第十話 開いた世界
少女は歩いていた。
長い廊下だった。
見慣れた場所だった。
生まれてからずっと暮らしてきた施設だった。
けれど。
こんなふうに歩いたことはなかった。
いつもは研究員がいた。
検査室へ向かう時も。
訓練場へ向かう時も。
食堂へ向かう時も。
必ず誰かがいた。
決められた道を歩き。
決められた場所へ行き。
決められた時間を過ごす。
それだけだった。
だから少女は知らない。
この施設がどれほど広いのかも。
どこまで続いているのかも。
知ろうと思ったこともなかった。
与えられた部屋。
与えられた課題。
与えられた検査。
それだけが世界だったから。
今も別に興味はない。
知りたいわけではない。
見たいわけでもない。
ただ。
足だけが動いていた。
どこか遠くから呼ばれている気がした。
ずっと遠く。
届くはずのない場所から。
白い髪の少年が手を振っているような気がした。
『こっちにおいで』
声が聞こえる。
幻聴かもしれない。
夢の続きかもしれない。
どちらでもよかった。
少女は階段を降りる。
鉄の手すりへ触れる。
冷たい。
ただそれだけだった。
見たことのない区画を通る。
重い扉。
赤い警告灯。
封鎖された研究室。
魔力封印区画。
昔なら立ち止まっていたかもしれない。
今は違った。
何も感じなかった。
興味も。
疑問も。
何も。
虚ろな瞳が前だけを見ていた。
焦点が合っているのかさえ分からない。
まるで身体だけが歩いていて。
心はずっと後ろへ置いてきてしまったみたいだった。
◇
やがて。
少女は巨大な鉄扉の前で立ち止まった。
搬入口だった。
施設へ物資を運び込むための大きな扉。
その片側が半分だけ開いている。
隙間から光が差し込んでいた。
眩しかった。
少女は目を細めてゆっくり近づく。
一歩。
また一歩。
そして。
扉の向こうを見る。
世界があった。
空だった。
終わりが見えなかった。
施設の天井とは違う。
どこまで続いているのか分からない。
雲が流れている。
風が吹いている。
遠くの草原が揺れている。
鳥が飛んでいる。
知らない。
何もかも知らない。
少女はしばらく立ち尽くした。
感動しているわけではなかった。
嬉しいわけでもなかった。
ただ。
理解が追い付かなかった。
空だった。
広かった。
それ以外は。
よく分からなかった。
やがて。
風が吹いた。
銀色の長い髪が揺れる。
頬を撫でる。
少し冷たい。
それだけ。
少女は腕から伸びる透明な管を見た。
点滴。
いつから繋がっていたのかも覚えていない。
ただ。
ずっと繋がれていた気がした。
少女は管を掴む。
そして。
引き抜いた。
少し痛かった。
血が一滴だけ落ちる。
透明な液体が地面へ零れていた。
少女は足を止める。
そして。
ほんの少しだけ後ろを振り返った。
白い施設が見える。
生まれてからずっといた場所だった。
けれど。
何も感じなかった。
もし今ここで研究員に見つかったら。
きっと連れ戻される。
また検査が始まる。
また課題が積まれる。
また訓練が始まる。
そう思った。
けれど。
だからどうしたのだろうとも思った。
連れ戻されてもいい。
戻されなくてもいい。
もはやどちらでもよかった。
何もないから。
何も感じないから。
希望があったからではない。
自由になりたかったからでもない。
ただ。
どこか遠くで。
少年の声が聞こえた気がした。
『こっちにおいで』
風が吹く。
草が揺れる。
少女はその方向へ歩き出した。
空っぽのまま。
何も持たないまま。
ただ一冊の魔導書だけを抱えて。




