第三十九話 止まった時間
静かな部屋に、小さく時計の針が時を刻んでいた。
かちり。
かちり。
少女はゆっくりと目を開ける。
まだ誰にも起こされていない。
いつもより少しだけ早い朝だった。
ぼんやりと天井を見つめる。
……。
遠くの廊下から、規則正しい足音が近づいてくる。
こつ。
こつ。
こつ。
少女は静かに身体を起こした。
寝具の擦れる音だけが、小さく響く。
窓の向こうから差し込む光は、どこか鈍かった。
窓へ歩く。
カーテンを静かに開く。
窓の向こうに広がっていたのは。
眩しい朝日ではなく。
厚い雲に覆われた曇り空だった。
……
「今日は晴れてないんだ。」
小さく呟いた。
少女は少しだけ眉を下げる。
こんこん。
扉を叩く音が部屋へ届く。
「姫様。」
いつものように双子の侍女が部屋へ入ってくる。
窓の外から視線を移す。
「おはよう!」
「……おはようございます。」
いつもなら二人揃って返る声。
今日は一人だけだった。
身支度が始まる。
さらり。
服の布が擦れる。
しゃり。
櫛が赤い髪をゆっくりと梳いていく。
部屋には、その音だけが静かに響いていた。
少女は窓の外を眺めたまま、小さく笑う。
「今日は晴れてないね。」
「……そうでございますね。」
短い返事だけが返ってくる。
「お母様とお散歩したかったなぁ。」
……
しゃり。
もう一度、櫛が髪を梳く音だけが部屋に響く。
やがて。
「お支度が整いました。」
少女は鏡から侍女へ目を向ける。
小さく笑った。
「ありがとう。」
侍女は小さく頭を下げる。
その顔を見て、小さく首を傾げた。
「……?」
目元が、少しだけ赤かった。
少女は心配そうに一歩近づく。
「どうしたの。」
「泣いて――」
こん。
「入るぞ。」
返事を待たず、扉が開いた。
音に反応して振り返る。
「お父様!?」
驚いたように目を見開く。
けれど。
すぐに嬉しそうな笑顔が浮かんだ。
王はその笑顔を見届けると、双子へ静かに視線を向けた。
二人は深く頭を下げる。
顔を上げられなかった。
王は何も言わない。
ただ、小さく頷いた。
それから少女へ歩み寄った。
「姫よ。」
「一緒に来なさい。」
少女は少しだけ侍女を振り返る。
「でも……。」
王は穏やかな声で続けた。
「二人は後から来る。」
「少しだけ支度がある。」
侍女を見つめる。
「……ほんと?」
双子は精一杯微笑んだ。
「はい。」
「後ほど参ります。」
その笑顔を見つめる。
少女はようやく安心したように頷いた。
「うん。」
王は部屋を後にした。
少女はその背中を追う。
扉が閉まる。
部屋には双子だけが残った。
……
廊下には、人の姿があった。
侍女。
騎士。
使用人。
誰もが足を止める。
深く頭を下げた。
少女は不思議そうに辺りを見回す。
「今日は、みんな静かだね。」
王は前を向いたまま。
何も答えなかった。
少女は少し遅れながら。
王の後を追う。
……
長い廊下を抜ける。
重厚な扉の前で、王は足を止めた。
少女も立ち止まる。
扉の向こうからは、誰の話し声も聞こえない。
王は小さく息を吸った。
静かに扉を開く。
扉の向こうからも。
静けさだけが返ってきた。
部屋には白い花が飾られていた。
母付きの侍女。
治療師。
皆が静かにその場へ立っている。
部屋を見回す。
「……?」
その視線は。
部屋の奥で静かに眠る母の姿を見つけた。
「あ。」
少女は小さく笑う。
「お母様。」
嬉しそうに駆け寄る。
母は静かに眠っていた。
少し微笑んでいるようにも見えた。
母のそばへしゃがみ込む。
「お母様。」
「どうしてここで寝てるの?」
返事はない。
周りを見回す。
白い花。
部屋中に飾られた花。
「お花、いっぱいだね。」
「きれい。」
小さく笑う。
それから母を見る。
「お父様がね。」
「起こしに来てって連れてきてくれたよ。」
「だから。」
「そろそろ起きないと。」
少女は母の手へ、そっと自分の手を重ねた。
少しだけ冷たい。
その手を。
小さくさすった。
王は少女の肩へ、そっと手を置いた。
肩へ置かれた手を見つめる。
その手をたどるように視線を上げた。
「お父様?」
王は少女と目線を合わせる。
しばらく。
言葉が出なかった。
やがて。
静かに口を開く。
「お母様は。」
……
「……もう。」
「目覚めることはない。」
少女は小さく瞬きをした。
「……?」
言葉の意味が分からない。
そんな表情だった。
もう一度だけ、眠る母へ目を向けた。
穏やかな寝顔。
「もしかして。」
「さっき帰ってきたばかりなの?」
「だからまだ眠いのかな。」
少しだけ考える。
それから、小さく笑った。
「でも。」
「私が来たらいつも起きてくれるよ?」
……
「お母様。」
「私だよ。」
「起きて。」
握っている母の手から肩に触れようとした。
王は静かにその手を包む。
少女はその手を止めた。
それから。
部屋の中を見回した。
母付きの侍女。
双子。
治療師。
誰も顔を上げることができなかった。
静かな部屋に、小さく鼻をすする音だけが響く。
少女は少しだけ眉を下げた。
「……どうして。」
一人。
また一人。
頬へ涙が伝う。
少女はその涙を目で追う。
「どうして。」
「みんな泣いてるの?」
返事はなかった。
もう一度だけ皆を見る。
悲しそうな顔。
苦しそうな顔。
それを見ているだけで。
胸の奥が、きゅっと締めつけられた。
少女の頬も、一粒だけ涙が伝う。
まだ分からない。
少女は母を見つめた。
「……お母様。」
小さく呼ぶ。
……
少女は母の手を、両手でぎゅっと握り返した。
……
その手は。
するりと力なくほどけていく。
……
もう一度。
掬うように包み込む。
……
……
そっと。
手を離した。
……
側にいた王の服の端を、指先で掴んだ。
王は黙って娘を抱き寄せる。
その胸へ、静かに顔を埋めた。
その後のことは、よく覚えていない。
◇
少女は部屋の隅へ座っていた。
膝を抱える。
何も考えられなかった。
ただ。
ぼんやりと前を見つめていた。
……
部屋の中には。
双子が控えていた。
誰も言葉を掛けられない。
時間だけが静かに過ぎていく。
……
やがて。
双子は一度だけ顔を見合わせる。
一人が立ち上がった。
窓辺のランタンへ歩み寄った。
そっと手をかざす。
淡い灯りが、静かに部屋を照らす。
もう一人が。
少女のそばへ歩み寄った。
「姫様。」
少女はゆっくりと顔を上げる。
二人の目元は赤く腫れていた。
少女は何も言わない。
ただ。
じっと二人を見つめていた。
長い沈黙。
やがて。
一人が小さく口を開く。
「明日。」
「国民の皆様と。」
「王妃様との、お別れをいたします。」
……
「……わかった。」
ぼんやりと。
二人を見つめる。
赤く腫れた目。
何度も涙を流したことが分かる。
……
「……二人とも。」
「私のために。」
「ずっといてくれてありがとう。」
少女はかすかに微笑んだ。
「今日はもう。」
「部屋へ戻って休んでね。」
双子は顔を見合わせる。
そして。
静かに首を横へ振った。
「……いいえ。」
「姫様のおそばにおります。」
少女は少しだけ目を伏せた。
「でも。」
「二人ともきっと疲れてる。」
「いっぱい泣いたもん。」
双子はもう一度だけ首を横へ振る。
「姫様を。」
「お一人にはできません。」
……
双子は少女のそばへ静かに腰を下ろした。
少女はしばらく二人を見つめる。
やがて。
「……ありがとう。」
それだけだった。
……
部屋を照らす淡い灯りが。
少女の横顔を静かに照らす。
その後ろには。
小さな背中よりも。
灯りの届かない影が、大きく伸びていた。




