第7話 再生回数より怖いもの
その日、律は昼休憩を適当に済ませながら、会社の休憩室でスマホを眺めていた。
特に見たいものがあったわけじゃない。
ただ、無音の空間が苦しくて、適当に動画アプリを開いただけだった。
おすすめ欄に流れてきたのは、昼の情報番組。
――次の瞬間。
『SNS総フォロワー80万人!ママインフルエンサー・美那さんです♡』
律の指が止まった。
画面の中で、美那が笑っている。
柔らかい巻き髪。
白いワンピース。
昔より、ずっと“ちゃんとしている”笑顔。
『旦那さんもすごく協力的なんですよ〜♡』
ワイプの芸能人が「理想の家庭〜!」と騒ぐ。
律は、画面を閉じられなかった。
『子供がいると大変じゃないですか?』
『でも夫と子供に支えられてるので♡』
その瞬間。
律の喉が、ひゅっと狭くなる。
夫。
子供。
支えられてる。
昔、自分の隣で「一生一緒にいようね」と笑っていた女。
その言葉を、今は別の男に向けている。
律は無言でスマホを伏せた。
なのに音だけが耳に残る。
『家族っていいですよね♡』
◆◆◆
「顔色、終わってますね」
会議室に入って、開口一番に慶が言った。
律は眉を寄せる。
「……寝不足なだけです」
「違うでしょう」
慶は資料を見たまま続ける。
「美那さん関連ですか?」
「は?」
「笠原さんの顔色読むの、得意なので」
律は舌打ちした。
「……関係ないでしょ」
「関係あります」
慶は淡々と言う。
「そういう時のあなたの編集は鈍い」
その一言が刺さった。
律は思わず机を睨む。
図星だった。
カット判断が遅い。
テロップのテンポもズレる。
集中できない。
全部、自分でも分かっていた。
「……別に」
「まだ引きずってるんですね」
「だから関係ないって」
「あなた、まだ彼女に置いていかれたままですね」
空気が止まった。
律は勢いよく立ち上がる。
「……あんたに何が分かるんだよ」
慶は視線を上げない。
「分かりますよ」
「は?」
「置いていかれた人間の顔くらい」
律の拳が震える。
怒鳴りたかった。
でも、言葉にならなかった。
図星だったからだ。
美那はもう前に進んでいる。
結婚して。
子供がいて。
世間に“幸せ”を発信して。
一方、自分は。
過去の動画のコメント欄を未だに見に行くような男。
慶は静かに言う。
「あなたが怖いのは、再生数が落ちることじゃない」
「……」
「自分だけ取り残されてると気付くことでしょう」
律は無言で会議室を出た。
◆◆◆
帰宅後。
部屋は暗かった。
コンビニ飯も食べる気になれず、律はベッドに倒れ込む。
スマホが震えた。
反射的に確認する。
九条慶。
『修正版フィードバック送ります』
「……こんな時間に」
開く。
いつもの赤字だらけの修正PDF。
――のはずだった。
だが今日のコメントは違った。
『2:13の間、良いです』
『ここ、感情の残し方が上手い』
『あなたは説明を削る編集が得意ですね』
『視聴者に想像させる余白がある』
律は、画面を見つめたまま止まる。
いつもなら。
「冗長」
「遅い」
「感情に逃げている」
そんな言葉ばかりなのに。
今日は違う。
最後のページ。
短く、一文だけ。
『今日はちゃんと寝てください』
律は眉をひそめた。
「……なんなんだよ、あの人」
怖い。
不気味。
なのに。
その一文だけで、少し呼吸が楽になる自分がいた。
スマホを伏せる。
暗い部屋の中。
律は久しぶりに、美那の動画を開かなかった。
◆◆◆
翌朝。
律は最悪の目覚めだった。
眠れたのか眠れてないのか分からないまま、スマホのアラームだけ止める。
通知欄に九条慶。
『先日のリスケ、本日10時にお願いします。』
「……仕事人間かよ」
思わず呟く。
だが昨夜のメッセージが頭から離れない。
『今日はちゃんと寝てください』
あれはなんだったんだ。
気遣い?
同情?
それともただの管理か。
律には分からなかった。
◆◆◆
出社後。
律は気まずい気持ちで会議室のドアを開ける。
慶は資料を眺めていた。
何事もなかったみたいな顔。
昨日あんなことを言ったくせに。
「……あの」
「はい」
「昨日のフィードバック」
「はい」
「なんで急にあんな……」
慶はキーボードを打ちながら答える。
「あなた、限界そうだったので」
「……」
「壊れる編集者は嫌いです」
律は眉を寄せる。
「優しくしてる風で全然優しくないですね」
「実際、別に優しくないので」
慶は平然としていた。
律はなんだか調子が狂う。
もっと嫌な奴でいてほしかった。
冷酷で。
他人を数字でしか見なくて。
人を壊す側の人間で。
その方が楽なのに。
「……昨日」
律はぽつりと漏らす。
「テレビ、見ちゃったんですよ」
慶の指が止まる。
「美那さん?」
「はい」
「幸せそうでしたか」
律は苦笑する。
「めちゃくちゃ」
言いながら胸が痛んだ。
「なんかもう、“ちゃんとした人”になってました」
家族。
育児。
丁寧な暮らし。
昔、自分と深夜までコンビニ前で酒飲んでた女とは思えない。
「置いていかれた感じするんですよね」
自嘲みたいに笑う。
「俺だけ、ずっと同じ場所にいる」
慶は少し黙ってから言った。
「それ、違いますよ」
「え?」
「あなたは前に進めてないんじゃない」
静かな声だった。
「過去を見続けてるだけです」
律は何も返せない。
「人間、見てる方向にしか進めませんから」
その言葉が妙に刺さる。
律は誤魔化すようにモニターへ向き直った。
「……名言みたいに言うな」
「よく言われます」
「自分で言うなよ」
小さく笑いが漏れる。
慶も少しだけ口元を緩めた。
◆◆◆
その日の帰り道。
律は駅のホームで、ぼんやりスマホを見ていた。
無意識に開きかける。
美那のSNS。
だが、指が止まった。
代わりに通知欄を開く。
『九条慶:素材確認しました』
仕事の連絡だけ。
そっけない。
なのに。
なぜかそっちの方が安心した。
律は自分で自分に呆れる。
「……意味わかんねぇ」
電車が来る。
風が吹く。
スマホをポケットにしまいながら、律はふと思った。
美那からの連絡は苦しかったのに。
慶からの返信は、待ってしまう。
その事実が、一番気持ち悪かった。




