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第九話 扉


何もなかった。


本当に。


何も。


朝になれば起きる。


着替える。


検査を受ける。


訓練を受ける。


課題をこなす。


眠る。


また朝になる。


繰り返し。


繰り返し。


繰り返し。


昨日と今日の違いも分からない。


何日経ったのかも分からない。


何ヶ月経ったのかも分からない。


少女は考えなくなっていた。


考えると苦しいから。


考えると怖いから。


だから考えない。


そうしているうちに。


少しずつ。


本当に少しずつ。


何かが抜け落ちていった。


痛みも。


怖さも。


悲しさも。


寂しさも。


全部。


遠くなっていく。


訓練で皮膚が裂ける。


血が流れる。


首元から。


腕から。


頬から。


細い亀裂が走り。


そこから蒼白い星の光が滲み出していく。


以前なら怖かった。


以前なら涙が出た。


以前なら腕を抱えて震えていた。


今は違う。


ああ。


またか。


それだけだった。


研究員達は満足そうだった。


「精神状態安定」


「出力制御向上」


「命令順守率改善」


「観測継続」


数字が並ぶ。


報告書が増える。


記録が積み重なる。


少女は聞いていた。


けれど。


意味までは考えなかった。


考えない方が楽だった。


    ◇


夜。


部屋。


窓のない部屋。


豪華な天蓋付きのベッド。


壁一面を埋め尽くす本棚。


高価な調度品。


大量の魔導書。


論文。


設計図。


誰かが見れば恵まれていると思うかもしれない。


けれど。


少女にはただの箱だった。


生まれてからずっと閉じ込められていた箱。


静かだった。


静かすぎた。


少女は机へ座っていた。


本を開いている。


だが。


一時間前から同じページだった。


文字は見えている。


読めている。


けれど。


頭に入らない。


意味を考えていないから。


気付けば。


右手が左腕を掻いていた。


掻く。


掻く。


掻く。


無意識だった。


爪が皮膚へ食い込む。


赤くなる。


少し血が滲む。


それでも止まらない。


もう癖になっていた。


失われて。


戻ってきた腕。


普通ではない腕。


気持ち悪いと言われた腕。


そこだけが。


未だに身体の一部ではないみたいだった。


不意に。


『ねえ』


声がした気がした。


少女は顔を上げる。


虚ろな瞳だった。


焦点が合っているのかも分からない。


まるで。


心だけどこかへ置いてきてしまったみたいな目だった。


部屋には誰もいない。


静かな部屋。


機械音だけが響いている。


気のせいだったかもしれない。


少女はまた本へ視線を落とす。


『ねえ』


今度は少し近かった。


少女はゆっくり振り返る。


誰もいない。


当たり前だった。


ここには誰も来ない。


研究員以外。


誰も。


それでも。


聞こえた気がした。


『こっちにおいで』


少女の指先が止まる。


知っている声だった。


白い髪の少年。


夢に出てきた少年。


破裂した少年。


名前を知らない少年。


少女はしばらく黙っていた。


怖くはなかった。


悲しくもなかった。


もう。


そういう感情は遠くなってしまったから。


ただ。


声だけが残っている。


頭の奥で何度も響いている。


『こっちにおいで』


どこへ。


そう思った。


けれど。


答えを聞こうとは思わなかった。


何も考えたくなかったから。


少女は机へ突っ伏す。


眠る。


夢は見なかった。


    ◇


翌日。


少女は違和感で目を覚ました。


静かだった。


妙に。


不自然なくらい静かだった。


いつもなら聞こえる。


研究員達の足音。


運搬台車の音。


機械の駆動音。


連絡放送。


何かしら聞こえる。


今日は違った。


まるで施設そのものが息を潜めているみたいだった。


少女は机を見る。


課題が少ない。


二冊。


たった二冊だった。


論文の束もない。


追加資料もない。


違和感。


けれど。


別にどうでもよかった。


少女は立ち上がる。


そして。


ふと。


視線が止まる。


扉だった。


部屋の出口。


いつも閉じている扉。


決められた時間だけ開く扉。


少女が自由に通ることはない扉。


その扉が。


開いていた。


少女は動かなかった。


長い間。


ただ見ていた。


開いている。


本当に。


開いている。


隙間ではない。


完全に。


向こう側が見えている。


白い廊下。


長く続く通路。


知らない景色。


見慣れているはずなのに。


なぜか。


知らない世界みたいだった。


『こっちにおいで』


また聞こえた。


少年の声。


幻聴。


たぶん。


きっと。


もういないはずだから。


少女は点滴台を押す。


車輪が小さな音を立てる。


もう何日もそうしていたから。


特別なことではなかった。


少女は本棚へ視線を向ける。


しばらく眺める。


そして。


一冊の魔導書を手に取った。


理由は分からない。


必要だとも思わない。


けれど。


自然に手が伸びていた。


生まれてから。


ずっとそこにあったもの。


机。


本。


課題。


魔導書。


それだけが人生だった。


だからなのかもしれない。


少女はその本を胸へ抱える。


まるで。


自分自身の欠片を抱きしめるみたいに。


そして。


一歩。


扉へ近付く。


心は動かない。


何も感じない。


怖くもない。


嬉しくもない。


ただ。


何かに呼ばれている気がした。


それが何なのかは分からない。


少年かもしれない。


ただの気のせいかもしれない。


少女には分からなかった。


だから。


考えない。


考えないまま。


開いた扉の向こうへ。


ゆっくりと足を踏み出した。

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