第八話 空っぽの器(2)
「気持ち悪い」
その言葉は。
怒鳴り声ではなかった。
叱責でもなかった。
ただ。
本当にただ。
思わず漏れてしまったような一言だった。
けれど。
少女には十分だった。
研究員の白衣を掴んでいた指から力が抜ける。
するり。
白い布が離れていく。
少女は何も言えなかった。
涙も。
叫び声も。
助けを求める言葉も。
全部。
喉の奥で止まってしまった。
研究員の顔だけを見ていた。
怖がっていた。
嫌がっていた。
理解できないものを見る目だった。
その視線だけが。
胸の奥へ深く突き刺さった。
◇
訓練場。
白い壁。
白い床。
魔導障壁。
観測装置。
研究員達。
いつもの光景だった。
昨日と同じ。
一昨日と同じ。
その前とも同じ。
何も変わらない。
変わったのは。
少女だけだった。
呼吸が速い。
胸が苦しい。
指先が震える。
視線が定まらない。
気付けば。
右手が左腕を掻いている。
掻く。
掻く。
掻く。
爪が皮膚へ食い込む。
赤くなる。
血が滲む。
それでも止まらない。
『限界値測定開始』
機械音声が響く。
少女の肩が跳ねた。
「出力上昇」
怖い。
「継続」
怖い。
「さらに上昇」
怖い。
身体の奥で魔力が脈打つ。
熱い。
苦しい。
息が出来ない。
ぱき。
右腕。
ぱき。
首。
ぱき。
頬。
紫色の光が漏れ出す。
その瞬間だった。
見えた。
白い髪。
青白い顔。
笑顔。
第七個体。
『こっちにおいで』
「やだ」
誰も反応しない。
幻だから。
『楽になるよ』
「やだ」
『もう痛くない』
「やだ」
『終われるよ』
「やだああああああ!!」
少女が叫ぶ。
轟音。
魔力が暴走した。
訓練場全体が揺れる。
床へ亀裂が走る。
障壁が軋む。
観測装置が吹き飛ぶ。
研究員達が悲鳴を上げる。
「抑えろ!!」
「暴走だ!!」
「拘束術式!!」
光の鎖が伸びる。
少女は逃げる。
泣きながら。
叫びながら。
逃げる。
怖かった。
本当に怖かった。
死にたくなかった。
破裂したくなかった。
少年みたいになりたくなかった。
「やだ!!」
涙が止まらない。
「やだ!!」
嗚咽が漏れる。
「やだ!!」
鼻水も涙もぐちゃぐちゃだった。
子供らしく。
みっともなく。
必死に。
生きたいと泣いていた。
「お願い……」
助けて。
「お願いだから……」
怖い。
「やだ……」
死にたくない。
「助けて……」
誰か。
誰か。
誰か。
けれど。
誰も抱き締めてくれない。
誰も大丈夫だと言わない。
何人もの研究員と警備員が少女を押さえ込む。
手首。
足首。
肩。
首。
床へ押し倒される。
「やだ!!」
泣く。
「やだ!!」
叫ぶ。
「やだ!!」
暴れる。
そして。
首筋へ鎮静薬が打ち込まれた。
視界が揺れる。
意識が遠くなる。
最後に見えたのは。
観測窓の向こうで記録を続ける研究員達だった。
誰も悲しんでいない。
誰も苦しんでいない。
ただ。
記録していた。
数字を見ていた。
結果を見ていた。
少女ではなく。
現象を見ていた。
◇
翌日も。
同じだった。
また夢を見る。
また飛び起きる。
また左腕を掻く。
また怖くなる。
食事も少しずつ喉を通らなくなっていった。
最初は無理をすれば食べられた。
けれど。
夢を見るたびに。
第七個体を思い出すたびに。
口へ運んだ食事が気持ち悪くなった。
飲み込めなくなった。
吐いた。
研究員達は記録した。
摂取量低下。
睡眠障害。
精神状態悪化。
数字だけが増えていく。
やがて食事だけではなく水分も受け付けなくなった。
飲んでも吐く。
飲まなくても吐く。
身体だけが少しずつ痩せていった。
そして。
やがて少女の腕には点滴が繋がれるようになった。
透明な液体が管を通って体内へ流れ込む。
生きるために必要だから。
ただそれだけの理由で。
けれど少女は何度も引き抜いた。
夜中に飛び起きて。
まだ夢と現実の区別もつかないまま。
腕に繋がれた管を見た。
透明な液体。
皮膚へ刺さる針。
それが。
夢の中で身体を侵していた気泡に見えた。
少女は悲鳴を上げながら引き抜いた。
拘束された。
また繋がれた。
また引き抜いた。
また拘束された。
また繋がれた。
何日も。
何日も。
何日も。
繰り返した。
泣けば助けてもらえると思った。
怖いと言えば止めてもらえると思った。
苦しいと言えば分かってもらえると思った。
でも。
違った。
何も変わらなかった。
夢は消えない。
検査も止まらない。
研究も終わらない。
誰も助けてくれない。
何も変わらない。
◇
ある朝だった。
『Origin-0-Mirabilis-1。起床時間です』
機械音声が流れる。
少女は目を開く。
夢は見た。
怖かった。
今も怖い。
胸も苦しい。
左腕も掻いている。
けれど。
泣かなかった。
助けも求めなかった。
誰かの名前を呼ぶこともなかった。
どうせ。
誰も助けてくれないから。
どうせ。
誰も大丈夫だと言わないから。
どうせ。
誰も自分を見ていないから。
それを知ってしまったから。
少女は立ち上がる。
部屋を出る。
研究室へ向かう。
訓練場へ向かう。
命令された通りに。
ただ歩く。
ただ従う。
ただ生きる。
考えないように。
怖い。
考えない。
痛い。
考えない。
苦しい。
考えない。
助けて。
考えない。
そうやって。
一つずつ。
一つずつ。
心へ蓋をしていく。
胸の奥へ沈めていく。
見えない場所へ押し込めていく。
何も感じなければ。
少しだけ楽だった。
何も考えなければ。
少しだけ苦しくなかった。
◇
廊下の小さな窓の前を通った時だった。
一羽の鳥が飛んでいた。
高い壁の向こうへ。
自由に。
どこまでも。
飛んでいく。
昔の少女なら。
立ち止まっていたかもしれない。
外を見てみたいと思ったかもしれない。
鳥が羨ましいと思ったかもしれない。
けれど今は。
何も思わない。
ただ見ていた。
ぼんやりと。
感情のない目で。
そして。
また歩き出す。
気付けば。
右手が左腕を掻いていた。
掻く。
掻く。
掻く。
無意識に。
それだけを繰り返しながら。
少女は歩く。
何も考えず。
何も感じず。
まるで。
中身だけがどこかへ消えてしまったみたいに。
空っぽのまま。




