第二話 月の向こう側
検査室は白かった。
壁も。
天井も。
床も。
部屋の隅に並ぶ大型の測定装置も。
魔力を記録する魔導機関も。
その前で端末を操作している研究員達の白衣も。
何もかもが白かった。
まるで色という概念そのものが失われてしまった世界みたいだった。
少女は部屋の中央に設置された金属製の椅子へ腰掛けていた。
椅子には幾つもの固定具が付いている。
両腕には魔力伝導用の銀環。
足首には測定用の拘束具。
首元には補助術式を展開するための銀色の輪。
床には複雑な魔法陣が幾重にも描かれていた。
見慣れた光景だった。
何年も前から。
物心がつくより前から。
何度も繰り返してきた光景だった。
だから怖くない。
怖いという感情を覚えるより先に慣れてしまったから。
研究員達が端末を操作する。
紙をめくる音。
魔導機関の低い駆動音。
測定装置の微かな振動。
規則正しく繰り返される機械音。
その全てが静かな部屋へ溶け込んでいた。
誰も雑談しない。
誰も笑わない。
誰も少女を見ない。
ただ仕事をしている。
それだけだった。
「O-M-1」
少女は顔を上げる。
「本日の出力測定を開始する」
「うん」
「補助装置を装着」
研究員が差し出したのは、見慣れた銀色の器具だった。
首輪のような形をした金属環。
内部へ埋め込まれた人工結晶。
細く伸びた魔力導線。
表面に刻まれた複雑な術式。
そして側面には管理番号。
O-M-1専用第三種星導魔術補助装置。
少女は少し眉を寄せた。
「……また?」
「必要だ」
「重い」
「必要だ」
返事は変わらない。
いつも同じだった。
少女は小さく息を吐く。
そして首元へ装着した。
冷たい金属が肌へ触れる。
少しだけ肩が重くなる。
嫌いだった。
首が疲れるから。
自由に動けないから。
けれど研究員達は誰も気にしない。
怒っているわけではない。
意地悪をしているわけでもない。
ただ必要だから装着させている。
それだけだった。
だから少女も文句を言うのをやめる。
言っても変わらないことを知っていた。
『星導魔術適性出力試験開始』
機械音声が響いた。
床の魔法陣が光る。
淡い蒼白の光が幾何学模様に沿って広がり、椅子の脚元から天井近くまで無数の光の線を描いていく。
少女は静かに目を閉じた。
身体の奥で何かが動く。
熱い。
胸の奥に閉じ込められている何かが目を覚ますような感覚。
魔力が流れ始める。
空気が震える。
銀色の髪がふわりと浮き上がる。
研究員達の視線は少女ではなく端末へ向いていた。
「出力上昇」
「同期率更新」
「第一段階突破」
「第二段階移行」
淡々とした報告が続く。
少女は黙っていた。
少し息苦しい。
身体が重い。
胸の奥が焼けるように熱い。
でもいつものことだった。
『第三段階』
その瞬間。
光が一段階強くなる。
身体の内側で暴れていた何かが、一気に表面へ押し寄せてきた。
ぱきり。
小さな音が響く。
左手首だった。
白い皮膚へ細い亀裂が走る。
痛みが生まれる。
鋭く。
焼けるように。
けれど少女は声を上げない。
慣れていた。
昔からこうだった。
だから黙って耐える。
ぱき。
ぱきぱき。
今度は指先。
肘。
首元。
頬。
細い亀裂が次々と増えていく。
白い肌へ夜空のひび割れみたいな線が走る。
その隙間から。
光が漏れ出した。
銀色。
蒼色。
薄紫。
まるで夜空の欠片を閉じ込めたような光だった。
星屑が零れるように少女の身体から溢れていく。
痛い。
本当は嫌だった。
皮膚が裂ける感覚も。
身体の内側から何かが漏れていく感覚も。
全部嫌だった。
けれど。
誰も止めることはない。
「侵食率上昇」
「第三層到達」
「魔力漏出確認」
「記録継続」
研究員達は記録を続けていた。
少女ではなく数字を見る。
傷ではなく結果を見る。
痛みではなく変化を見る。
だから少女も何も言わない。
言う意味がないことを知っていた。
やがて試験が終わる。
光が消える。
部屋へ静寂が戻り、研究員達が近付いてくる。
「治療班」
「呼びます」
さ数分後。
治療術師が現れる。
淡い光が亀裂へ触れる。
少しだけ傷が塞がる。
けれど完全には治らない。
でも明日になれば勝手に消えているから。
あまり気にしたことがない。
いつもそうだから。
「痛みは」
「少し」
「異常は」
「ない」
端末へ記録される。
それで終わりだった。
誰も少女に声を掛けることはない。
痛かったな、と。
頑張ったな、と。
少女も求めない。
そんな言葉を知らないから。
◇
その日の夜。
全ての予定を終えた少女は部屋へ戻るため廊下を歩いていた。
長い廊下だった。
白い壁。
白い床。
規則正しく並ぶ照明。
どこまでも続く人工的な景色。
その途中。
ふと足が止まった。
廊下の端。
人がほとんど通らない場所。
そこに小さな窓があった。
少女は近付く。
何となくだった。
理由はない。
ただ気になった。
窓の向こうには夜が広がっていた。
黒い空。
どこまでも続く闇。
研究施設の白とはまるで違う世界。
そして。
その中心に。
一つの光が浮かんでいた。
月だった。
白く。
静かで。
遠かった。
研究施設の照明とは違う。
誰かを監視する光ではない。
命令する光でもない。
ただそこにあるだけの光だった。
少女は見上げる。
ずっと見上げる。
なぜだろうと思った。
どうしてだろうと思った。
分からない。
けれど目が離せなかった。
胸の奥が少しだけざわつく。
検査の痛みとも違う。
魔力とも違う。
知らない感覚だった。
月の向こうには何があるのだろう。
空の向こうには。
研究施設の外には。
何があるのだろう。
そんなことを考えたのは初めてだった。
「O-M-1」
後ろから声がする。
研究員だった。
「消灯時間だ」
「うん」
少女は返事をする。
それでもすぐには動かなかった。
もう一度だけ月を見る。
遠く。
届かない場所。
胸の奥に残った小さなざわめきの名前を。
少女はまだ知らない。
それが憧れだということも。
まだ知らなかった。




