第三十八話 旅立ち
朝の王城には、普段より多くの足音が響いていた。
侍女や騎士たちが、慌ただしく荷物を運んでいく。
少女は不思議そうにその様子を眺めていた。
近くを通りかかった騎士へ駆け寄る。
「ねえ。」
「今日は何かあるの?」
騎士は少しだけ驚いたように足を止める。
「本日は王妃様が、遠方へお務めに向かわれます。」
少女は小さく瞬きをした。
「お務め?」
「はい。」
「数日ほどでお戻りになられます。」
「……そうなんだ。」
少女は小さく頷く。
「ありがとう。」
騎士は一礼すると、再び慌ただしく歩き出した。
少女はその背中をしばらく見送る。
……
「数日。」
少女は小さく繰り返した。
その言葉を胸の中で何度も転がす。
それから。
何かを決めたように部屋へ戻る。
しばらくして。
侍女が部屋を訪れた。
「姫様。」
「王妃様のお見送りのお時間でございます。」
返事はない。
寝台へ目を向ける。
布団がこんもりと膨らんでいた。
「姫様……?」
布団は静かなままだった。
二人は困って顔を見合わせる。
そこへ、母が訪室する。
双子は一礼して事情を伝える。
母は小さく笑う。
布団のそばへしゃがみ込み、ぽんぽんと優しく叩く。
「ガゼル?」
返事はない。
「あら。」
「いないのかしら。」
母は少しだけ考えるように首を傾げた。
「返事がないってことは。」
「ここにいるのは猫さんなのかな?」
布団がもぞっと動く。
「猫さんじゃないもん。」
少しだけ顔を出した少女は、母と目が合うと、また耳まで布団を引き上げた。
母は娘を見つめる。
それから優しく微笑んだ。
「どうしたの?」
少女は母の服をきゅっと握った。
俯いたまま。
小さな声で答えた。
「今日は行ってほしくない……。」
母は優しく抱きしめた。
「すぐ帰ってくるわ。」
「ほんの数日だけ。」
少女は見上げる。
「ほんと?」
「ええ。」
少し考えてから、小さく頷く。
「……じゃあ、お見送りする。」
母は少女の頭を優しく撫でる。
「ありがとう。」
「お母様も、お支度をしてくるわ。」
少しだけ悪戯っぽく笑う。
「また後でね。」
少女も小さく頷く。
「うん。」
母は部屋を後にした。
扉が静かに閉まる。
少女はその音を、しばらく聞いていた。
それから。
静かに椅子へ腰掛けた。
双子の侍女が身支度を整えていく。
乱れたワンピースを伸ばし。
赤い髪を優しく梳かす。
最後に、小さな髪飾りをそっと留める。
「お支度が整いました。」
少女は鏡の中の自分を見る。
いつもと変わらない。
なぜだか、胸の奥が少しだけそわそわした。
少女は小さく息を吸う。
「……よし。」
少女は静かに立ち上がる。
扉が開く。
三人は静かに部屋を後にした。
◇
城門には、すでに出発の準備が整っていた。
王。
護衛の騎士たち。
一台の馬車。
穏やかな朝の光が、静かに城門を照らしている。
母はいつもと変わらない穏やかな笑みを浮かべていた。
少女は母の姿を見つけると、ぱっと表情を明るくした。
「お母様!」
小さく駆け寄る。
そのまま勢いよく抱きついた。
母の身体が、ほんの少しだけ揺れた。
けれどすぐに娘を優しく抱きしめ返す。
背中へ腕を回し。
髪をそっと撫でる。
頬を寄せるように抱きしめながら、小さく笑った。
「ふふ。」
「元気いっぱいね。」
少女は母へぎゅっと抱きつく力を少しだけ強くする。
「うん!」
母も腕に少しだけ力を込めた。
少女は母の温もりを確かめるように目を閉じる。
しばらく。
二人はそのまま抱きしめ合っていた。
やがて。
母はゆっくりと娘を離す。
赤い髪を優しく梳く。
そっと額を合わせる。
母は柔らかく微笑んだ。
少女も嬉しそうに笑った。
優しく頭を撫でると、その視線を双子へ向けた。
「二人とも。」
小さく手招きをする。
双子は少し不思議そうに近寄った。
母はそっと両手を伸ばす。
二人の頭へ優しく手を添え、そのまま静かに引き寄せた。
「いつもありがとう。」
双子は少しだけ目を見開く。
やがて。
どこか懐かしむように微笑んだ。
「……はい。」
少女はきょとんと見つめていた。
「お母様。」
「どうしたの?」
母は少女の方を振り向く。
「ふふ。」
「少しだけ、お礼を言いたくなったの。」
少女は小さく頷く。
それから。
つられるように笑った。
母はゆっくりと王へ目を向けた。
王も静かにその視線を受け止める。
しばらく。
言葉はなかった。
やがて。
互いに小さく頷く。
それだけだった。
母は馬車へ乗り込む。
窓が静かに開いた。
少女は大きく手を振る。
「いってらっしゃい!」
母も穏やかに微笑んだ。
「いってきます。」
馬車がゆっくりと動き出す。
少女は笑顔のまま、何度も手を振り続けた。
母も。
窓辺から微笑みながら応えた。
やがて。
馬車は小さくなり。
王城の門の向こうへ消えていった。
それでも。
少女は馬車が見えなくなっても、しばらくその場所から動かなかった。
小さな腕だけが、いつまでも空へ向かって揺れていた。




