第十七話 名前のない子(1)
翌朝。
少女は目を覚ました。
あれから次の日まで寝ていたようだ。
窓から差し込む朝の光が白いシーツの上へ柔らかく広がり、風に揺れる薄いカーテンがさらさらと音を立てるたびに、研究施設では一度も聞いたことのなかった木々のざわめきや鳥の声が部屋へ流れ込んでくる。
静かだった。
けれど。
研究施設の静けさとは違った。
あそこは何も存在しない静けさだった。
ここは。
たくさんの音がある静けさだった。
少女はしばらく天井を見上げる。
木目のある天井。
柔らかな光。
白い壁。
花の飾られた棚。
昨日よりも少しだけ、この部屋がどんな場所なのか理解できるような気がした。
もっとも。
理解できたところで。
特に何かを感じるわけではなかった。
少女はゆっくりと左手を見る。
包帯が巻かれている。
無意識に指先が伸びる。
掻こうとした。
けれど。
今日は少しだけ止まった。
昨日の温もりが残っている気がしたからだった。
理由は分からない。
それでも。
手は止まった。
その時だった。
ばんっ。
勢いよく扉が開いた。
「おはよう!」
元気な声が部屋へ飛び込んでくる。
少女は瞬きをした。
赤い髪だった。
昨日の少女だった。
朝日を受けた長い赤髪がきらきらと輝き、翡翠色の瞳はまるで宝石みたいに光を反射している。
両腕にはたくさんの本が抱えられていた。
厚い本。
薄い本。
絵の多い本。
古そうな本。
「ちゃんと来たよ!」
少女は言う。
本当に当たり前みたいに。
約束を守ったことを誇るみたいに。
少女はしばらくその顔を見つめていた。
そして小さく呟く。
「……来た」
「うん!」
嬉しそうだった。
どうしてそんなに嬉しいのかは分からない。
けれど。
嬉しいらしい。
赤い髪の少女はベッドの横へ駆け寄る。
そして。
本をどさどさと机へ積み上げた。
「いっぱい持ってきた!」
得意げだった。
少女は本を見る。
本は好きだった。
研究施設でも読んでいた。
課題として。
知識として。
理解するために。
けれど。
今並べられている本は少し違った。
花の絵。
鳥の絵。
森の絵。
空の絵。
知らない色がたくさん描かれている。
「昨日ね」
赤い髪の少女は話し始める。
「先生に怒られたの」
少女は聞いていた。
「また勝手に抜け出したって」
「……」
「私が悪いんだけどね」
赤い髪の少女は少し頬を膨らませる。
「あれだけ頭に本乗せて立ってたら背が縮んじゃうって!」
頭に本。
少女は少し考える。
よく分からなかった。
だから。
「わからない」
正直に答えた。
赤い髪の少女は一瞬固まったあと。
ふふっと笑った。
「そっか」
そして。
当たり前みたいにベッドの横へ腰を下ろす。
昨日と同じだった。
距離が近い。
近すぎるくらいだった。
少女は少しだけその様子を見る。
そして。
気付く。
まただった。
左手。
赤い髪の少女は何の迷いもなく少女の左手を両手で包み込むように握っている。
昨日と同じ。
まるでそれが当然みたいに。
少女はその手を見る。
小さい手だった。
柔らかい手だった。
温かい手だった。
その温もりが包帯越しに伝わってくる。
不思議だった。
どうして握るのだろう。
けれど。
昨日ほど嫌ではなかった。
「ねえ」
赤い髪の少女が言う。
「あなたの名前は?」
「……?」
名前?
わからない。
赤い髪の少女は少し困ったように考えてから。
「あなたはなんて呼ばれていたの?」
それならわかる。
少女は答える。
「Origin-0-Mirabilis-1」
赤い髪の少女が固まる。
「おりじん……?」
「Origin-0-Mirabilis-1」
少女は繰り返す。
それが自分だった。
それ以外の答えを知らなかった。
赤い髪の少女は何度か口の中で繰り返してみる。
「おりじん……みら……」
途中で諦めた。
「むずかしい!」
少女は黙っている。
むずかしいと言われても分からなかった。
そう呼ばれていたからだ。
さらに少女は続ける。
「O-M-1とも呼ばれていた」
「おーえむわん?」
「うん」
赤い髪の少女は首を傾げる。
何かを考えている顔だった。
「それがあなたの名前?」
少女は少し考える。
……名前。
その言葉は知っていた。
本で読んだこともある。
けれど。
それを考えたことはなかった。
「……わからない」
少女は首を傾げる。
赤い髪の少女も首を傾げる。
しばらく沈黙が続いた。
そして。
赤い髪の少女は少しだけ言い方を変えた。
「お父さんとかお母さんにつけてもらった名前は?」
少女は動きを止める。
親。
その言葉は知っていた。
本で読んだ。
家族。
父。
母。
そういうものがあるらしい。
けれど。
自分には無かった。
少女は静かに答える。
「わからない」
赤い髪の少女が少しだけ眉を下げる。
「覚えていない?」
少女は首を振った。
「違う」
そして。
少しだけ考える。
自分のことを話すのは初めてだった。
「私は」
言葉を探す。
ゆっくりと。
「生まれた時から施設にいた」
部屋が静かになる。
窓の外で鳥が鳴いた。
風がカーテンを揺らした。
その時だった。
胸の奥がざわつく。
少女は瞬きをする。
理由は分からない。
何か嫌なことを思い出したわけではない。
何か悲しいことを考えたわけでもない。
なのに。
胸の真ん中が苦しかった。
呼吸が少し浅くなる。
指先が僅かに震える。
右手が無意識に左腕へ伸びる。
いつもの癖だった。
それでも少女は続ける。
「だから」
「わからない」
「親も」
そして。
「名前も」
赤い髪の少女は何も言わなかった。
翡翠色の瞳が少しだけ揺れる。
「……ごめんね」
小さな声だった。
少女は首を傾げる。
「?」
「嫌なこと聞いちゃったかなって」
意味が分からなかった。
嫌なこと。
何のことだろう。
少女は少し考える。
けれど答えは見つからない。
「わからない」
正直に答える。
赤い髪の少女は困ったように笑った。
「そっか」
かわりに。
少女の左手を包む両手へ少しだけ力が入る。
その温もりは変わらない。
それでも。
赤い髪の少女の翡翠色の瞳を見ていると。
いつの間にか。
胸のざわめきは消えていた。
どうしてなのかは分からない。
けれど。
気付いた時には呼吸は元に戻っていた。




