第10話 依存
九条慶から専属契約の話が出たのは、動画チャンネルの登録者数が二十万人を超えて少し経った頃だった。
律は深夜の編集室で、一人モニターを眺めていた。
公開前動画の最終チェック。
画面の中では、九条が静かな声で話している。
『不安って、“知らないこと”より、“一人で考えること”で大きくなるんですよね』
コメント欄が伸びそうな言い回しだ、と律は思う。
実際、最近は公開前の時点で何となく分かるようになっていた。
どこが切り抜かれるか。
どの間で視聴者が止まるか。
どの言葉が刺さるか。
再生数は右肩上がりだった。
案件単価も上がった。
企業側からの指名も増えている。
その中心に、自分の編集がある。
それを理解してしまっている自分が、一番まずかった。
「……やめよ」
律は小さく呟き、タイムラインを閉じた。
数字を見始めると止まらない。
昔と同じだ。
その時、スマホが震えた。
『今、少し話せますか』
九条からメッセージが来た。
律は数秒見つめてから、『五分だけ』と返した。
◆◆◆
九条のオフィスは相変わらず静かだった。
深夜。
高層階。
窓の外の夜景だけがやたら綺麗で、逆に落ち着かない。
律がソファへ座ると、九条はコーヒーを一つ置いた。
「どうぞ」
「……ありがとうございます」
律は受け取る。
ブラック。
過去に自分がミルク入りの甘いコーヒーしか飲めなかったことを知られていたのを思い出す。
「単刀直入に言いますね」
九条が静かに言った。
「うち専属の編集者になりませんか?」
律の指先が止まる。
「専属?」
「はい」
九条は淡々と続ける。
「他の仕事、辞めて下さい」
「……」
「うちの案件だけしてほしいです」
律は思わず笑った。
「いや、それ普通は」
「できませんか?」
「できませんよ」
「何故?」
「収入源を一本化するの危ないですから」
編集業界なんて不安定だ。
数字が落ちれば終わる。
炎上一つで飛ぶ。
律はそれを知っている。
「九条さんのチャンネル、今は伸びてますけど」
「はい」
「でも未来なんか分からないでしょう」
九条は少し考えるように沈黙した。
「……笠原さんって」
「はい」
「逃げ道、必ず残しますよね」
図星だった。
律は昔からそうだ。
全部を賭けるのが怖い。
壊れた時、逃げられなくなるから。
「悪いことじゃないです」
九条は静かに言う。
「ただ、疲れませんか」
律は眉を寄せた。
「何が」
「全部、自分で保険かけ続けるの」
その言い方が妙に静かで、妙に刺さった。
律は視線を逸らす。
「……別に」
「嘘ですね」
即答だった。
「最近、寝れてないでしょう」
「……」
「他案件、かなり詰め込んでますよね」
なんで知っているんだ。
そう思ってから、律はすぐ理解する。
見ているからだ。
この男は、ずっと。
「フリーなんだから普通です」
「でも、うちの編集してる時が一番楽しそうですよ」
心臓が跳ねた。
律は反射的に否定しようとして、やめた。
否定できない。
九条の案件は、楽しい。
悔しいくらい。
視聴維持率。
コメント。
切り抜き。
数字が動く。
自分の編集で人が感情を動かされる感覚。
あれを思い出してしまった。
「……専属は無理です」
律は低く言った。
「そこまで依存したくない」
言った瞬間、空気が少し静かになる。
失言だったかもしれない。
でも九条は怒らなかった。
「依存」
その単語をゆっくり繰り返す。
「僕に?」
「……仕事にです」
九条は少し笑った。
「そういうことにしておきます」
律は顔をしかめる。
「ほんと、そういう言い方嫌いです」
「でも完全には否定しないでしょう」
「……」
できなかった。
◆◆◆
結局、専属契約は保留になった。
それなのに。
気付けば律の生活は、九条慶の案件中心になっていた。
朝起きて、コメント欄を見る。
通勤中に再生数を確認する。
昼休みに切り抜きをチェックする。
夜は編集。
他案件の納期を調整してでも、九条の動画を優先している。
理由は簡単だった。
数字が返ってくるからだ。
視聴者の反応が早い。
編集の違いがそのまま数字になる。
気持ちいい。
脳が焼かれる感覚を、律はまた思い出していた。
◆◆◆
「最近、ずっと九条さんの案件やってるね」
ある日、笹田にそう言われた。
律は編集室で一瞬だけ手を止める。
「……まあ、単価いいんで」
「へえ」
笹田は何気ない顔だった。
でも律は少しだけ落ち着かなくなる。
会社の案件より、九条の動画を優先している。
自覚はあった。
「笠原くん、なんか最近楽しそうだし」
「は?」
「前よりいい顔してる」
律は反射的に否定しようとして、言葉に詰まった。
そんなに分かりやすいのか。
◆◆◆
深夜二時。
律は自宅で編集していた。
モニターには九条。
タイムライン。
波形。
集中していた時、スマホが震える。
『まだ起きてます?』
九条からだった。
律は時計を見る。
二時十一分。
『起きてますけど』
すぐ返信が来る。
『やっぱり』
その一言が妙に気持ち悪い。
『なんで分かるんですか』
『返信速度です』
律は思わずスマホを睨んだ。
『怖い』
『よく言われます』
いつもの返答。
律は小さく息を吐く。
『今、編集してます』
『知ってます』
『なんで』
『手を動かしてないと落ち着かないんでしょうね』
『どういうことですか?』
『今日、公開前チェックの日なので』
当たり前みたいに返される。
律は数秒スマホを見つめた。
この男、距離を詰めてこない。
執着を露骨に見せたりもしない。
好きという軽口を好意とは呼べない。
なのに。
常に視界の端にいる。
生活のリズム。
作業時間。
感情の波。
静かに把握されている感覚だけが、ずっと消えない。
『笠原さん』
またメッセージ。
『最近、ちゃんと食べてます?』
律は眉を寄せた。
『なんですか急に』
『今日、声に力なかったので』
心臓がざわつく。
そんなことまで分かるのか。
『……観察癖、ほんと気持ち悪いですよ』
『褒め言葉ありがとうございます』
律はスマホを伏せた。
怖い。
本当に怖い。
でも。
返信を待っている自分がいる。
モニターの中では、九条が静かな声で笑っていた。
律はその映像を見つめながら、ふと思う。
依存しているのは、仕事だけなんだろうか。
その答えを考えた瞬間、怖くなって、律はまたタイムラインへ視線を戻した。
◆◆◆
その日の編集は、妙に進まなかった。
タイムラインを切って。
テロップを動かして。
BGMを調整して。
いつも通りの作業なのに、集中が途切れる。
『最近、ちゃんと食べてます?』
九条のメッセージが頭に残っていた。
気持ち悪い。
本当に。
普通、そんなところまで見ない。
でもあの男は、ずっと見ている。
こちらが隠したい部分ほど、自然に拾ってくる。
律はキーボードから手を離した。
「……だる」
時計を見る。
三時四十分。
胃が気持ち悪い。
今日、まともに食べていなかった。
コンビニで買ったおにぎり一個。
コーヒー。
それだけ。
立ち上がって冷蔵庫を開ける。
中身はほぼ空だった。
「終わってんな……」
自分で呟いて、少し笑う。
昔もそうだった。
数字を追い始めると、生活が壊れる。
眠れなくなる。
食事を忘れる。
コメント欄ばかり見る。
でも。
今回は少し違った。
昔は、“見られたい”だけだった。
今は。
九条慶に見られている感覚が、ずっとある。
それが妙に落ち着かない。
◆◆◆
翌日。
律は九条のオフィスへ来ていた。
新しい企画の打ち合わせ。
動画は順調だった。
登録者は二十五万人目前。
案件依頼も増えている。
編集チームも拡大予定。
普通なら、かなり良い状況だった。
「最近、寝不足ですね」
開口一番、九条が言った。
律は椅子へ座りながら顔をしかめる。
「会った瞬間それ?」
「顔に出てます」
「最悪」
九条は少し笑う。
「昨日、四時まで起きてました?」
「……」
律は黙る。
「図星ですね」
「なんで分かるんですか」
「返信が止まった時間からの予測です」
怖い。
本当にこの男は怖い。
「監視じゃないって言ってましたよね」
「観測です」
「言い換えてるだけじゃないですか」
「かなり違います」
真顔で返されて、律は疲れたように息を吐く。
九条は資料を開きながら言った。
「あと、他案件減らしてください」
「……まだ言うんですか」
「かなり無理してますよね」
律は答えない。
図星だった。
最近、スケジュールが崩れている。
九条案件を優先しすぎて、他案件の修正対応が後ろへズレ始めていた。
なのに。
嫌じゃない。
むしろ。
九条の動画を編集している時だけ、脳が妙に冴える。
「笠原さん」
九条が静かに言った。
「最近、数字見る回数増えました?」
「……」
「コメント欄も」
律は反射的に視線を逸らした。
図星だった。
朝起きて確認する。
通勤中も見る。
寝る前も見る。
コメント欄。
切り抜き。
考察。
また、あの感覚が戻ってきている。
「別に普通でしょ」
「普通じゃないです」
即答。
「あなた、数字に酔うタイプなので」
律は眉を寄せた。
「言い方」
「事実ですよ」
九条は穏やかなまま続ける。
「でも、その状態の笠原さん、かなり編集良いです」
ぞく、とした。
褒められている。
なのに。
少し怖い。
この男は、壊れかけの自分を見て喜んでいる節がある。
「……俺、たまに思うんですけど」
律は低く言った。
「九条さんって、人がギリギリになる瞬間好きですよね」
九条は少しだけ目を細めた。
「好きというか」
「……」
「本音が出るので」
その返答が、一番嫌だった。
律は視線を落とす。
確かに。
限界の時ほど、自分は編集が鋭くなる。
余裕がある時より。
壊れかけてる時の方が、“引っ掛かる間”を作れる。
最悪だと思う。
でも。
九条はそれを全部見抜いている。
「だから」
九条が静かに言う。
「ちゃんと管理したいんですよね」
「……は?」
「壊れすぎないように」
律は数秒、言葉を失った。
管理。
その単語が妙に重い。
「それ、普通に怖いんですけど」
「よく言われます」
九条はさらっと返す。
「でも、今の笠原さん」
「……」
「放っておくと、また自分で壊れますよ」
律の呼吸が少し止まる。
昔のことを言われている。
分かってしまった。
リツミナ末期。
寝不足。
酒。
コメント欄。
承認欲求。
あの頃、自分は確かに壊れていた。
そして今。
少し似ている。
「……大丈夫です」
律は低く言った。
「今は昔ほど馬鹿じゃないんで」
九条はその言葉を聞いて、少しだけ笑った。
「そうやって言う人ほど危ないんですよね」
律は顔をしかめる。
「ほんと嫌いです、その分析」
「でも外れてないでしょう」
否定できなかった。
◆◆◆
打ち合わせが終わった後。
律はエレベーター前でスマホを見ていた。
通知。
コメント。
切り抜き。
『編集気持ち良すぎる』
『このチャンネル、中毒性ある』
『なんか昔のYouTube感ある』
胸の奥が熱くなる。
気持ちいい。
まだ、自分の編集で人を動かせる。
その時。
「笠原さん」
後ろから九条が来た。
「……なんですか」
「またコメント見てる」
律は反射的にスマホを伏せる。
九条は少し笑った。
「依存ですね」
「……うるさい」
否定できない。
九条はエレベーターの横へ並びながら、静かに言った。
「でも安心しました」
「何がですか」
「ちゃんと、生き返ってきたので」
その言葉に、律は返事ができなかった。
エレベーターが開く。
乗り込む直前。
九条がぽつりと言う。
「ただ」
「……?」
「また壊れる時、今回はちゃんと見てられるなって思うと、少し安心します」
律は息を止めた。
怖い。
本当にこの男は怖い。
なのに。
その言葉に、少しだけ安心してしまった自分が、一番気持ち悪かった。




