第四十話 さまようこころ
……。
物音ひとつしない部屋。
窓辺へ置かれた椅子。
少女はその上で膝を抱えていた。
窓の向こうには。
厚い雲だけが広がっている。
……
黒と紺色の星空を模した礼服。
胸元には、小さな白い花。
こんこん。
扉を叩く音が部屋へ響く。
「姫様。」
「お時間でございます。」
「陛下がお待ちです。」
……
「……わかった。」
小さな返事だけが返る。
少女は体勢を変えない。
ただ。
静かに顔を上げた。
窓の外を見る。
厚い雲。
昨日と同じ空だった。
……
しばらく。
雲を見つめる。
やがて。
少女はゆっくりと椅子から降りる。
扉を開くと双子が礼をする。
片方の侍女が礼服の裾を整えた。
少女は小さく頷く。
そのまま。
部屋を後にした。
……
廊下は静かだった。
昨日と同じ城。
昨日と同じ廊下。
けれど。
聞こえてくる足音だけが違っていた。
こつ。
こつ。
こつ。
少女は前だけを見て歩く。
やがて。
重厚な扉の前で双子が立ち止まった。
「こちらでございます。」
少女は小さく頷く。
扉が開かれた。
……
部屋には王がいた。
その両脇には。
宰相。
大臣達。
王宮騎士団長。
誰一人として口を開かず、皆が立っていた。
少女が部屋へ入る。
全員が深く頭を下げた。
……
少女は父を見つめた。
少しだけ。
疲れて見えた。
……
少女は教えられた通りに一礼する。
「おはようございます。」
「本日はよろしくお願いいたします。」
誰も顔を上げない。
返事もなかった。
少女は少しだけ不思議そうに辺りを見回す。
王が少女を見る。
しばらく。
何も言わない。
ただ。
小さく頷いた。
少女も小さく頷き返す。
王はゆっくりと口を開いた。
「座りなさい。」
少女は用意された椅子へ腰掛けた。
部屋には静かな空気だけが流れていた。
やがて。
宰相が書類を閉じる。
「それでは。」
「本日の予定をご説明いたします。」
「これより――」
一日の流れが説明されていく。
献花。
祈り。
国民との別れ。
言葉だけが部屋へ流れていた。
少女は静かに耳を傾けた。
小さく頷きながら。
言葉だけを追っていた。
……
やがて。
説明が終わる。
部屋に沈黙が落ちる。
その静寂の中で。
王がゆっくりと娘を見る。
「姫よ。」
少女は顔を上げた。
王は落ち着いた声で告げる。
「王妃亡き今。」
その言葉に。
少女は少しだけ目を伏せた。
王は続けた。
「これから。」
「国民はお前を見つめることになる。」
少女は黙って聞いていた。
「多くの者が。」
「王妃の面影を、お前に重ねるだろう。」
「悲しみの中で。」
「希望を求める者もいる。」
少女は小さく瞬きをした。
まだ。
その意味は分からない。
王は真っ直ぐ娘を見つめる。
「辛い役目になる。」
「だが。」
「今日だけは。」
「王妃の傍らに立ち。」
「国民一人ひとりの別れを見届けなさい。」
「それがお前の務めだ。」
少女は俯いた。
膝の上で。
小さな手がぎゅっと重なる。
小さく息を吸う。
そして。
精一杯。
口元を上げた。
「はい。」
「頑張ります。」
その笑顔は。
少しだけ震えていた。
その場にいた誰も。
言葉を返せなかった。
その返事だけが。
部屋へ響いた。
◇
……。
王城の門が開く。
外には。
たくさんの人がいた。
城門から広場まで。
白い花を抱えた人々が整然と並んでいる。
少女は小さく目を見開いた。
「……いっぱい。」
思わず呟く。
王は少女の隣へ立った。
「皆、お母様を見送りに来てくださった。」
少女はもう一度だけ人々を見た。
こんなに。
たくさん。
……
王は侍従から白い花を受け取る。
少女へ差し出した。
「これは。」
「お前から、お母様へ渡してあげなさい。」
少女は小さく目を瞬かせる。
両手でそっと受け取った。
白い花。
壊れてしまいそうなくらい。
優しかった。
少女は胸の前へ抱き寄せる。
王は小さく頷く。
「行こう。」
……
人々は広場を埋めていく。
白い花を胸に抱えたまま。
誰も言葉を交わさない。
やがて。
王は棺の前へ歩み出た。
人々が顔を上げる。
広場は静まり返った。
王はゆっくりと国民を見渡す。
そして口を開く。
勇ましく、穏やかな声が広場へ響く。
王妃との。
お別れの言葉。
一つひとつ。
大切に話していることだけは分かった。
父の声を聞く人達の表情が。
少しずつ穏やかになっていく。
……
皆を安心させるように。
父は。
真っ直ぐ立っていた。
少女は父の背中を見つめたまま。
そっと胸の前で花を抱き寄せた。
……。
王の言葉が終わる。
広場には、しばらく沈黙が流れていた。
やがて。
宰相が口を開く。
「これより。」
「献花をお願いいたします。」
……
一人。
また一人。
人々は白い花を棺へ供える。
深く頭を下げる。
「ありがとうございました。」
「聖女様……。」
涙を拭う老人。
「まだ……。」
「お若いのに。」
互いの肩を支え合う老夫婦。
俯いたまま唇を噛む青年。
「どうして……。」
その場へ崩れ落ちる人もいた。
かすかな嗚咽が聞こえる。
見たことのない国の衣装を纏った旅人は。
胸へ手を当て。
静かに目を閉じていた。
……
やがて。
その視線は少女へも向けられる。
「姫様……。」
「どうか、お気を強く。」
少女はその言葉を受けるたび。
小さく頭を下げた。
胸の前へ白い花を抱き寄せたまま。
精一杯。
微笑んだ。
風に乗って。
言葉だけが耳へ届く。
聞こえては。
消えていく。
……
献花は続く。
誰も急がない。
誰も騒がない。
花だけが。
少しずつ棺の周りを埋めていく。
少女はぼんやりと。
その景色を見つめていた。
指先が。
胸に抱えた白い花へ、そっと触れた。
……
列の中に。
小さな女の子がいた。
白い花を両手で抱えている。
隣には母親。
女の子は棺へ花を供えると。
そのまま母親へ抱きついた。
「王妃様……。」
小さな肩が震える。
母親は何も言わない。
ただ。
娘を優しく抱きしめた。
少女はその様子を見つめていた。
……
私よりも小さな子。
……
女の子は涙を拭きながら顔を上げる。
その視線が。
少女と重なった。
しばらく。
見つめ合う。
少女は小さく微笑んだ。
女の子は少しだけ首を傾げた。
母親の服を引っ張る。
「ねえ。」
小さな声。
「お姉ちゃんは。」
「なんで笑ってるの?」
少女は小さく瞬きをした。
母親は慌てて娘の肩へ手を添える。
「だめよ。」
「そんなことを言ったら。」
そう言うと。
少女へ深く頭を下げた。
「申し訳ございません。」
「姫様。」
少女は首を横へ振る。
「ううん。」
優しく笑った。
「大丈夫。」
女の子はまだ不思議そうだった。
何度も少女を振り返りながら。
母親と手を繋いで歩いていく。
……
少女はその背中を見送る。
……
なんで。
笑ってるんだろう。
少しだけ考えた。
分からなかった。
……
その時だった。
列の後ろから。
年老いた女性がゆっくりと歩いてくる。
少女の前で足を止めた。
その目には涙が溢れていた。
震える手が。
少女へ向かって伸びる。
「ああ……。」
かすれた声。
「星の聖女様。」
少女は小さく首を傾げる。
女性はその場へ膝をついた。
「帰ってきてくださった。」
「ありがとうございます。」
「ありがとうございます……。」
震える両手が。
そっと少女の手を包む。
少女は小さく目を丸くした。
目の前で泣き続ける老女を見る。
……
どうしたらいいんだろう。
何を言えばいいのか。
分からない。
……
少女は。
包まれた手を見つめる。
それから。
小さく。
微笑んだ。
その笑顔を見た女性は。
声を上げて涙を流した。
騎士が一歩前へ出る。
「お下がりください。」
老女へ手を伸ばしかけた。
「待って。」
小さな声だった。
騎士は動きを止める。
少女は首を小さく横へ振った。
「大丈夫。」
騎士は王を見る。
王は娘へ視線を向けた。
少女は老女を見つめたまま。
もう一度だけ。
小さく頷く。
王も頷いた。
騎士は一歩下がる。
老女は少女を見上げたまま。
何度も涙を拭っていた。
「……もう一度。」
「お会いできるなんて。」
「夢にも思いませんでした。」
少女は何も言えなかった。
ただ。
目の前で泣いている老女を見つめる。
……
なにか。
応えないと。
そう思った。
震える両手を。
自分の両手で優しく包んだ。
……
腕の中の白い花が。
するりと足元へ落ちた。
少女の視線が。
一瞬だけ花へ向く。
……
けれど。
もう一度。
老女を見る。
老女は小さく息を呑む。
少女は静かに微笑んだ。
「元気、出して。」
その一言だった。
……
淡い光が。
二人の手の間で、小さく瞬いた。
老女は目を見開く。
頬を伝っていた涙が。
その光に滲んだ。
「……あぁ。」
堪えていた涙が溢れた。
何度も頷きながら泣き続けた。
……
周囲の人々は息を呑んだ。
「……今の。」
誰かが小さく呟く。
「まるで……。」
その囁きは。
風に乗るように。
人々の間へ広がっていく。
「星の聖女様……。」
少女は気づかない。
ただ。
老女の手をそっと離した。
老女は深く頭を下げると。
ゆっくりと列へ戻っていった。
……
誰も言葉を発しなかった。
去っていく背中を見送る。
……
少女はゆっくりとしゃがみ込む。
足元へ落ちた白い花を。
両手でそっと拾い上げた。
少しだけ崩れた花びらを。
指先で優しく整える。
……
何も言わない。
ただ。
壊れてしまわないように。
もう落とさないように。
胸へ抱き寄せた。
……
最後の一人が花を供えた。
深く頭を下げる。
……
花に囲まれた棺。
風だけが花を揺らしていた。
やがて。
司祭は目を閉じ、祈りを捧げた。
「願わくは。」
「空へ還り。」
「星々の抱擁のもと。」
「安らかなる眠りにつかれますように。」
「その光が。」
「これからも。」
「人々を照らす星となりますように。」
……
騎士達が棺の傍らへ歩み寄る。
白い花に囲まれた棺が。
ゆっくりと持ち上げられた。
……
宰相が一歩前へ出る。
国民を見渡した。
「これにて。」
「王妃様とのお別れの儀を閉式いたします。」
「ご参列、誠にありがとうございました。」
深く一礼する。
人々も深く頭を下げた。
……
王は棺へ向き直る。
静かに一礼する。
それから。
国民へ向き直った。
もう一度。
深く頭を下げる。
誰一人。
声を上げる者はいなかった。
王は踵を返す。
騎士達が棺と共に歩き出した。
少女も。
人々へ小さく一礼する。
そして。
父の後を追おうとした。
……
ぽつ。
頬へ小さな雫が落ちる。
少女は足を止めた。
ぽつ。
また一粒。
……
やがて。
静かに雨が降り始める。
少女はその場から動けなくなった。
ただ。
雨を受けるように立ち尽くしていた。
……
双子の一人が歩み寄る。
そっと外套を肩へ掛ける。
「姫様。」
「……お身体が冷えてしまいます。」
返事はなかった。
少女は空を見上げる。
厚い雲。
空は。
閉じたままだった。
雨だけが。
降り続いていた。
……
腕の中の白い花を見つめる。
少女は小さく微笑んだ。
礼服も。
赤い髪も。
その微笑みも。
降り続く雨が。
少しずつ濡らしていった。
……
少女は白い花を胸へ抱き寄せた。
……
淡い光が。
花びらを優しく包む。
……
腕の中の白い花から。
小さな雫が。
ひとつ。
またひとつ。
静かに零れ落ちていく。
……
「……ああ。」
雨音の中へ。
小さな声が溶けていく。
……
「どこにいったんだろう。」




