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第十七話 名前のない子(2)


部屋は静かだった。

窓の外では鳥が鳴いている。



柔らかな風が吹き込み、白いカーテンをゆっくりと揺らしていた。



研究施設には無かった音だった。



機械音でも。



警告音でも。



命令を告げる音声でもない。



ただそこにあるだけの音。



少女はベッドへ寄り掛かりながら、本を開いていた。



目の前には花の絵。



見たことのない色。



見たことのない形。



ページをめくるたびに知らないものが現れる。



少女は黙って読んでいた。



 向かいでは赤い髪の少女が嬉しそうに本を広げている。



 さっきからずっとそうだった。



 少女が本を見るたびに。



 これは何だとか。



 あれは何だとか。



 話しかけてくる。



 まるで自分のことみたいに楽しそうだった。



「これね」



 赤い髪の少女が花の絵を指差す。



「お城のお庭にも咲いてるんだよ」



 少女は絵を見る。



 白い花だった。



 小さな花弁が幾つも重なっている。



「本と同じ」



「うん」



 赤い髪の少女が笑う。



「でも本物の方が綺麗だよー!」



 少女は少し考えた。



 本物。



 まだ見たことがない。



「見たことない」



「そっか」



 赤い髪の少女は少しだけ驚いたように目を丸くした。



 そして。



 どこか考え込むような顔になる。



 花。



 鳥。



 森。



 空。



 少女は本で知っていた。



 けれど。



 それだけだった。



 知識として知っているだけ。



 実際に見たことはない。



 触れたこともない。



 それが赤い髪の少女には不思議だった。



 しばらくして。



「じゃあ今度見に行こうよ」



 少女は言った。



 あまりにも自然に。



 まるで明日の天気を話すみたいに。



 少女は顔を上げる。



「……?」



「お庭」



 赤い髪の少女が笑う。



「綺麗なんだよ」



 少女は答えなかった。



 綺麗という感覚がよく分からなかったからだ。



 けれど。



 赤い髪の少女は気にしない。



 楽しそうに話し続ける。



「あとね」



「鳥も来るの」



「小さいのとか大きいのとか」



「すごく可愛いんだから」



 少女は聞いていた。



 話の内容より。



 声を聞いていた。



 不思議だった。



 研究員達はこんな話をしなかった。



 課題。



 検査。



 訓練。



 評価。



 数字。



 記録。



 そればかりだった。



 けれど。



 この少女は違う。



 花の話をする。



 鳥の話をする。



 空の話をする。



 そんなもの。



 一度も必要だと思ったことはなかった。



 だから。



 少しだけ不思議だった。



 やがて。



 赤い髪の少女はふと黙り込んだ。



 何かを考えている顔だった。



 視線がこちらへ向く。



 そして。



「ねえ」



 少女が顔を上げる。



「なに」



 赤い髪の少女は少しだけ迷っていた。



 言葉を探すように。



 何度か瞬きをする。



 それから。



「名前がないと困らない?」



 少女は考える。



 長く。



 静かに。



 名前。



 親。



 家族。



 さっきの話。



 頭の中をゆっくり流れていく。



 けれど。



 答えは変わらなかった。



「わからない」



 本当に分からない。



 最初から無かった。



 だから。



 困ったこともない。



 欲しいと思ったこともない。



 必要だと思ったこともない。



 少女は正直に答えた。



「そうなんだ」



 赤い髪の少女は小さく頷く。



 そして。



 窓の外を見る。



 空だった。



 白い雲が流れている。



 鳥が飛んでいる。



 風が吹いている。



 少女もその横顔を見る。



 何を考えているのかは分からない。



 けれど。



 何かを考えているらしかった。



 しばらくして。



 部屋の外から声が聞こえた。



「姫様」



 扉の向こう。



 侍女の声だった。



「お時間です」



「あっ」



 赤い髪の少女が肩を跳ねさせる。



 どうやら帰る時間らしい。



 名残惜しそうな顔をしながら立ち上がる。



 そして。



 本を抱える。



「もうそんな時間かぁ」



 少しだけ不満そうだった。



 少女はその姿を見ている。



 赤い髪。



 翡翠色の瞳。



 楽しそうな顔。



 よく笑う人だった。



 赤い髪の少女は扉の前まで歩く。



 そこで。



 ふと思い出したように振り返る。



 そして。



 少しだけ照れたように笑った。



「ねえ」



 少女は見つめ返す。



「名前」



 赤い髪の少女が言う。



「――考えてきてもいい?」



 少女は首を傾げた。



 意味が分からなかった。



 名前を考える。



 どういうことだろう。



 けれど。



 赤い髪の少女はそれ以上説明しない。



 ただ。



 嬉しそうに笑う。



「また明日ね」



 そう言って。



 部屋を飛び出していった。



 ばたん。



 扉が閉まる。



 静寂が戻る。



 少女はしばらく扉を見つめていた。



 名前。



 考える。



 また明日。



 知らない言葉ばかりだった。



 それでも。



 最後の言葉だけは少し分かった気がした。



 また明日。



 つまり。



 また来る。



 少女は窓の外を見る。



 青い空。



 流れる雲。



 遠くを飛ぶ鳥。



 そして。



 小さく呟いた。



「……また来る」



 不思議だった。



 その言葉を思い出すと。



 胸の奥がほんの少しだけ温かくなる気がした。

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