を組む。
「もう。」
「抱えて。」
「止めたんです。」
少女の手が止まった。
「抱えたんですか?」
「はい。」
「だって。」
「全然。」
「言うこと聞いてくれないから。」
……
城門でも抱えられていた。
ここでも。
少女は姉を見る。
姉も少女を見る。
「……。」
「……。」
「それで。」
女性が続ける。
「別の子供の対応を。」
「手伝ってって呼ばれて。」
「絶対。」
「ここにいてくださいねって。」
「ちゃんと言ったんですよ?」
少女は小さく頷く。
「はい。」
「絶対って。」
「念まで押して。」
「それなのに。」
女性は両手を広げた。
「私が戻ってきた頃には。」
「いませんでした。」
……
少女はゆっくり片手を額へ当てる。
「……おもち。」
「でしょう!?」
女性が一歩近づく。
「ひどくないですか!?」
「私。」
「けっこう頑張ったんですよ!?」
少女の眉が少し下がった。
「……すみません。」
「え?」
「おもちが。」
「ご迷惑を。」
「かけました。」
女性の口が止まる。
「あ。」
「いや。」
「そういうつもりじゃ。」
「いいえ。」
少女は小さく頭を下げた。
「ありがとうございます。」
「止めてくださって。」
……
女性が少女を見る。
少女は頭を上げた。
女性の視線が、そのまま止まる。
さっきより少し長い。
やがて視線が少女の足元へ落ちた。
きちんと揃えられた靴。
灰色の外套。
その隙間から見える、淡い色のドレスと細かな刺繍。
少女は背筋を伸ばしたまま女性を見る。
視線がゆっくり上へ戻ってくる。
フードの横から僅かに零れた紅い髪。
翡翠の瞳。
……
女性の視線が少女から姉へ移る。
侍女服。
丸眼鏡。
そして、また少女へ。
「……あれ?」
少女が首を傾げる。
「?」
女性の口が少し開いた。
「もしかして。」
……
「ひめさ――」
「わっ。」
少女は慌てて、自分の口元へ人差し指を立てた。
「しーっ!」
女性の口が止まる。
少女はそのまま小さく首を横へ振った。
「お願いします。」
「言わないでください。」
「……。」
女性が一度頷く。
もう一度。
姉は丸眼鏡の位置を直した。
「ご理解いただけたようで。」
「はい!」
声が少し高くなった。
少女は女性を見る。
さっきまで腰へ置かれていた手が、身体の前で揃えられている。
背筋もまっすぐ。
少女は少しだけ身を引いた。
「それで。」
「その子が。」
「ここを出たあと。」
「どちらへ向かったか。」
「わかりますか?」
「はい!」
女性の背筋がさらに伸びる。
それから、深く頭を下げた。
「申し訳ございません。」
「わかりません!」
……
少女は瞬きをする。
「そ、そうですか。」
「大変。」
「申し訳ございません。」
「いえ。」
少女は慌てて手を振った。
「謝らないでください。」
「こちらが。」
「ご迷惑をかけていますので。」
「……はい。」
女性が顔を上げる。
「ありがとうございます!」
……
少女は少しだけ首を傾げた。
姉の口元が僅かに緩む。
少女はすぐにそちらを見る。
「セレス。」
「はい。」
「笑ってる?」
「いいえ。」
「笑ってる。」
「そのようなことは。」
「ございません。」
……
女性は二人を交互に見ている。
何も言わない。
けれど、さっきより少女へ向く視線が多い。
少女は小さく息を吐き、入口へ目を向けた。
……
おもち。
ここまでは来た。
賢人を本当に探していた。
名前も場所も知らないのに。
自分でここまで来て、人に聞いた。
「……すごい。」
声が零れる。
姉が少女を見る。
少女は入口を見たまま続けた。
「でも。」
「やっぱり心配は心配だよ!」
「はい。」
「見つけたら。」
「絶対に言う。」
「どこかに行くなら。」
「ちゃんと言ってって。」
「私だっておもちのこと大切に思ってるのに!」
「はい。」
「前にも言った。」
「はい。」
「でも、またやった。」
「はい。」
少女は姉を見る。
「……やっぱり。」
「笑ってる。」
「いいえ。」
少女は少し頬を膨らませた。
姉は女性へ向き直る。
「ご対応いただき。」
「ありがとうございました。」
「いえ!」
女性は深く頭を下げた。
「少しでも。」
「お役に立てたなら。」
姉も頭を下げる。
「それでは。」
「失礼いたします。」
少女も女性へ向き直り、小さく頭を下げた。
「ありがとうございました。」
「……!」
女性の目が少し大きくなる。
「はい!」
少女は姉と並んで入口へ向かった。
脇の魔石が淡く光る。
すう。
二枚の扉が左右へ開いた。
外から人の声と、馬車の音と、陽の光が入る。
二人はその中へ出た。
扉が閉じる。
◇
女性はしばらく、閉じた扉を見ていた。
隣へ、最初に対応した女性が近づいてくる。
「どうだった?」
「……。」
「?」
女性はゆっくりそちらを見る。
「私。」
「姫様と。」
「話しちゃった……。」
「……え?」
「姫様。」
「すごく。」
「かわいかった……。」
「えっ。」
もう一人の女性が閉じた扉を見る。
「ちょっと。」
「どういうこと?」
「ほんとに。」
「姫様だった……。」
「だから。」
「どういうこと!?」
◇
水の音。
高く上がった細い水が、陽の光を受けて白く散る。
少女は噴水を見上げた。
広場の真ん中に大きな噴水。
周囲には、腰掛ける人。
話をする人。
水辺で遊ぶ子供。
風が吹くと、細かな水が頬へ届いた。
「冷たい。」
少女は少し目を細める。
……
涼しい。
姉は噴水の周囲を一度見回し、それから道の先へ視線を向けた。
「ここからですと。」
「ギルドが。」
「そう遠くありません。」
少女が姉を見る。
「ギルド?」
「《王国職業斡旋協会》です。」
少女は首を傾げた。
「お仕事を。」
「探すところ?」
「はい。」
姉は小さく頷く。
「仕事の斡旋だけでなく。」
「冒険者や。」
「魔法に関わる職の方も。」
「多く出入りします。」
……
魔法使い。
少女は案内所で聞いた言葉を思い出す。
賢人。
古い時代の魔法。
姉が道の先を見る。
「そちらにも。」
「向かってみましょう。」
少女はすぐに頷いた。
「うん。」
二人は噴水を離れた。
背後の水音が、少しずつ遠ざかる。
通りへ戻ると。
陽はもう、建物の向こうへ傾き始めていた。
石畳の上へ長い影が伸び。
店先では。
一つ。
また一つ。
魔石の灯りが点き始めている。
「ギルドは。」
少女は隣を見る。
「遠い?」
「いえ。」
姉は前を向いたまま答える。
「ここからでしたら。」
「それほど――」
前から。
人が走ってきた。
少女は少しだけ身体を避ける。
男はそのまま。
二人の横を駆け抜けていった。
その後ろから。
もう一人。
さらに。
二人。
少女は振り返る。
みんな。
同じ方向から来ている。
「……何かあったのかな。」
姉も通りの先を見る。
「そうですね。」
二人はそのまま歩く。
少し先。
人の数が増えていた。
けれど。
さっきまでとは違う。
足を止めている人。
道の先を覗き込んでいる人。
誰かと話している人。
その横を。
騎士が二人。
早足で通り抜けていく。
少女の視線が追う。
「騎士……。」
「ええ。」
その時。
前を歩いていた二人の声が聞こえた。
「ギルドで爆発があったらしいぞ。」
少女の歩みが。
少しだけ遅くなる。
「爆発?」
「なんか設備が破裂したとか。」
「魔石じゃないのか?」
「知らないよ。」
「でも。」
「怪我人がかなり出たって。」
……
怪我人。
少女は通りの先を見る。
人だかり。
その向こう。
まだ。
建物は見えない。
姉の歩幅が。
少しだけ速くなった。
「行きましょう。」
「うん。」
二人も歩みを速める。
すれ違う人が増えていく。
服を汚した人。
腕へ布を巻いた人。
頬へ薄く血をつけた人。
白い鞄を抱えた女性が、少女たちの横を急いでいった。
その後ろから。
別の女性が。
布や瓶を抱えて続く。
「治療師……。」
少女が呟く。
姉は何も言わない。
ただ。
前を見る。
また。
声。
「窓まで割れたってよ。」
「そんなにひどいのか?」
「中にいた人が結構巻き込まれたらしい。」
「子供もいたって。」
少女の足が。
止まりかける。
……
子供。
「……セレス。」
「はい。」
「急ごう。」
返事を待たず。
少女は駆け出した。
「お待ちください!」
姉の声が。
すぐ後ろから追ってくる。
少女は走る。
人の横を。
荷車の脇を。
空いたところを抜けていく。
少し先。
人だかりが。
大きくなる。
その向こう。
建物。
扉の前には。
何人もの騎士。
「下がってください!」
「入口を空けて!」
「治療師を通してください!」
声が飛び交っている。
少女の目が。
建物へ向く。
窓。
割れている。
一枚だけではない。
何枚も。
枠だけを残して。
なくなっているところもある。
地面には。
細かな破片。
紙。
木片。
誰かの荷物。
騎士が人を外へ誘導し。
その間を。
治療師が行き来している。
少女は息を切らしながら、人だかりの中へ入った。
「失礼します……!」
身体を横にする。
大人と大人の隙間。
するり。
抜ける。
「お待ちください!」
後ろ。
姉の声。
その時。
治療師を通すため。
入口の前が開いた。
少女は。
その隙間へ滑り込む。
建物の中へ。
足を踏み入れる。
……
少女の足が。
止まった。
椅子が倒れている。
机は大きくずれ。
床には細かな破片が散っている。
壁際。
亀裂。
天井から落ちたらしい欠片も。
いくつか。
床へ転がっている。
焦げた匂い。
舞った埃。
「こちらへ!」
治療師の声。
壁際。
何人もの人が。
治療を受けていた。
頭へ布を巻いた男性。
腕を押さえている女性。
その隣。
少女の視線が止まる。
金色の髪の女の子。
頬へ。
白い布を当てられている。
膝の上には。
茶色い。
くまのぬいぐるみ。
近くには。
桃色の髪。
眼鏡をかけた女の子。
手には。
包帯。
……
私くらいの子まで。
少女の指が。
外套を掴む。
「おもち……。」
奥。
人が集まっている。
騎士。
ギルドの職員らしい人。
治療師。
その向こう。
何か。
大きなものが。
倒れている。
肩へ。
手。
姉だった。
少女は奥を見る。
「あれ。」
「おそらく。」
姉も同じ方を見る。
「事故のあった場所でしょう。」
少女の足が動く。
一歩。
「待ってください。」
腕を掴まれた。
「セレス、離して。」
姉の手に。
少し力が入る。
「これ以上は危険です。」
「建物自体の安全が。」
「まだ確認されておりません。」
「一度。」
「外へ――」
少女の視線が。
床へ落ちる。
……
破片の下。
布。
深い青から。
紫へ。
色を変える布。
その上。
銀色の星。
……
少女の目が。
止まる。
「……おもち。」
そのすぐ横。
赤。
姉の声が。
止まった。
少女も。
動かない。
床。
壊れた器具のそば。
そこだけ。
色が違う。
……
血。
一滴や。
二滴ではない。
何度も。
同じ場所へ。
滴り落ちたように。
赤が重なっている。
床の目地へ入り込み。
薄く。
横へ広がっている。
まだ。
完全には乾いていない。
……
少女の目が。
動く。
その周り。
砕けた魔石。
金属片。
割れた器具の欠片。
そのいくつかにも。
赤。
飛び散っている。
……
そして。
血だまりの端から。
少し離れた場所へ。
一滴。
その先。
もう一滴。
……
続いている。
姉の声が。
低い。
「この出血量……。」
そこで。
言葉が止まった。
少女の腕を掴む指に。
僅かに。
力が入る。
……
少女は。
血を見る。
一滴。
その先。
さらに。
赤。
「……おもち。」
姉の手が。
腕を掴んでいる。
少女は。
そこを見ない。
「おもち!!」
腕を振りほどいた。
「姫様!」
走る。
入口へ。
外へ。
その勢いで。
外套のフードが。
後ろへ落ちた。
長い紅髪が。
広がる。
少女は気づかない。
「姫様、お待ちください!」
後ろから。
姉の声。
人が振り返る。
一人。
二人。
それから。
何人も。
「あれ……。」
「赤い髪……。」
「姫様?」
少女の足が。
ほんの一瞬。
鈍る。
「え。」
「姫様だ!」
「えっ、姫様!?」
声が。
一気に広がった。
少女はようやく。
自分の頭へ手をやる。
フード。
落ちている。
「……っ。」
急いで掴む。
深く。
被る。
けれど。
周囲の声は止まらない。
少女を見ようとする人。
慌てて道を空けようとする人。
頭を下げる人。
横へ退こうとして。
別の人とぶつかる人。
人の流れが。
崩れる。
「下がってください!」
騎士の声。
「皆さん!」
「道を空けてください!」
「姫様!」
後ろ。
姉。
少女は。
振り返らない。
地面を見る。
……
赤。
あった。
建物の入口から。
外へ。
一滴。
少し先。
もう一滴。
少女は走る。
「姫様!」
人の靴。
石畳。
伸びた影。
その間。
赤。
一滴。
また。
少し先。
赤。
身体を横にする。
人と人の隙間。
抜ける。
荷物を抱えた人の脇。
抜ける。
道を空けようと動いた人々の間を。
小さな身体が。
するり。
すり抜けていく。
「姫様!」
その直後。
担架を運ぶ治療師たちが。
二人の間を横切った。
「道を空けてください!」
姉の姿が。
人の向こうへ隠れる。
少女は。
振り返らない。
地面を見る。
……
赤。
次。
また。
赤。
通りを曲がる。
少し。
人が減る。
背後では。
まだ。
騒ぎの声。
少女は走る。
石畳。
赤。
石畳。
赤。
……
息が。
苦しい。
それでも。
走る。
外套が何度も脚へ絡む。
手で押さえる。
走る。
やがて。
大きな通りから外れる。
建物の間。
細い道。
人が。
少ない。
少女は。
地面を見る。
赤。
まだ。
続いている。
「おもち……。」
返事はない。
走る。
……
空は。
いつの間にか。
暗くなっていた。
建物の窓から。
灯りが漏れている。
店先の魔石も。
もう。
ほとんどが灯っている。
けれど。
進むほど。
その灯りも少なくなる。
建物も。
減っていく。
少女は。
まだ。
地面を見る。
一滴。
次。
……
見つけるまでの間隔が。
長くなる。
「……どこ。」
少し戻る。
しゃがむ。
石畳へ。
顔を近づける。
違う。
立つ。
また。
進む。
「……おもち。」
暗い。
もう。
足元さえ。
よく見えない。
少女は止まった。
地面を見る。
……
ない。
「……もう。」
眉が寄る。
少し先へ。
歩く。
しゃがむ。
見えない。
「なんで……。」
唇を噛む。
暗い。
血が。
見えない。
……
明かり。
少女は顔を上げる。
近くに。
魔石の灯りはない。
……
確か。
授業で習った。
魔法を使う時は。
まず。
精霊へ。
声をかける。
少女は右手を上げる。
人差し指を。
前へ。
「精霊さん。」
息を吸う。
「お願い!」
……
「小さな灯りを。」
「この指先に。」
……
「足元を。」
少女は地面を指す。
「照らして!」
ぴっ。
「……。」
指先に。
小さな火。
少女は。
瞬きをする。
「……火!?」
ぎゅっ。
少女は。
慌てて手を握る。
ふっ。
火が消えた。
「……あ。」
少女は。
すぐに手を開く。
「消しちゃった……。」
……
指先を見る。
赤くない。
痛くない。
少女は。
恐る恐る。
触れる。
「……熱くない。」
……
でも。
暗い。
少女は。
もう一度。
人差し指を立てる。
「……もう一回。」
少しだけ。
間を置く。
「お願い。」
ぴっ。
小さな火。
少女は。
瞬きをする。
……
今度は。
握らない。
……
少女はすぐに。
指先を。
地面へ向ける。
少し先。
石畳の端。
赤。
少女の目が。
大きく開く。
「あった。」
すぐに。
足が動く。
一滴。
その先。
もう一滴。
指先の火を地面へ向けながら。
辿る。
……
赤。
また。
赤。
少し先。
少女の足が。
止まった。
「……。」
そこだけ。
血が多い。
石畳の端。
土。
草。
その上へ。
何度も。
滴ったような跡。
草も。
一部だけ。
押し倒されている。
その横。
地面へ。
赤い手形。
……
小さい。
五本の指。
少し。
滑っている。
少女は。
しゃがみ込む。
「……おもち。」
指先の火を。
近づける。
……
血。
その横。
少女の目が。
僅かに動く。
手形から離れたところ。
続いていた赤が。
途中だけ。
細く。
欠けている。
……
そこだけ。
土が。
濡れている。
草も。
一方向へ。
寝ている。
「……?」
少女は。
火を近づける。
濡れた土。
倒れた草。
その先。
何もない。
……
少女は。
少しだけ。
顔を上げる。
誰もいない。
風。
草が揺れる。
……
「おもち……。」
もう一度。
地面へ火を向ける。
少し先。
火の届く端。
赤。
少女は立ち上がった。
そのまま。
そちらへ走る。
……
道は。
さらに上っていく。
指先の火を。
地面へ向けたまま。
一歩。
また。
一歩。
赤。
まだ。
続いている。
土の上。
草の間。
ところどころ。
途切れながら。
上へ。
「おもち……。」
息が。
苦しい。
脚も。
重い。
それでも。
止まらない。
やがて。
坂の先が。
少しずつ開けてくる。
建物は。
もうない。
空。
星。
草。
……
その時。
少女の足が。
止まった。
丘の上。
少し先。
人影。
「……。」
誰か。
いる。
知らない人。
かもしれない。
少女は。
反射的に。
右手を握った。
ふっ。
指先の火が。
消える。
……
暗い。
一気に。
足元が。
ほとんど見えなくなる。
少女は動かない。
息を。
小さくする。
目を凝らす。
……
人。
だと思う。
一人。
立っている。
それとも。
しゃがんでいる。
暗くて。
よく見えない。
……
風が。
草を鳴らす。
その向こうから。
声。
「――ましたかー?」
少女の肩が。
僅かに動く。
……
女性。
たぶん。
声は。
柔らかい。
「ふふ。」
「あなたのことずっと――。」
風。
草が揺れる。
続きは。
聞こえない。
……
誰かと。
話している。
少女は。
目を凝らす。
返事は。
聞こえない。
……
一歩。
近づく。
また。
一歩。
人影の向こう。
何か。
白いもの。
「……?」
少女は。
目を細める。
もう一歩。
星明かり。
夜空から落ちる。
淡い光。
草の上。
小さな身体。
その髪が。
かすかに。
光を返した。
……
白銀。
長い髪。
少女の足が。
地面を蹴る。
人影の脇へ。
飛び出す。
「おもち!!」




