第四十六話 返還要請
Origin-0-Mirabilis-1が研究施設より脱走してから、六十日が経過した。
当初は施設周辺の森林地帯を中心とした捜索が実施されたものの、有力な痕跡は発見されず、魔獣による死亡も視野に入れた捜索縮小案が検討されていた。
しかし。
王都周辺において観測された微弱な魔力反応が、施設に保存されていたOrigin-0-Mirabilis-1の記録波形と高い一致率を示したことにより、捜索方針は全面的に見直されることとなる。
現在。
最終照合が行われていた。
広い会議室。
壁一面に設置された魔導投影装置へ、無数の数値が映し出されている。
「進捗を報告します。」
一人の研究員が立ち上がる。
「王都へ潜伏中の観測員より、一件の報告が入りました。」
資料が机へ置かれる。
「王城へ保護された身元不明の少女。」
「年齢推定十一歳前後。」
「白銀色の長髪。」
「全身に多数の治療痕。」
「魔力消耗による衰弱状態。」
部屋が静まり返る。
「特徴が一致します。」
「その後。」
「王都潜伏班による独自調査を実施。」
「王城へ出入りする医師、商人、関係者から情報を収集した結果、当該少女は現在も王城内で療養を継続していることを確認しました。」
責任者が静かに尋ねる。
「断定できるか。」
別の担当研究員が前方へ歩み出ると、壁面へ設置された魔導投影装置へ最新の解析結果を表示しながら、王都潜伏班より送られてきた情報と施設内で実施した照合作業の結果について、順を追って報告を開始した。
「魔力解析を完了しました。潜伏班より送られてきた情報と施設保存記録との波形照合を実施した結果、一致率九九・三%を記録したため、対象個体をO-M-1と断定します。」
その報告が終わると同時に会議室は静まり返り、投影装置へ映し出された解析結果と机上へ並べられた資料へ全員の視線が集まる中、一人の研究員が手元の記録へ目を落としながら、確認するように静かに問い掛けた。
「……位置は、王都か。」
担当研究員は頷くと投影図を切り替え、国全体の地図から王都周辺、さらに王城周辺へと段階的に表示範囲を拡大していく。
同時に別の担当研究員も机上へ新たな資料を広げ、それぞれの情報源から収集された観測記録、潜伏班からの報告書、現地で得られた証言を順に並べながら、解析結果との照合作業を開始した。
「施設から王城までの直線距離は約五百キロ。」
「脱走時のO-M-1は、重度の栄養失調、慢性的な睡眠不足、精神状態の不安定化を確認。鎮静剤、睡眠導入剤および魔力安定剤を継続投与中であり、自力による五百キロの移動は理論上あり得ません。」
「移動手段は。」
「確認されていません。」
「魔力転移の痕跡は。」
「検出されず。」
「ならば。」
「誰かが保護した。」
「それ以外に説明がつかない。」
部屋を包む空気は再び静まり返り、机上へ整然と並べられた報告書、壁面へ投影された観測記録、対象個体の身体状態を示す診断結果、そのすべてを照らし合わせてもなお、二ヶ月前まで施設管理下に置かれていたO-M-1が約五百キロ離れた王都王城内部で生存しているという事実を論理的に説明できる要素は、一つとして見当たらなかった。
理論上、自力による移動は不可能。
魔力転移を行った痕跡も存在しない。
輸送経路も確認されていない。
既存の記録、観測結果、移動可能距離、そのすべてを積み重ねても導き出される結論は変わらず、唯一欠落しているのは、その五百キロという距離を埋める過程だけだった。
沈黙が流れる。
それは結論が出ないからではない。
結論だけが先に存在し、その結論へ至る理屈だけが、まるで最初から切り取られてしまったかのように欠落していたからである。
責任者は腕を組んだまま、投影図を見つめていた。
「保護者は。」
「現在調査中です。」
「ただし。」
「王城内部で反応が継続していることから、王族による保護の可能性が高いものと推測されます。」
報告を最後まで聞き終えた責任者は短く頷くと、投影された資料から視線を外すことなく次の確認事項へ移り、現在の状況において最も優先すべき事項である返還要請の進捗について静かに問い掛けた。
「返還要請は。」
担当研究員は手元の書類を一枚取り上げ、既に王城宛てへ正式な返還要請文書を送付済みであること、ならびに本日中には王城から正式な回答が到着する予定であることを、事務的な口調で淡々と報告した。
「三日前にも正式文書を送付しております。」
「回答は本日到着予定です。」
責任者は差し出された書類へ静かに目を通し、その内容を確認すると、わずかな間を置いて書類を閉じる。
「Origin-0-Mirabilis-1は。」
「世界存続計画唯一の成功個体である。」
「放棄は認められない。」
その言葉に異論を唱える者はいなかった。
それは賛同を示したからではなく、施設へ所属する研究員全員が、O-M-1という存在が一個人ではなく、人類の存続を左右し得る唯一の成功例であるという共通認識を、長い年月をかけて当然の前提として共有していたためである。
会議室には再び静寂が戻り、壁面へ映し出された観測記録と魔導装置の低く一定な駆動音だけが、誰も口を開かない空間の中で淡々と時を刻み続けていた。
扉が静かに開いた。
「失礼します。」
一人の職員が会議室へ入り、責任者の前まで歩み寄ると一礼し、王城より返答文書が到着したことを報告するとともに、一通の封書を差し出した。
責任者は無言のまま封書を受け取り、慎重な手つきで封を切ると文面へ静かに目を通し、その場にいた誰一人として口を開くことなく結果を待つ中、数秒にも満たない短い沈黙だけが会議室を支配していた。
やがて責任者はゆっくりと書類を閉じる。
「今回も……返還を拒否。」
その一言により、それまで辛うじて保たれていた会議室の静けさは緊張へと変わり、誰も声を上げることはなかったものの、それぞれが次に取るべき対応を瞬時に理解していた。
責任者は席を立つこともなく、普段と何ら変わらない落ち着いた口調で静かに告げる。
「交渉準備を開始。」
「王城へ向かう。」
一人の研究員が小さく肩をすくめた。
「……頭でっかち共が。」
別の研究員が淡々と資料をまとめる。
「王族はまた感情論ですか。」
「非効率ですね。」
責任者は否定もしない。
「だからこそ。」
「我々が論理を示す。」
返答を待つ段階は終わり、事態は次の段階へ移行した。
会議は静かに終了した。




