第9話 炎上と未公開
動画が伸び始めると、必ず湧くものがある。
考察。
切り抜き。
過去掘り。
そして、“燃料”。
◆◆◆
その日、律は会社の給湯室でコーヒーを淹れていた。
スマホが震える。
通知。
『おすすめの動画』
何気なく開いて、律は固まった。
『【悲報】元リツミナ律、現在がヤバすぎる』
サムネには、数年前の自分の顔。
その横に、わざとらしい赤文字。
『彼女に捨てられた末路』
「……うわ」
嫌な汗が滲む。
動画時間、十二分。
再生数、すでに二十万。
早すぎる。
律は無意識にタップしていた。
『元人気カップルYouTuber“リツミナ”をご存知でしょうか?』
軽薄なナレーション。
『当時は理想のカップルとして人気でしたが、解散後——』
映るのは、美那の現在。
テレビ出演。
企業案件。
夫とのツーショット。
そこへ被せるように、昔の律の映像。
『一方、彼氏側はほぼ消えた模様』
『ヒモだったって噂もありますよね〜』
コメント欄が流れる。
『美那ちゃん可哀想だった』
『寄生彼氏じゃん』
『そりゃ捨てられる』
喉が詰まる。
律は動画を止めた。
心臓がうるさい。
分かっていた。
いつか来ると思っていた。
九条のチャンネルが伸びれば、編集者にも目が向く。
そして、ネットは“物語”が好きだ。
成功した元カノ。
落ちぶれた元彼。
分かりやすい。
「笠原くん?」
背後から声がして、律は反射的にスマホを伏せた。
同僚だった。
「顔色悪くない?」
「……寝不足で」
「大丈夫?最近忙しいもんね」
律は曖昧に笑った。
嫌な汗が止まらない。
もし会社に知られたら。
元配信者。
炎上中。
まとめ動画。
面倒事を嫌う会社なら、切られてもおかしくない。
律はそのままトイレへ逃げ込んだ。
個室へ入り、便座に座る。
呼吸が浅い。
スマホは通知で埋まり始めていた。
『律ってあのリツミナの?』
『今更出てきてて草』
『また承認欲求出てきた?』
「……クソ」
指先が震える。
懐かしい感覚だった。
炎上。
誰かに監視される感じ。
通知が止まらない感じ。
昔は、これすら数字になった。
でも今は違う。
ただ、怖い。
その時。
スマホが鳴った。
画面には九条慶と表示されている。
律は数秒迷ってから通話を取った。
「……もしもし」
『動画、見ました?』
静かな声だった。
律は笑う。
「早いですね」
『伸びてるので』
「最悪ですよ」
乾いた声が出る。
『会社に知られそうで』
沈黙。
数秒後、慶が言った。
『大丈夫です』
「……何が」
『もう対応してます』
律は眉を寄せる。
「対応?」
『拡散元、何個か落としました』
息が止まる。
「……は?」
『虚偽情報が多かったので』
慶の声は穏やかだった。
まるで、普通の事務連絡みたいに。
「あと、まとめアカウント側にも連絡しました」
「ちょ、待ってください」
律は思わず声を荒げた。
「何してるんですか」
『火消しです』
「いや、そうじゃなくて」
理解が追いつかない。
「なんでそこまで」
『放置すると面倒なので』
「俺の問題でしょう」
『今は僕のチャンネルにも関係あります』
合理的な返答。
なのに。
それだけじゃないと分かってしまう。
「……九条さん」
『はい』
「なんでそこまでしてくれるんですか」
通話の向こうが少し静かになる。
律は唇を噛んだ。
ずっと分からなかった。
なんでこの男は、自分に執着するのか。
元カップルYouTuber崩れ。
炎上中。
情緒不安定。
普通、使いづらいだけだ。
なのに。
九条はずっと、自分を見ている。
数秒後。
慶が小さく笑った。
『気になるので』
「……は?」
『笠原さんのこと』
ぞわ、と背筋が粟立つ。
声色は穏やかなのに、妙に体温が低い。
「それ、答えになってないです」
『そうですか?』
「怖いんですよ、言い方が」
慶がまた笑う。
低い笑い声。
『でも、放っておけないです』
律は言葉を失った。
言い方は軽いのに軽くない。
でも。
慶は本気でそう思っている声だった。
「……意味分かんないです」
『よく言われます』
律は額を押さえる。
怖い。
本当にこの男は怖い。
人との距離感が壊れている。
なのに。
通話を切りたくないと思ってしまう。
『あと』
慶が静かに言う。
『今日、時間ありますか』
「……は?」
『少し見せたいものがあって』
嫌な予感がした。
「なんですか」
『来れば分かります』
「いや怖いんですけど」
『お礼、したくないですか?』
「何を言って」
『僕に借りをつくったままでいいんですか?』
律は黙る。
火消しまでされて、何もしないのは気持ち悪い。
差し入れくらい持って行ったほうがいいんじゃないか。
慶は静かに続ける。
『コーヒーだけでいいですよ』
その声音が妙に自然で。
律は結局、断れなかった。
◆◆◆
深夜。
九条慶のオフィスは、相変わらず静かだった。
高層階。
ガラス張り。
夜景。
生活感が薄い。
「……これ」
律はコンビニ袋を差し出す。
「コーヒーです」
「ありがとうございます」
慶は素直に受け取った。
黒シャツ姿のまま、デスクへ戻る。
「座ってください」
「……何見せたいんですか」
「これです」
大型モニターが点灯する。
その瞬間。
律の呼吸は止まった。
「……は?」
画面の中に、自分がいた。
若い。
今より少し痩せていて、髪も長い。
隣には美那。
二人並んでソファへ座っている。
部屋は見覚えがあった。
当時住んでいたマンション。
撮影用に白く整えたリビング。
でも。
律にはその動画に見覚えがなかった。
少なくとも、“公開した記憶”はない。
『今日は質問コーナーやっていきまーす』
美那が笑う。
声が少し硬い。
律も笑っている。
でも目が死んでいる。
慶は無言で再生を続けた。
律は画面から目を離せない。
『結婚の予定ありますか?』
テロップも入っていない、生素材。
カメラの向こうで、当時のスタッフが少し笑う声まで入っている。
美那が困ったように律を見る。
『どうする?』
『……別に普通に答えれば』
声が低い。
不機嫌なのが丸分かりだった。
律は自分で自分の顔を見て、胃が重くなる。
こんな顔してたのか。
『でも、期待されてるよね』
『期待されてるから何』
空気が止まる。
美那が一瞬だけ黙る。
その沈黙が、生々しかった。
動画の中の律は、苛立っている。
笑えていない。
隠そうともしていない。
美那が無理やり口角を上げる。
『まあ、でも仲良くやってますので!』
明るく言う。
でも声が震えている。
律はそこで、耐えきれず口を開いた。
「……止めてください」
慶がリモコンを操作し、動画が止まる。
静寂。
律は画面を睨んだまま動けなかった。
見せたいものがある。
そう言われて来たことを、心底後悔した。
「……なんですか、これ」
声が掠れる。
慶は落ち着いた顔で答えた。
「未公開データです」
「いや、そうじゃなくて」
律は振り返る。
「なんで、あなたが持ってるんですか」
慶は数秒沈黙した。
そして静かに言う。
「知り合い経由で、消える前に保存しました」
意味が分からなかった。
「……は?」
「当時、リツミナの編集に関わってた人がいたので」
「……」
「バックアップデータが流れることって、あるんですね」
律の背中が冷える。
慶は平然としていた。
まるで大したことじゃないみたいに。
「保存って……何年前の話だと思ってるんですか」
「五年前ですね」
「なんで残してるんですか」
「好きだったので」
即答だった。
律は言葉を失う。
好きだった。
その言葉が怖い。
ファンの“好き”とは違う。
熱狂でも憧れでもない。
もっと静かで、粘着質なもの。
慶は再びモニターを見る。
「この頃のあなた、かなり限界でしたよね」
「……」
「今見ると分かります」
律は笑いそうになった。
限界。
そんな言葉で済む状態じゃなかった。
動画が伸びないだけで眠れなくなった。
数字が落ちると吐き気がした。
案件メールが来ない日、自分が社会から消える気がした。
なのに。
カメラの前では笑わなければいけない。
理想のカップルでいなければいけない。
「……昔のことです」
律が低く言うと、慶は静かに首を傾げた。
「本当に?」
「は?」
「まだ終わってない顔してますよ」
その言葉に、律は反射的に睨み返した。
「……何が言いたいんですか」
「別に」
慶は穏やかだった。
「ただ、あなたって壊れる過程が綺麗だなと思って」
ぞわり、と鳥肌が立つ。
律は立ち上がった。
「気持ち悪い」
思わず口から出る。
慶は否定しなかった。
むしろ少し笑った。
「よく言われます」
「普通、こんなの保存しないでしょ」
「普通じゃないので」
「……」
「あなたも、普通じゃなかったですよ」
律は息を呑む。
慶は続けた。
「動画のコメント、一日中見てたでしょう」
「……」
「深夜三時くらいに病んだツイート消してた」
「……なんで知ってるんですか」
「見てたので」
当たり前みたいに言う。
律は寒気を覚えた。
この男は。
どこまで知っている?
「九条さん」
律は慎重に言葉を選ぶ。
「あなた、俺のこと監視してたんですか」
「監視はしてません」
「じゃあ何なんですか」
慶は少し考えるように沈黙した。
そして。
「観測、ですかね」
と、言った。
その答えが、一番怖かった。
監視より執着が深い気がする。
律は無意識に一歩下がる。
慶はそんな律を静かに見ていた。
「あなた、昔から消えそうだったので」
「……」
「見てないと、本当にいなくなりそうで」
律は返事ができなかった。
意味が分からない。
理解したくない。
なのに。
胸の奥がざわつく。
誰にも気付かれていなかったと思っていた。
自分が壊れていたこと。
笑えなくなっていたこと。
消えたがっていたこと。
でも。
この男だけは見ていた。
ずっと。
「……最悪だ」
律が吐き捨てると、慶は少しだけ目を細めた。
「褒め言葉として受け取っておきます」
本当に嬉しそうだった。
律は逃げるように視線を逸らす。
モニターには、停止した映像。
過去の自分と美那。
二人とも笑っている。
でも今なら分かる。
あの頃、全部終わっていた。
編集で誤魔化していただけだ。
沈黙を切って。
空気を削って。
破綻を隠して。
綺麗な動画に加工していた。
そして九条慶は、その“削った部分”ばかり見ている。
「続き、見ますか?」
慶が静かに尋ねる。
律は反射的に首を振った。
「……見たくない」
「そうですか」
慶は素直にモニターを消した。
部屋が暗くなる。
ガラス窓の向こうには夜景。
都会の光。
その中で、慶だけが妙に静かだった。
「でも」
慶がぽつりと言う。
「僕は好きでしたよ」
「……何を」
「あなたが、壊れながら笑ってる感じ」
律は息を止めた。
普通なら怒るべきだった。
怖がるべきだった。
なのに。
どこかで理解してしまう。
この男は、成功していた頃の自分じゃなくて。
壊れていく自分を見ていた。
落ちていく自分を。
画面の端で笑えなくなっていた、あの頃の自分を。
慶は椅子へもたれたまま、静かに言う。
「だから今、結構楽しいです」
「……」
「またあなたを見れるので」
律は言葉を失った。
怖い。
本当に怖い。
なのに。
心のどこかが、その視線に安心してしまっている自分がいた。




