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第十五話 知らない天井 知らない温度


温かかった。


最初に感じたのはそれだった。


痛みではなかった。


熱でもなかった。


検査装置の光でもなかった。


もっと静かで。


もっと柔らかくて。


まるで誰かの体温が、冷え切った身体の奥へ少しずつ染み込んでくるような温もりだった。


ぼんやりとした意識の中で。


少女はその感覚を感じていた。


遠くで何かの声が聞こえる。


誰かが話している気がする。


けれど内容までは分からない。


意識は深い水の底に沈んでいて。


浮かび上がろうとしても身体が言うことを聞かなかった。


夢を見ていた気がする。


暗い森。


冷たい土。


赤い瞳。


牙。


遠吠え。


白い月。


そして。


『死んじゃだめ!!』


その声だけが。


不思議なほど鮮明に残っていた。


泣きそうな声だった。


必死な声だった。


知らないはずなのに。


なぜか忘れられない声だった。



少女はゆっくりと目を開く。


視界が白く滲んでいた。


眩しい。


思わず瞳を細める。


研究施設の照明とは違う。


無機質な白ではなかった。


もっと柔らかい。


もっと暖かい。


窓から差し込む光だった。


薄いカーテンが風に揺れている。


どこかで鳥の声が聞こえる。


遠くから。


小さく。


静かに。


少女はそれを聞いていた。


しばらく。


何も考えずに。


ただ聞いていた。


少女は瞬きを繰り返す。


知らない天井だった。


研究施設の天井は真っ白だった。


飾りもない。


色もない。


ただの白。


けれど今見えている天井には木の模様があった。


柔らかな色合いがあった。


少女はしばらく天井を見つめる。


頭が働かない。


そして。


掠れた声で呟く。


「……ここ……どこ?」


自分でも驚くほど小さな声だった。


ここがどこなのか分からない。


ただ。


研究施設ではない。


それだけは分かった。


身体を動かそうとして。


そこで初めて違和感に気付く。


身体中に包帯が巻かれていた。


首。


肩。


腕。


胸。


脚。


視界へ入る場所だけでも数え切れない。


ゆっくりと腕を動かす。


少し痛い。


けれど。


あの森で感じていた痛みとは比べ物にならなかった。


折れていたはずの腕も動く。


脚も動く。


呼吸もできる。


生きていた。


まだ。


生きていた。


少女はその事実を静かに受け止める。


驚きはなかった。


喜びもなかった。


ただ。


そうなんだ。


と思っただけだった。


その時。


右手に違和感を覚える。


何かが触れている。


温かい。


柔らかい。


少女はゆっくりと視線を落とした。


そして。


動きを止めた。


そこに。


知らない少女がいた。


長い赤髪。


白いシーツの上へ流れるように広がった髪が、朝日を受けて宝石みたいに輝いている。


少女はベッドへ半分身体を預けるような格好で眠っていた。


上半身だけがベッドへ乗り上げている。


穏やかな顔だった。


研究員が眠っている姿を見たことはなかった。


いつも忙しそうで。


いつも何かを記録していて。


いつも仕事をしていた。


だから。


眠っている人を見ること自体が珍しかった。


眠っている少女の手は。


しっかりと握られていた。


離さないように。


どこかへ行ってしまわないように。


小さな手が。


自分の手を包み込むように握っている。


少女はその光景を見つめる。


理解できなかった。


なぜ手を握っているのだろう。


なぜここにいるのだろう。


なぜ眠っているのだろう。


なぜ離れないのだろう。


離そうと思えば離せた。


けれど。


離さなかった。


温かかったからだ。


手のひらから伝わる熱。


生きている誰かの温度。


それは知らない感覚だった。


研究施設での体験にはないものだった。


怪我をしたことは何度もある。


腕を失ったこともある。


身体が壊れたこともある。


治療もされた。


薬も使われた。


包帯も巻かれた。


けれど。


それだけだった。


眠るまで傍にいる人はいなかった。


手を握る人もいなかった。


うなされるたびに声を掛ける人もいなかった。


だから。


分からなかった。


少女はじっと赤髪の少女を見る。


穏やかな寝顔だった。


長い睫毛。


規則正しい呼吸。


少しだけ乱れた髪。


そして。


目元には薄く涙の跡が残っていた。


泣いたのだろうか。


どうして。


よく分からない。


この少女を見た覚えはなかった。


少女も自分を知らないはず。


少なくとも。


少女はそう思っていた。


それなのに。


どうして泣くのだろう。


どうして手を握るのだろう。


どうして眠るまでここにいるのだろう。


分からない。


本当に。


何ひとつ分からなかった。


その時。


握られた手が少し動いた。


「ん……」


小さな寝言。


赤髪の少女が眉を動かす。


そして。


ゆっくりと瞳を開いた。


翡翠色の瞳だった。


朝日を映した宝石みたいな瞳。


数秒。


二人は見つめ合う。


少女は固まる。


赤髪の少女も固まる。


赤髪の少女の瞳が大きく開く。


口もぱくぱく動く。


信じられないものを見るみたいに。


そして。


次の瞬間。


「おきたぁぁぁぁぁっ!!」


部屋中へ響くほどの大きな声が飛び出した。


少女は瞬きをする。


赤髪の少女は今にも泣き出しそうな顔をしていた。


本当に。


今にも泣いてしまいそうだった。


「よかった……!」


「よかったぁ……!」


「ほんとうに……!」


震える声。


潤んだ瞳。


安堵した表情。


少女には理解できなかった。


どうしてそんな顔をしているのか。


どうしてそんなに嬉しそうなのか。


どうして泣きそうなのか。


何も分からない。


だから。


小さく口を開いた。


「……なんで?」


赤髪の少女は首を傾げる。


「え?」


「なんで……泣いてるの?」


その問いに。


赤髪の少女は。


本当に不思議そうな顔をした。

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