第11話 あなたの一番醜い姿
登録者三十万人突破は、火曜の深夜だった。
律は自宅で編集作業をしていた。
サブモニターに表示していた管理画面の数字が、299,998から動く。
299,999。
300,000。
通知音。
律は数秒、画面を見つめたまま動けなかった。
「……三十万」
口に出してみても、妙に現実感がない。
半年前まで。
自分は企業PRの字幕修正をして、終電を逃して、コンビニ飯を食って寝るだけだった。
それが今。
自分の編集した動画が毎日何十万回も再生されている。
コメント欄。
切り抜き。
考察。
数字が増えるたび、脳の奥が熱くなる。
やっぱり、自分はこれが好きだ。
認めたくなくても。
スマホが震えた。
『おめでとうございます』
九条からだった。
『笠原さんのおかげです』
律は少しだけ笑う。
『半分くらいは九条さんの顔です』
『残り半分は?』
『胡散臭さ』
既読がつく。
数秒後。
『今日、飲みませんか?』
律は少し迷った。
でも。
『行きます』
そう返していた。
◆◆◆
店は、九条にしては意外なくらい普通の居酒屋だった。
シンプルな内装の個室。
落ち着いた照明。
平日夜の静かな空気。
「もっと高そうな店かと思ってました」
律が言うと、九条は少し笑った。
「笠原さん、こういう方が好きでしょう」
図星だった。
妙に気を使う高級店より、こっちの方が楽だ。
「……観察癖ほんと気持ち悪いですよ」
「ありがとうございます」
いつもの返し。
ビールが運ばれてくる。
「お疲れ様でした」
グラスが軽く触れる。
律は一口飲んで、深く息を吐いた。
「三十万って、普通にすごいですね」
「かなり順調です」
「怖……」
九条は淡々としている。
でも実際、異常な伸び方だった。
金融系。
長尺。
初心者向け。
本来、爆発的に伸びるジャンルじゃない。
なのに、コメント欄は毎回伸び続けている。
『なんか見ちゃう』
『このチャンネルだけ空気違う』
『編集中毒性ある』
その言葉を見るたび、律は嬉しくなる。
同時に。
少し怖くもなる。
また、自分が数字へ飲まれていく感覚があるから。
「笠原さん」
九条が静かに言った。
「最近、楽しそうですね」
律は苦笑する。
「……まあ、仕事としては」
「仕事として?」
「それ以外に何がありますか」
九条は少しだけ目を細めた。
「承認欲求、とか」
律はグラスを置く。
「それ、酒の席で言う?」
「事実です」
腹立つくらい自然だった。
律は二杯目を飲む。
アルコールが回り始める。
九条は相変わらずペースが変わらない。
飲んでいるのに、全然崩れない。
「九条さんって、酔うんですか」
「酔ってますよ」
「全然見えない」
「笠原さんは分かりやすいですね」
「……うるさい」
律は視線を逸らす。
少し酔っていた。
最近、まともに休めていない。
編集。
数字。
コメント。
毎日ずっと頭が動いている。
「でも」
律はぽつりと言った。
「三十万って、怖いですね」
九条が静かに聞く。
「何がです?」
「また落ちるかもしれないから」
口に出した瞬間、自分でも驚いた。
九条は何も言わない。
だから律は、そのまま続けてしまう。
「昔もそうだったんですよ」
酔っていた。
たぶん、それが悪かった。
「伸びてる時って、ずっと続く気がするんです」 「……」
「でも落ちる時、一瞬だから」
リツミナ末期。
再生数が落ち始めた時の空気を、律はまだ覚えている。
コメント欄。
再生グラフ。
案件メールの減少。
数字が下がるたび、自分の価値まで削れていく感覚。
「だから最近、またちょっと怖いんですよね」
笑いながら言う。
「また壊れそうで」
九条は静かにこちらを見ていた。
その視線が妙に落ち着かない。
「……何ですか」
「別に」
「その顔やめてください」
「どの顔です?」
「人の中身を覗いて楽しそうな顔」
九条が少し笑う。
否定しない。
律は三杯目を飲んだ。
アルコールで頭がぼんやりしてくる。
疲れていた。
本当に。
「……俺なんか、もう終わってるんですよ」
気付けば、そんな言葉が漏れていた。
自分でも、何を言ってるんだと思う。
でも止まらなかった。
「昔の数字忘れられないし」
「……」
「炎上も気にするし」
「……」
「コメント欄ずっと見ちゃうし」
情けない。
昔より大人になったつもりだった。
でも結局、何も変わっていない。
「承認欲求バグってるの、もう治んないんでしょうね」
律は笑った。
「ほんと終わってる」
数秒、沈黙が落ちる。
店内の雑音だけが遠い。
九条はグラスを置いて、静かに言った。
「僕は」
律が顔を上げる。
「今のあなたが一番好きですよ」
呼吸が止まった。
「……は?」
九条の声は穏やかだった。
「今が、一番人間くさいので」
ぞわり、と背筋が粟立つ。
まただ。
この男は。
普通なら隠したい部分ばかり見てくる。
成功してる自分じゃなく。
綺麗な自分じゃなく。
依存して。
壊れかけて。
数字に振り回されてる自分を。
じっと見ている。
「……気持ち悪」
反射的にそう言う。
でも声に力がなかった。
九条は少し笑う。
「よく言われます」
「褒めてないです」
「分かってます」
律は視線を落とす。
胸の奥がざわつく。
怖い。
本当に。
なのに。
救われてしまう。
終わってる。
壊れてる。
醜い。
自分でそう思っていた部分を。
この男だけは、否定しない。
それどころか。
“そこが好き”だと言う。
理解できない。
理解したくない。
でも。
その言葉に、少しだけ呼吸が楽になった自分がいた。
「……九条さん」
律は低く言う。
「あなた、多分かなり変です」
「知ってます」
九条は静かに笑った。
「だから、笠原さんに興味持ったので」
律は返事ができなかった。
グラスの氷が、静かに音を立てる。
酔っているはずなのに。
九条慶の言葉だけ、やけに鮮明に頭へ残っていた。
◆◆◆
店を出た時には、日付が変わっていた。
六月の夜風が、酔った体に少しだけ冷たい。
駅前の通りはまだ人が多い。
笑い声。
酔っ払い。
タクシー待ちの列。
九条慶は律の半歩前を歩いていた。
黒シャツの袖を少しだけ捲って、スマホを確認している。
相変わらず無駄がない。
酔っていても姿勢が崩れないのが腹立たしかった。
「……九条さん、全然酔わないんですね」
律がぼそっと言うと、慶は振り返る。
「酔ってますよ」
「見えない」
「笠原さんほどじゃないです」
律は「うるさい」と呟いた。
酔っていた。
かなり。
久しぶりだった。
数字が伸びた高揚感。
チャンネル登録三十万人。
案件も増え始めている。
コメント欄では“編集が癖になる”という声が増えていた。
嬉しかった。
認めたくないけど。
嬉しかった。
「……なんか変な感じです」
歩きながら律が言う。
「三十万とか、昔なら“落ちたな”って数字なのに」
「今は違う?」
「……違うっていうか」
言葉に詰まる。
昔は、自分が数字の中心にいた。
顔を出して。
恋人と並んで。
コメントされて。
消費されて。
今は違う。
画面の裏側だ。
でも。
——それでも、自分が作った空気で人が動いてる。
その感覚が、たまらなく気持ち悪くて。 たまらなく気持ちよかった。
「俺、多分」
律は少し笑う。
「またハマってるんです」
慶は何も言わない。
「数字見るの、止められないし」
「はい」
「コメント欄も見ちゃうし」
「見てますね」
「……なんで分かるんですか」
慶は少しだけ笑った。
「今日、通知来るたび機嫌変わってたので」
図星だった。
律は舌打ちする。
「最悪」
「でも、生き返ってきましたよ」
その言葉に、律は少し黙る。
生き返る。
その表現は嫌だった。
まるで。
今まで死んでいたみたいで。
でも否定できない。
ここ数ヶ月。
明らかに、自分は変わっていた。
朝、起きる理由がある。
編集したいと思う。
次の数字が気になる。
視聴維持率を確認して。
コメントを読む。
また。
動画中心に脳が回り始めている。
「……危ないんですよ、これ」
律は小さく呟いた。
「分かってるんです」
「何がです?」
「また壊れるやつだなって」
歩道橋の前で足を止める。
車のライトが流れていく。
夜景が滲む。
「昔も、最初は楽しかったんですよ」
律は笑った。
「数字伸びて。コメント来て。見てもらえて」
それが、いつの間にか義務になる。
落ちるのが怖くなる。
数字が減ると眠れない。
再生数で自分の価値を測り始める。
「だから俺、もう終わってるんです」
酔いのせいだった。
こんなこと。
普通なら言わない。
「承認欲求だけ残って、昔の数字忘れられない」
喉が熱い。
「炎上した動画すら見返すし」
泣きそうなのに笑えてくる。
「しかも、また気持ちよくなってるなんて、救いようなくないですか」
数秒、沈黙。
慶は車道の光を見ながら、静かに言った。
「僕は今のあなたが一番好きですよ」
律の呼吸が止まる。
「……は?」
「昔のあなたより、今の方がずっと面白い」
ぞわ、と背筋が粟立つ。
またそれだ。
この男は。
どうしてそんな言葉を、平然と言えるんだ。
「普通そこ、“大丈夫ですよ”とか言いません?」
「思ってないので」
即答だった。
「笠原さん、全然大丈夫じゃないでしょう」
律は言葉を失う。
「承認欲求、強いし。数字に依存しやすいし」
「それはっ」
「自己評価も極端だし」
「……」
「コメント欄に精神引っ張られるし」
「……」
淡々と並べられる。
「かなり危ういですよ」
「……悪口ですか」
「分析です」
慶は穏やかに言った。
「でも」
視線が合う。
静かな目だった。
「だからいいんです」
律は眉を寄せる。
「意味分かんないです」
「完璧な人は、つまらないので」
「……」
「あなた、ちゃんと人間なんですよね」
胸の奥がざわつく。
「そこがいい」
そんな言われ方、初めてだった。
昔はずっと、“理想”を求められていた。
理想の彼氏。
理想のカップル。
理想の空気感。
でも慶は違う。
壊れかけている部分を見ている。
醜いところを。
弱いところを。
そこばかり見つけてくる。
「……九条さんって」
律は低く言う。
「ほんと趣味悪いですよね」
「よく言われます」
少し笑う。
その笑い方が、妙に優しい。
「でも」
慶は続ける。
「あなたの一番醜い時期、多分まだこれからですよ」
酔いが少し冷める。
「……怖いこと言わないでください」
「楽しみですね」
「最低だ」
律は呆れたように笑った。
なのに。
胸の奥が、少しだけ軽かった。
終わってる。
壊れてる。
危ない。
そんなもの。
自分が一番分かっている。
でも。
この男は、それを否定しない。
“それでも面白い”と言う。
肯定なのか侮辱なのか分からない。
でも。
救われてしまう。
それが、一番気持ち悪かった。
帰りのタクシー。
律はドアにもたれながら、ぼんやり窓を見ていた。
スマホが震える。
回らない頭でメッセージを見る。
『今日は楽しかったです』
九条慶。
律は数秒見つめる。
続けて、もう一件。
『あと、酔って自己否定し始める笠原さん、かなり好きでした』
「……キモ」
思わず声が漏れる。
なのに。
口元が少しだけ緩んでしまう。
車の窓に映る自分は、少しだけ、生きている顔をしていた。




