銀の軌跡
◇
「おもち!」
取っ手を掴み、勢いよく扉を開く。
少女は部屋へ飛び込んだ。
「……。」
誰もいない。
荒い呼吸だけが、部屋の中に響いている。
少女は辺りを見回した。
「……おもち?」
寝台へ近づく。
掛け布は乱れていた。
枕にも、誰かが横になっていた跡が残っている。
「……。」
胸の奥で、自分の鼓動が聞こえた。
顔を上げる。
窓が開いている。
風が入り込み、白いカーテンを揺らしていた。
布の擦れる音が、誰もいない部屋に響く。
少女は開いた窓を見つめる。
……
「……おもち?」
その時。
廊下から足音が聞こえた。
「おもち様。」
妹の声。
少女が振り返る。
扉の向こうから、エステラが歩いてくる。
その手には水差し。
後ろには治療師が一人。
「お待たせいたしまし――」
妹の足が止まった。
少女。
姉。
誰もいない寝台。
開いた窓。
その視線が順番に動く。
「……姫様?」
少女はすぐに妹へ近づいた。
「エステラ。」
「おもちは?」
「え……?」
「おもち。」
「どこに行ったの?」
妹の目が大きく開いた。
「お部屋に。」
一度、寝台を見る。
「いらっしゃらないのですか?」
「いない。」
妹はすぐに部屋へ入った。
「おもち様?」
寝台の向こう。
机のそば。
窓辺。
視線を巡らせる。
「おもち様。」
……
返事はない。
妹の顔から色が消えていく。
扉の外で。
治療師も足を止めていた。
少女は妹の背中を見る。
「エステラが。」
「ここまで連れてきたんだよね。」
妹が振り返る。
「はい。」
「確かに。」
「こちらの寝台まで。」
「それから?」
「……少し。」
妹は少女を見る。
「お話をしました。」
「何を?」
「研究施設のことを。」
少女の眉が寄る。
「おもち様は。」
「研究施設へ。」
「帰らなければならないと。」
「そう思っていらっしゃいました。」
……
『帰る。』
さっき。
廊下で聞いた声。
「でも。」
妹は続ける。
「帰らなくていいと。」
「ここにいたいのであれば。」
「ここにいていいのだと。」
「そうお伝えしました。」
少女が顔を上げる。
「おもちは?」
妹は一度、目を伏せる。
「帰りたくないと。」
……
少女の目が開く。
「ここにいたいと。」
「そう。」
「おっしゃいました。」
……
ここにいたい。
そう言ったのに。
今はいない。
少女はもう一度、誰もいない寝台を見る。
「じゃあ。」
「なんで……。」
妹は何も言わない。
少女はすぐに顔を上げた。
「ほかには?」
「ほか……ですか?」
「うん。」
「何か言ってなかった?」
妹の視線が少し落ちる。
「研究施設の者が来れば。」
「どうなるのかと。」
「尋ねられました。」
「それで?」
「陛下も。」
「姫様も。」
「私たちも。」
「おもち様を連れていかせないと。」
「そうお話しました。」
少女は黙って聞いている。
「そうなれば。」
「私たちが何かするのかとも。」
「……何か?」
「はい。」
妹は一度、口を閉じた。
「戦うのかと。」
少女の目が僅かに開く。
「……おもちが?」
「はい。」
……
おもちの口から。
戦う。
なんて。
少女は妹から目を逸らさない。
「そのあと。」
「なんて言ったの?」
「え?」
「戦うって聞いたあと。」
「おもち。」
「なんて言った?」
妹は息を詰める。
「傷つくのは、と。」
少女はもう扉へ向かっていた。
「姫様?」
「また。」
声が零れる。
「また一人で。」
……
どこかへ行くなら、言ってって言ったのに。
でも。
そんなことは、あとでいい。
あんな顔をしていた。
手も冷たかった。
少し前まで、まともに返事もできなかった。
そんな状態で。
一人で。
少女の足が速くなる。
「姫様。」
後ろから姉の声。
少女は扉の前で止まり、振り返った。
姉を見る。
妹を見る。
二人も少女を見ている。
……
「二人とも。」
少女は扉へ手を掛けた。
「行こう。」
「はい。」
◇
三人は廊下を速足で進んでいた。
少女は前を見る。
心伝魔法を使ってもらえば、城中へおもちを探すよう伝えることはできる。
……
いや。
そこまでじゃない。
まだ、城の中にいるはず。
みんなが。
戦わないために。
どこかへ行ったのなら。
だったら。
私ならどうする。
誰にも見つからない場所に隠れる。
騒ぎが収まるまで。
みんなが落ち着くまで。
……
でも。
おもちは、そんなことするかな。
嫌なら嫌と言う。
知りたいなら聞く。
やると決めたら、そのまま進む。
もっと。
まっすぐ。
少女の歩幅が少し大きくなる。
……
もう一度。
お父様のところに……?
何のために。
その瞬間。
父の声が蘇った。
『役に立てなければ。』
『廃棄される。』
……
少女の拳に力が入った。
むかつく。
指が手のひらへ食い込む。
どうして。
おもちがそんなことを。
当たり前みたいに思わなくちゃいけないの。
「姫様。」
隣から姉の声。
少女は息を吐き、拳を緩めた。
……
今は。
それじゃない。
「エステラ。」
「はい。」
少女は前を向いたまま問いかける。
「お父様のところで。」
「おもちが。」
「役に立つための話をした時。」
「それ以外に。」
「何か言ってなかった?」
妹は歩きながら目を伏せる。
やがて。
「……星の魔法使いの。」
「お話を。」
少女が妹を見る。
「星の魔法使いって。」
「童話の?」
「はい。」
妹は頷いた。
「おもち様は。」
「ご存じありませんでした。」
……
少女は瞬きをする。
あの話を。
知らない。
「どうして。」
「その話になったの?」
「陛下が。」
「おもち様の力は。」
「星と繋がっているのかもしれないと。」
「そうお話になって。」
少女の眉が寄る。
「星と……?」
「はい。」
「それを聞いて。」
「私が。」
「星の魔法使いのお話みたいですね、と。」
妹は続ける。
「それから。」
「宰相様が。」
「あのお伽噺について。」
「おもち様へお話しされました。」
少女は前を向く。
……
星の声を聞いて。
星に導かれて。
人を助けた。
最初の魔法使い。
「それで?」
「おもち様が。」
「ご自分の魔法について。」
「もっと知りたいと。」
妹の歩幅が少しだけ小さくなる。
「宰相様は。」
「もし。」
「おもち様の力が。」
「昔の言い伝えと関係しているのであれば。」
「古い魔法の記録に。」
「何か残っているかもしれないと。」
少女の足が少しだけ緩む。
「古い魔法……。」
「はい。」
「そして。」
妹の言葉が止まった。
目が開く。
「……エステラ?」
「宰相様が。」
妹の足も止まりかける。
「王城にあるものが。」
「すべてではないと。」
少女は妹を見る。
「ほかには?」
「魔法都市。」
「王立学園。」
「それから。」
「古い時代の魔法を研究している。」
「賢人のもとにも。」
「記録があるかもしれないと……。」
三人の足音が止まった。
妹の顔から血の気が引く。
「私……。」
「それを。」
「おもち様も。」
「聞いていました。」
少女の目が大きくなる。
王立学園。
魔法都市。
賢人。
全部。
城の外。
「まさか。」
妹が廊下の先を見る。
「おもち様。」
「外へ……?」
その時。
向こうから歩いてきた二人の侍従の声が耳に入った。
「そういえば。」
「城門で。」
「さっき騒ぎがあったらしいぞ。」
少女の顔がそちらへ向く。
「騒ぎ?」
「ああ。」
「馬が突然暴れだして。」
「荷物が崩れるわで大騒ぎになったとか。」
姉の足が止まった。
「すみません。」
侍従たちがこちらを見る。
セレスはすでに二人へ向き直っていた。
「今のお話。」
「詳しく。」
「聞かせていただけますか。」
二人の侍従が顔を見合わせる。
「私たちも。」
「聞いた話なのですが。」
一人が城門の方を見る。
「門の外で。」
「馬が暴れたらしくて。」
「騎士の方々も。」
「かなり慌ただしかったそうです。」
……
馬。
荷物。
騎士。
それだけなら、おもちとは関係ないかもしれない。
でも。
嫌な予感しかしない。
「ありがとうございます。」
少女はもう歩き出していた。
「姫様。」
姉と妹もすぐに続く。
歩く。
速く。
角を曲がる。
階段を下りる。
また廊下。
だんだん、人の声が増えてくる。
少女は顔を上げた。
……
ざわ。
ざわ。
城の入口。
その近くに人が集まっている。
侍女。
侍従。
騎士。
何人もの城の住人が、一人の騎士を囲んでいた。
「それで?」
「本当に一人で?」
「姫様と一緒じゃなかったのか?」
「いや。」
「それが――」
少女は人の間へ入る。
「失礼します。」
声が止まった。
何人かが振り返り、少女に気づいて慌てて道を開ける。
「姫様。」
「姫様……。」
少女はその間を進む。
人の輪の中央。
鎧を着た騎士。
「どうしたのですか?」
騎士がこちらを見る。
「……姫様。」
騎士の唇が止まる。
視線が一度、少女の後ろへ向く。
姉。
妹。
それから、もう一度少女へ戻った。
「その……。」
「何かあったのですか?」
「……はい。」
騎士は背筋を伸ばした。
「姫様の。」
一度、言葉を切る。
「ご友人と伺っている少女が。」
少女の目が開く。
「城門から。」
「城下へ。」
騎士の声が少し下がる。
「出られました。」
……
少女は騎士を見る。
「白銀の髪の子ですか?」
「……はい。」
「小さい子ですか?」
「はい。」
……
おもち。
少女の指が動く。
「いつですか?」
「少し前です。」
「一人だったんですか?」
騎士の視線が床へ落ちる。
「……はい。」
妹が小さく息を呑んだ。
少女は騎士から目を逸らさない。
「どうして。」
「外へ出たんですか?」
騎士の喉が動く。
「最初は。」
「姫様と。」
「城下へ行かれるのだと。」
「そう伺いまして。」
少女の眉が寄る。
「私と?」
「はい。」
「姫様が。」
「あとから来られるので。」
「門の前で待っているようにと。」
「そう言われたと。」
……
少女は瞬きをする。
おもち。
「それ。」
「嘘です。」
「……はい。」
騎士が目を伏せる。
「本人から。」
「あとで。」
「そう聞きました。」
……
少女の口が少し開く。
自分で。
言ったんだ。
「それで。」
「どうなったんですか?」
騎士が顔を上げる。
「すぐに。」
「お止めしました。」
「お嬢さんは。」
「そのまま行こうとされましたので。」
「追いまして。」
一度、言葉が止まる。
「途中で。」
「転ばれました。」
少女の目が大きく開く。
「転んだんですか?」
「はい。」
「手と膝を。」
「少し。」
……
あんな状態で。
少女の手がスカートの横で握られる。
「それで。」
「城内へお連れしようと。」
「私が。」
騎士の視線が横へ逸れる。
「抱えて。」
「戻っていたのですが。」
周囲から小さな声。
「抱えてたのか……。」
騎士の眉が動く。
「その時。」
「門の外で。」
「馬が暴れまして。」
「荷車の荷が崩れました。」
「周囲の者に。」
「危険がありましたので。」
少女は何も言わず続きを待つ。
騎士は一度息を吐いた。
「お嬢さんを下ろし。」
「後ろで待つよう。」
「申しつけました。」
……
「その隙に。」
少女の目が細くなる。
「行ったんですね。」
「……はい。」
騎士は深く頭を下げた。
「申し訳ございません。」
少女は騎士を見る。
「顔を上げてください。」
「……姫様。」
「あなたは悪くないです。」
騎士の目が開く。
「おもちを。」
「止めてくださったんですよね。」
「それに。」
「怪我をしていたから。」
「城へ戻そうとしてくださった。」
少女は小さく頭を下げた。
「教えてくれて。」
「ありがとうございます。」
「いえ。」
騎士は顔を上げきれない。
「しかし。」
「私が目を離さなければ――」
「馬が暴れていたんですよね。」
少女は騎士を見る。
「そのままには。」
「できなかったと思います。」
「だから。」
「大丈夫です。」
……
騎士はしばらく黙ったあと。
「……ありがとうございます。」
少女は頷く。
「それで。」
「おもちは。」
「どちらへ行きましたか?」
騎士が城門の向こうへ顔を向ける。
「門を出て。」
「そのまま。」
「正面の道を走っていかれました。」
「追おうとはしたのですが。」
「騒ぎもあり。」
「すぐに人の中へ……。」
少女も城門の向こうを見る。
正面。
そのまま。
……
私と城下町に行くと嘘をついて。
通ったあとに、自分から嘘だと言って。
止められて。
走って。
転んで。
怪我をして。
捕まって。
それでも、行かないと。
馬が暴れたら。
その隙にまた走る。
……
少女はゆっくり息を吐いた。
「……もう。」
片手を額へ当てる。
「おもち……。」
隣で。
姉と妹が顔を見合わせた。
……
少女はもう一度、城門の向こうを見る。
さっきまで。
どこにいるのかも。
何をしているのかも。
何もわからなかった。
でも。
自分で城下へ出た。
何かを。
しようとしている。
それだけは。
わかった。
少女は手を下ろした。
「行こう。」
「おもちを。」
「追いかける。」
城門へ向かって歩き出す。
その前へ。
姉が出た。
「姫様。」
少女の足が止まる。
「……なに?」
「城から出ることは。」
「いけません。」
少女の眉が動いた。
「どうして?」
「危険だからです。」
「今は。」
「そんなこと言ってる場合じゃないよ。」
「おもちが。」
「一人で外にいるの。」
「怪我もしてる。」
「わかっております。」
姉は少女の前から動かない。
「でしたら――」
「姫様。」
声が少し強くなる。
「ご自身の立場を。」
「お考えください。」
……
少女の口が閉じる。
わかってる。
王城の外。
護衛もなしに。
王女が勝手に出る。
だめ。
そんなこと。
わかってる。
でも。
城門の向こうでは、人が行き交っている。
その先に。
おもちがいる。
少女の指がスカートを掴んだ。
行きたい。
追いかけたい。
今すぐ。
……
でも。
自分まで勝手なことをして。
また誰かに迷惑をかけたら。
少女は唇を噛む。
それから。
片足を。
だんっ。
床へ踏みつけた。
……
行きたい。
もう一度、城門の向こうを見る。
それでも。
足はそこから動かなかった。
姉は少女を見る。
それから、すぐに妹へ向き直った。
「エステラ。」
「はい。」
「まず。」
「今の状況を。」
「宰相様へ。」
妹が姿勢を正す。
「陛下の執務室に。」
「いらっしゃると思います。」
「わかりました。」
妹はすぐに踵を返した。
数歩。
走る。
「エステラ。」
少女が呼ぶ。
妹が振り返る。
「……お願い。」
妹は小さく頷いた。
「はい。」
そのまま廊下の向こうへ走っていく。
姉は次に、騎士を見る。
「あなたは。」
「城門へ戻ってください。」
「はっ。」
「王城からの。」
「保護要請として。」
「王都内の。」
「各詰所へ連絡を。」
騎士の顔が引き締まる。
「おもち様の特徴を。」
「伝えてください。」
「白銀の長い髪。」
「淡い紫色の瞳。」
「小柄な少女です。」
「侍女服を着ておられます。」
少女は城門を見る。
今頃。
どこまで行ったんだろう。
「特徴と一致する方を。」
「発見した場合は。」
姉は続ける。
「身柄を確保。」
「状況によっては。」
「怪我のないよう。」
「拘束してください。」
「拘束!?」
少女が勢いよく姉を見る。
「セレス!」
姉は少女を見る。
「必要です。」
「でも。」
「おもちを拘束なんて――」
「おもち様は。」
姉の声は変わらない。
「きっと。」
「どうにかしてでも。」
「そこから出ようとされます。」
少女は口を閉じる。
……
止められて。
転んで。
捕まって。
抱えられて。
それでも。
隙を見つけて。
逃げた。
姉は丸眼鏡の位置を直す。
「丁重にお願いしても。」
「かえって逆効果です。」
……
少女は口を閉じたまま。
姉は騎士へ視線を戻した。
「それと。」
「各詰所だけではなく。」
「案内所や。」
「役所関係にも。」
「連絡を回してください。」
「はい。」
「業務に支障が出ない範囲で。」
「捜索を開始。」
「発見した場合は。」
「ただちに王城へ知らせるように。」
騎士は深く頷いた。
「承知いたしました。」
踵を返す。
鎧の音が城門へ向かって遠ざかっていく。
少女はその背中を見る。
……
探す。
王都中で。
姉は周囲へ視線を向けた。
まだ何人もの侍女や侍従が、その場に残っている。
「皆様。」
ざわめきが少しずつ止まる。
「こちらはもう大丈夫です。」
「それぞれ。」
「持ち場へお戻りください。」
人々が顔を見合わせる。
それから。
一人。
また一人と頭を下げる。
「失礼いたしました。」
「姫様。」
足音が散っていく。
やがて。
城の入口には、少女と姉、それから数人の騎士だけが残った。
姉は少女へ向き直る。
「姫様。」
少女が顔を上げる。
姉は深く頭を下げた。
「先ほどは。」
「無礼を。」
「申し訳ございません。」
……
少女は姉を見る。
「……わかってる。」
姉が顔を上げる。
「セレスが。」
「正しいのも。」
「わかってる。」
少女は城門の外を見る。
「ありがとう。」
……
姉の肩から少しだけ力が抜けた。
「……はい。」
それから。
もう一度、姿勢を正す。
「私が。」
「おもち様を。」
「探して参ります。」
少女が姉を見る。
「姫様は。」
「どうか。」
姉は一度、言葉を切った。
「心苦しいとは。」
「思われますが。」
「こちらで。」
「お待ちください。」
……
少女は何も言わない。
城門。
その向こう。
知らない道。
人の流れ。
そのどこかに。
おもちがいる。
少女の指がゆっくり握られる。
「……私も。」
姉の眉が動く。
「行きたい。」
「姫様――」
「わかってる。」
少女はすぐに言う。
「わかってるよ。」
……
姉を見る。
翡翠色の瞳が、真っ直ぐ姉を捉える。
「それでも……。」
「私の。」
一度。
唇が止まる。
「初めての。」
「……。」
……
少女は小さく首を振った。
「大切な友達なの。」
姉の目が開く。
「だから。」
少女の指が強く握られる。
「もう。」
声が少しだけ揺れる。
「待つだけは。」
「嫌……。」
……
姉は何も言わない。
少女も目を逸らさない。
城門の向こうから風が入り込み、紅い髪が揺れた。
……
姉は少女を見つめていた。
丸眼鏡の奥。
瞳が伏せられる。
「……わかりました。」
少女の目が大きくなる。
「セレス……?」
「ただし。」
姉は顔を上げる。
「私から。」
「決して。」
「離れないこと。」
少女は黙って聞く。
「外へ出るのであれば。」
「外套をお召しいただきます。」
「城下では。」
「姫様であることを。」
「明かさないこと。」
「外套を。」
「外さないこと。」
姉は少女を真っ直ぐ見る。
「守れますか?」
少女はすぐに頷いた。
「守る。」
姉は小さく息を吐く。
「では。」
「侍女が外へ出る際に使う。」
「目立たないものを。」
「お持ちいたします。」
「少々。」
「お待ちください。」
姉はそう言って、城の奥へ足早に戻っていった。
……
少女はその場に残る。
城門の向こうでは、人が行き交っている。
知らない道が、その先へ続いている。
おもちも。
あそこへ。
……
少女の足が動きかける。
だめ。
約束した。
足を戻す。
その場に留まる。
けれど。
視線だけは、城門の外から離れなかった。
……
やがて。
後ろから足音が近づく。
「姫様。」
少女は振り返った。
姉の腕には、一着の外套。
灰色の、飾り気のないもの。
普段、侍女たちが外へ出る際に使っているものだった。
そして。
もう片方の手には細い紐。
その先で、小さなものが揺れている。
「お待たせいたしました。」
姉は少女の前へ立つ。
「まず。」
「こちらを。」
細い紐を持ち上げる。
少女は首を傾げた。
「これは?」
「笛です。」
「笛?」
「はい。」
姉は少女の頭を越えるように紐を通す。
胸元へ。
細い笛が落ちた。
少女は指先でそれに触れる。
「万が一。」
「私とはぐれた場合は。」
「こちらを。」
「吹いてください。」
「……これを?」
「はい。」
姉は小さく頷く。
「特殊な加工を。」
「施してあります。」
少女はもう一度、笛を見る。
「お守り代わりです。」
……
指先が笛を包む。
「……うん。」
姉はそれを確認すると、腕に掛けていた外套を広げた。
色も形も。
どこにでもあるもの。
飾りは何もない。
姉の指が一瞬止まる。
「姫様に。」
「このようなものを。」
「お召しいただくことになるとは……。」
「なんでもいい。」
少女はすぐに答える。
「目立たなければ。」
……
姉は目を伏せた。
「……はい。」
「それでは。」
「失礼いたします。」
少女は両腕を通す。
肩へ布が落ちる。
姉の手が胸元へ回り、留め具を一つずつ留めていく。
灰色の布が、いつもの衣装を覆っていく。
長い紅髪も。
外套の中へ。
丁寧に収められる。
「少し。」
「頭を。」
少女が頭を下げる。
姉はフードを持ち上げ、そっと被せた。
視界の端が少し暗くなる。
姉は左右を確かめる。
紅い髪が外へ出ていないか。
胸元。
肩。
背中。
一つずつ確かめる。
「大丈夫です。」
少女は顔を上げた。
「行ける?」
「はい。」
姉は少女を見返す。
「姫様。」
「お約束を。」
少女は頷く。
「守る。」
……
姉も小さく頷いた。
「では。」
少女は城門へ顔を向ける。
今度こそ。
「行こう。」
「はい。」
二人は歩き出した。
城門へ。
一歩。
また一歩。
先ほどの騎士がこちらを見る。
姉が軽く頷く。
騎士も頭を下げた。
大きな門の下。
影を抜ける。
その先から、光が差し込む。
少女の靴が。
王城の外の石畳を踏んだ。
……
顔を上げる。
人。
馬車。
店。
声。
いくつもの道。
知らないものばかりだった。
少女は外套の上から胸元へ手を添える。
そこに。
小さな笛の硬さがある。
そして。
城下を見た。
……
おもち。




