第十一話 森の奥
少女は森の中にいた。
いつからここを歩いていたのか分からない。
どれだけ進んだのかも分からない。
振り返ろうとは思わなかった。
足だけが前へ進んでいた。
湿った土を踏む。
落ち葉を踏む。
裸足の足裏へ冷たい感触が伝わる。
ざく。
ざく。
ざく。
小さな音だけが続いていた。
◇
頭上では木々が揺れていた。
葉が擦れ合う。
枝が軋む。
鳥の声が聞こえる。
風が吹いている。
誰かから風の話を聞いたことがある気がした。
いつだったのかは思い出せない。
思い出そうとも思わなかった。
森はただそこにあった。
少女もただそこにいた。
◇
枝が頬を掠めた。
細い傷が出来る。
赤い線が走る。
血が一筋だけ流れた。
やがて顎を伝い、土へ落ちる。
少女はそのまま進む。
風が吹く。
髪が揺れる。
傷口が少しだけ滲む。
それだけだった。
◇
湿った地面へ足が沈む。
泥が足首まで跳ねる。
白い寝間着の裾が黒く汚れる。
ぬかるみに足を取られる。
身体が少し傾く。
それでも転ばない。
また前へ進む。
泥が足裏へ張り付く。
落ち葉が貼り付く。
小石が食い込む。
やがて離れる。
それを繰り返す。
◇
『こっちにおいで』
声が聞こえた気がした。
少女は顔を上げる。
木々の隙間。
白いものが見えた気がした。
人影だったかもしれない。
光だったかもしれない。
よく分からない。
ただ。
足がそちらへ向いた。
近付く。
木々の間を抜ける。
辿り着く。
そこには何もない。
風だけが残っていた。
少女は立ち止まらない。
また進む。
しばらくすると。
また白いものが見える。
また近付く。
また消える。
何度も。
何度も。
何度も。
まるで森の奥へ誘われているみたいだった。
◇
折れた枝を踏んだ。
ぱきり。
乾いた音が鳴る。
尖った先端が足裏へ突き刺さる。
皮膚が裂ける。
赤い雫が落ちる。
土へ染み込む。
少女は足を止めない。
後ろには血の跡だけが残る。
◇
気付けば周囲は暗くなっていた。
木々の形が変わっている。
枝は歪み。
幹は裂け。
黒い蔦が絡み付いている。
苔も黒ずんでいた。
森の奥へ進むほど。
景色は少しずつ変わっていく。
空は見えない。
光も届かない。
木々が頭上を覆い隠していた。
◇
鳥の声が聞こえなくなっていた。
虫も鳴いていない。
風も弱い。
葉も揺れない。
森全体が息を潜めているようだった。
静かだった。
ひどく静かだった。
少女の足音だけが響いていた。
◇
腕の中には魔導書があった。
厚い表紙。
擦り切れた角。
何度も開いた跡。
課題。
勉強。
訓練。
検査。
生まれてからずっと傍にあったもの。
理由は分からない。
けれど。
気付けば抱えていた。
それだけだった。
◇
低い遠吠えが響いた。
森の奥からだった。
腹の底へ響くような声。
木々の間を渡る唸り。
それは一度だけではなかった。
遠くで。
また別の声が返ってくる。
そして。
静寂。
◇
茂みの奥で。
赤い光が二つ揺れた。
じっとこちらを見ている。
暗闇の中で。
ゆっくりと瞬く。
獣の目だった。
その奥。
さらに奥。
また赤い光が灯る。
二つ。
四つ。
六つ。
八つ。
増えていく。
木々の隙間で揺れている。
少女を見ている。
囲むように。
静かに。
ゆっくりと。
距離を詰めながら。
風が吹いた。
木々が揺れる。
赤い光だけは消えなかった。
少女は立ち尽くしていた。
腕の中へ魔導書を抱えたまま。
虚ろな瞳で。
ただそれを見つめていた。




