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第十九話 今日から私は


翌朝。


少女は目を覚ました。


窓の外では鳥が鳴いていた。


朝日が差し込む病室は柔らかな光に満たされ、白いシーツも、壁も、花の飾られた棚も淡く照らされている。


研究施設の朝とは違った。


あそこでは決まった時間になると機械音声が流れ、起床を命じられ、課題と検査と訓練が始まる。


ここにはそれがない。


静かだった。


穏やかだった。


少女はぼんやりと天井を見上げる。


そして。


昨日のことを思い出した。


名前。


考える。


また明日。


意味はよく分からなかった。


けれど。


あの赤い髪の少女は本当に来る気がした。


理由はない。


ただ。


そう思った。


その時だった。


ばんっ。


勢いよく扉が開いた。


「決めた!!」


元気な声が病室へ響き渡る。


少女は瞬きをした。


赤い髪だった。


翡翠色の瞳だった。


そして。


昨日と同じように本を抱えている。


いや。


今日はそれだけではなかった。


腕の中には分厚い筆記帳まで抱えられている。


赤い髪の少女は息を切らしながらベッドの横まで駆け寄った。


「決めたの!」


「……?」


「名前!」


少女は首を傾げる。


赤い髪の少女は待ちきれない様子で筆記帳を机へ広げた。


ばさっ。


ページが開く。


少女は視線を落とした。


そこには文字が並んでいた。


何度も。


何度も。


何度も。


同じ文字が書かれている。


OM-1


O-M1


OM1


O-M-1


少女は瞬きをした。


自分だった。


そこに書かれているのは自分だった。


研究記録ではない。


観察記録でもない。


実験報告書でもない。


ただ。


自分について書かれた文字だった。


少女はページをめくる。


すると。


今度は。


おーえむわん


おーむぉわん


おーも……?


おもち?


そんな文字が並んでいた。


さらにページをめくる。


余白に。


肌がもちもち


ほっぺもちもち


やわらかい


白い


おもち


大きく丸で囲まれている。


少女はじっと見つめた。


しばらく。


本当にしばらく。


見つめていた。


赤い髪の少女の顔がみるみる赤くなっていく。


「あっ」


慌てた声。


「そこ見なくていいから!」


ばたばたと筆記帳を閉じようとする。


けれど。


少女はまだページを見ていた。


何ページも。


自分のことが書いてあった。


研究員が書く報告書とは違う。


数字がない。


評価がない。


観察結果もない。


ただ。


名前を考えた跡だった。


いや。


それだけではなかった。


少女はさらにページをめくる。


花畑。


図書塔。


お庭。


星を見る。


一緒に本を読みたい。


もっとお話したい。


知らない言葉ばかりだった。


けれど。


どれも自分へ向けられていることだけは分かった。


どうして。


少女は少し考える。


どうしてこの人は。


こんなにも私のことを考えるのだろう。


少女はゆっくり顔を上げる。


赤い髪の少女は恥ずかしそうに頬を押さえていた。


「変かな……?」


小さな声だった。


「でもね」


翡翠色の瞳がまっすぐこちらを見る。


「ずっと考えたの」


少女は黙って聞いている。


「おーえむわんも違うと思ったし」


「おりじんなんとかも難しいし」


「もっとこう」


言葉を探すように視線を泳がせる。


そして。


照れたように笑った。


「――おもちがいいなって思ったの」


少女は言葉を失う。


おもち。


その音を頭の中で繰り返す。


おもち。


おもち。


おもち。


知らない言葉だった。


けれど。


不思議と嫌ではなかった。


赤い髪の少女は少しだけ不安そうな顔になる。


「だめかな?」


少女は考える。


長く。


静かに。


名前。


研究施設では考えたこともなかった。


必要なかったから。


O-M-1。


研究員達はそう呼んだ。


少女もそう答えた。


けれど。


それは名前というより。


識別番号だった。


呼ばれるから振り返る。


呼ばれるから返事をする。


ただそれだけだった。


意味も知らない。


けれど。


今。


目の前には。


自分のためだけに何ページも使った筆記帳がある。


昨日からずっと考えていた跡がある。


少女はもう一度その文字を見る。


おもち。


大きく。


楽しそうに。


何度も書かれている。


そして。


ゆっくりと口を開いた。


「……おもち」


初めてだった。


その名前を呼んだのは。


赤い髪の少女の顔がぱっと明るくなる。


「そう!」


嬉しそうだった。


本当に嬉しそうだった。


赤い髪の少女は両手を握ったまま笑っていた。


「おもち!!」


少女はもう一度呟く。


「おもち」


不思議だった。


言葉が胸の中へ落ちていく。


O-M-1ではない。


Origin-0-Mirabilis-1でもない。


研究員達が呼ぶ名前ではない。


目の前の少女だけが呼ぶ名前。


初めて与えられたもの。


初めて自分のために考えられたもの。


赤い髪の少女は笑った。


今にも飛び跳ねそうなほど嬉しそうに。


「今日からあなたはおもち!!」


少女はその言葉を聞いていた。


おもち。


その名前をもう一度心の中で繰り返す。


私のことを考えて作られた名前。


よくわからない。


でも。


笑いながらその名前をくれた。


胸の奥が少しだけ温かく感じる。


その感覚の意味はわからない。


それでも。


今まで空っぽだった場所に。


何かが残った気がした。



今日から私は――おもち。


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