第一話 名前のない少女
目を覚ました時、部屋はまだ薄暗かった。
天井の照明は落とされたままで、広い部屋の中には淡い非常灯の光だけが残っている。
静かな朝だった。
いや、朝と呼んでいいのかも少女には分からない。
窓がないから。
この部屋には外の景色が見える場所がない。
朝なのか。夜なのか。雨なのか。晴れなのか。
それを知る方法は存在しない。
だから少女にとって一日の始まりとは、空の色ではなく機械音声で決まるものだった。
部屋のどこかで、低い駆動音が響いている。
ごう、と。
遠くで巨大な機械が呼吸しているような音だった。
少女はぼんやりと天井を見上げる。
豪華な照明。
白く磨き上げられた壁。
天井には精巧な装飾まで施されている。
部屋だけ見れば貴族の屋敷の一室のようだった。
けれど、その景色はどこか歪だった。
壁一面を埋め尽くす本棚。
隙間なく並べられた魔導書。
難解な魔術理論書。
分厚い論文集。
机の上には読みかけの資料が積み上がっている。
羊皮紙。
研究報告書。
魔法陣設計図。
そして少女にも用途が分からない金属器具。
床にも本が積まれていた。
開かれたまま放置された魔導書。
無造作に広げられた設計図。
書き込みだらけの羊皮紙。
誰かが慌てて仕事を途中で放り出したみたいな部屋。
けれど、それがいつもの光景だった。
昨日と同じ。
一昨日とも同じ。
もっと前とも同じ。
少なくとも少女の覚えている限りでは、ずっとそうだった。
やがて、ぱちり、と音がする。
天井の照明が一斉に点灯した。
白い光が部屋を満たす。
それと同時に、聞き慣れた機械音声が流れた。
『Origin-0-Mirabilis-1。起床時間です』
少女はゆっくりと身体を起こした。
寝癖で乱れた銀色の髪が肩から滑り落ちる。
長い髪だった。
椅子に座れば床に届くほど。
研究員達は時々邪魔そうにしていたが、切られることはなかった。
少女自身も特に気にしていない。
床へ足を下ろす。
ひやりとした冷たさが裸足に伝わる。
けれど、それもいつものことだった。
冷たい。ただそれだけ。
他を知らないから比較もない。
これが普通だった。
少女は机の上へ置かれていた金属器具を手に取る。
首輪のような形をした装置。
銀色の金属フレーム。
内部へ埋め込まれた人工結晶。
細く伸びる魔力導線。
側面には管理番号まで刻印されている。
重い。
冷たい。
嫌いだった。
それでも毎日装着する。
そういうものだから。
◇
この施設の朝は忙しい。
朝食。
検査。
魔力測定。
座学。
実技訓練。
観察。
報告。
評価。
そしてまた検査。
少女の一日は細かく決められていた。
毎日同じだった。
驚くほど同じだった。
変わることがない。
だから少女は疑問に思ったこともない。
世界とはこういうものなのだと思っていた。
施設にはたくさんの人がいる。
白衣を着た研究員達。
資料を抱えて走る職員。
端末を操作する技術者。
忙しそうな足音。
飛び交う報告。
誰もが何かをしていた。
けれど。
少女だけは少し違った。
食堂へ入る。
長いテーブル。
多くの人々。
賑やかな会話。
食器の音。
笑い声。
その中で少女の席だけが少し離れていた。
いつも同じ場所。
いつも同じ椅子。
いつも同じ距離。
誰も隣へ座らない。
それが当たり前だった。
少女も気にしていない。
気にしたことがない。
食事が終わる。
次は検査だった。
「O-M-1。本日の体調は」
「普通」
「睡眠時間は」
「覚えてない」
「夢は」
「見てない」
研究員は頷く。
端末へ入力する。
それだけだった。
顔を上げない。
少女を見ることもない。
まるで機械の記録作業だった。
「O-M-1専用第三種星導魔術補助装置を装着しろ」
研究員が言う。
少女は首輪を持ち上げる。
「……変な首輪?」
「補助装置だ」
「重いからきらい」
「装着しろ」
会話は終わった。
研究員はもう端末を見ている。
次の検査項目を確認していた。
昔からそうだった。
誰も名前では呼ばない。
Origin-0-Mirabilis-1。
O-M-1。
適性個体。
観察対象。
色々な呼び方があった。
けれど名前はない。
だから少女は、自分に名前がないことを不思議だと思ったこともなかった。
それが当たり前だったから。




