第十二話 終わりの足音
赤い光だけは消えなかった。
風が吹く。
木々が揺れる。
葉が擦れる。
暗闇の中で。
赤い目だけが少女を見ていた。
じっと。
静かに。
逃がさないように。
◇
枝が鳴る。
低い唸り声。
次の瞬間。
黒い影が飛び出した。
大きな身体。
濁った赤い目。
剥き出しの牙。
土が弾ける。
距離が消える。
衝撃。
少女の身体が吹き飛んだ。
地面を転がる。
石へぶつかる。
木の根へぶつかる。
枝が肌を裂く。
裸足の足裏が擦れる。
皮膚が剥がれる。
赤い跡が土の上へ残る。
肩が地面へ叩き付けられる。
鈍い音が響く。
肺から空気が押し出された。
腕の中から魔導書が離れる。
宙を舞う。
回転する。
落ちる。
泥水の中へ。
鈍い音が森へ沈んだ。
少女はしばらく動かなかった。
白い寝間着は泥だらけだった。
袖は裂けている。
腕には擦り傷。
脚には切り傷。
枝で裂かれた傷口から血が滲んでいた。
裸足の足裏は赤く染まっている。
転がるたびに開いた傷へ泥が入り込んでいた。
それでも。
少女は立ち上がらない。
ただ。
少し離れた場所へ落ちた魔導書を見ていた。
表紙が開いている。
泥が滲む。
頁が濡れる。
文字が崩れる。
計算式が滲む。
術式が読めなくなっていく。
何度も開いた頁だった。
課題を書き込み。
術式を書き込み。
計算を繰り返した本だった。
生まれてから。
ずっと傍にあったものだった。
泥が頁を覆う。
風が吹く。
一枚。
また一枚。
頁が捲れる。
貼り付く。
形が少しずつ失われていく。
けれど。
少女は手を伸ばさなかった。
拾おうとも思わなかった。
ただ見ていた。
◇
低い唸り声。
少女は顔を上げる。
黒い影が近付いている。
赤い目。
大きな牙。
距離はもうなかった。
周囲の茂みでも葉が揺れる。
赤い光が動く。
一匹ではない。
二匹。
三匹。
もっといた。
暗闇の中で少女を囲んでいる。
訓練で習ったことがあった。
群れに囲まれたら逃げろ。
距離を取れ。
高所を確保しろ。
救援を呼べ。
全部覚えている。
けれど。
身体は動かなかった。
逃げるという考えが浮かばなかった。
魔獣が近付く。
少女は立ち上がらない。
逃げない。
魔法も使わない。
ただ。
近付いてくる魔獣を見ていた。
まるで。
他人事みたいに。
◇
風が吹く。
泥の中で頁が揺れる。
一枚だけ。
千切れた紙が空へ舞った。
術式の書かれた頁だった。
風に運ばれる。
木々の向こうへ消える。
少女はそれを見送った。
追い掛けようとはしなかった。
◇
衝撃。
牙が肩へ食い込む。
服が裂ける。
肉が抉れる。
血が飛ぶ。
白い布が赤く染まる。
肩口から滴った血が葉を濡らした。
身体が浮く。
木々が流れる。
空が揺れる。
地面が遠ざかる。
枝へぶつかる。
幹へぶつかる。
折れた枝が背中へ食い込む。
再び血が飛ぶ。
それでも。
少女の喉から悲鳴は出なかった。
◇
さらに奥へ。
さらに深く。
森の闇の方へ。
黒い影が駆けていく。
木々が揺れる。
葉が舞う。
やがて。
それすら見えなくなった。
後ろには。
泥に沈んだ魔導書だけが残されていた。
開いた頁は水を吸い。
文字は滲み。
少しずつ読めなくなっていく。
風が吹く。
頁が揺れる。
けれど。
それを拾う者はもういなかった。




