第6話 観測者
九条慶の会社は、静かだった。
都内の高層ビル。
ガラス張りのオフィス。
受付も廊下も、無駄な音がしない。
律は応接室でソファに座りながら、落ち着かない気持ちで周囲を見渡した。
こういう場所が苦手だった。
綺麗すぎる空間は、自分みたいな人間を弾く。
「すみません、少し押してて」
秘書らしき女性がコーヒーを置いていく。
律は小さく会釈した。
カップを持って一口飲んだ。
その瞬間。
「ブラック飲めるようになったんですね」
後ろから声がした。
律は振り返る。
慶だった。
今日も黒いシャツにジャケット。
温度のない整った顔。
「……は?」
「大学の頃、“コーヒーはミルク入りで甘くないと無理”って言ってたので」
律は一瞬、言葉を失った。
「……覚えてるんですか、そんなこと」
「まあ」
慶は自然に向かいへ座る。
「配信中、ミナさんに“ガキ舌”って笑われてましたよね」
律の胃が嫌な感じに縮む。
まただ。
この人は、細かすぎる。
普通の視聴者が覚えてるレベルじゃない。
「……よくそんな昔のこと」
「好きだったので」
慶はさらりと言う。
その言い方が、毎回わからない。
“好きだった”。
過去形の話。
でも慶の視線は、妙に生々しい。
「今日は追加の企画確認だけですか」
律は話を戻した。
「ええ。あと、次回案件の相談も」
慶はPCを開く。
仕事モードに入ったらしい。
律は少しだけ安心した。
仕事中の慶は、まだ対処しやすい。
感情が見えないから。
「この前の動画、クライアントの反応かなり良かったです」
「……どうも」
「離脱率も低かった」
慶は数字の資料を見せる。
「冒頭三十秒で視聴者を掴めてる。笠原さん、“切る編集”が本当に上手い」
またその言葉だった。
切る編集。
慶はいつもそう言う。
「褒めてるんですか、それ」
「かなり」
「……」
「不要な感情を切るの、得意ですよね」
律は眉をひそめた。
その言い方は、編集の話だけじゃない気がした。
「九条さんって、たまに怖いんですよね」
「よく言われます」
「自覚あるなら直した方がいいですよ」
「でも笠原さん、怖がる割に逃げないですよね」
「……仕事なんで」
「ふふ」
慶は少しだけ笑った。
その時だった。
「大学時代、“普通に働けない気がする”って言ってましたよね」
律の動きが止まる。
「……は?」
「深夜雑談配信で」
慶はタブレットを見たまま言う。
「たしか二時くらい。卒業前の」
律の背中に冷たいものが走った。
覚えている。
その配信。
酒を飲みながら、だらだら喋っていた夜。
就活の話になって。
『なんか俺、普通に働ける気しないんだよな』
そんなことを言った。
何万人もの前で。
軽口みたいに。
でも、本音だった。
「……なんで」
声がうまく出ない。
「そんなことまで覚えてるんですか」
慶はようやく顔を上げた。
「印象的だったので」
「普通、覚えてないでしょ」
「そうですか?」
「そうですよ」
律は乾いた笑いを漏らす。
「何年前だと思ってるんですか」
「七年くらい?」
「……」
「でも、当たってましたよね」
慶は静かに言った。
「律さん、普通に働くの向いてない」
律は反射的に睨む。
だが慶は、煽るでもなく続けた。
「決まった正解をなぞる仕事、苦手でしょう」
「……」
「でも、“人が見たいもの”を嗅ぎ分ける感覚は異常に鋭い」
律は黙る。
それを言われるのが、一番嫌だった。
理解されたくない部分だから。
「だから配信は向いてた」
慶は言う。
「逆に、“社会人らしくすること”で壊れた」
会議室が静かだった。
空調の音だけがする。
律は目を逸らした。
「……勝手に分析して、分かった気にならないでください」
「気を悪くしました?」
「しますよ」
「でも、笠原さん」
慶は少し首を傾げる。
「昔から、“普通”になろうとすると苦しそうでした」
その瞬間。
律はぞっとした。
まるで。
昔から、本当にずっと見ていたみたいな言い方だった。
「……九条さん」
「はい」
「どこまで見てたんですか」
慶は数秒黙った。
そして、穏やかに答える。
「ほとんど全部」
律の喉がひりつく。
「配信も、サブ垢も、消した動画も」
「……」
「雑談切り抜きも見てました」
慶は淡々としていた。
その温度の低さが逆に怖い。
「リツミナって、カップルチャンネルとして人気でしたけど」
慶は指先で机を軽く叩く。
「俺、ミナさんにはあんまり興味なくて」
律は息を止めた。
「……は?」
「ずっと笠原さんを見てました」
さらりと言う。
あまりにも自然に。
だから余計に気味が悪い。
「……何それ」
「変ですか」
「変ですよ」
律は思わず立ち上がった。
「いや、普通に怖いんですけど」
「でも、配信ってそういうものでしょう」
慶は座ったまま律を見上げる。
「見られる仕事だ」
「そういう話じゃなくて」
「笠原さん、自分が“観測される側”なの忘れてますよね」
その言葉に、律は黙る。
観測。
慶は、時々そういう言い方をする。
まるで人間じゃなく、現象でも見てるみたいに。
「俺、笠原さんが笑うタイミング好きだったんですよ」
慶は続ける。
「あと、本当に嫌な時だけ、右の口角が下がるの」
「……」
「嘘つく時、瞬き増えるのも」
「……やめてください」
思わず言った。
慶は少し目を細める。
「嫌でした?」
「嫌っていうか……」
律は言葉を探す。
「気持ち悪い」
沈黙。
だが慶は傷ついた様子もなく、むしろ納得したように頷いた。
「そうでしょうね」
「……」
「でも、笠原さん」
慶の声が静かに落ちる。
「あなた、自分を見てくれる人のこと、嫌いになれませんもんね」
律は反論できなかった。
配信者だったから。
見られることで生きていた。
コメント。
再生数。
登録者。
“誰かに見つけてもらうこと”で、自分の価値を測っていた。
でも。
ここまで見られるのは違う。
「……九条さんって」
律はゆっくり言う。
「昔からこんな感じなんですか」
「こんな感じとは?」
「執着が変」
慶は少しだけ笑った。
「初めて言われました」
「噓つき」
「まあ」
慶は椅子にもたれる。
「好きなものは長く見るタイプではあります」
「……」
「笠原さんが変わっていくのは面白かったので」
その言葉に、律は寒気を覚えた。
面白かった。
それはファンの言葉じゃない。
もっと冷たくて。
もっと近い。
観察。
観測。
標本を見る目。
「……俺、人間なんですけど」
「知ってますよ」
慶は笑う。
「だから面白いんです」
律はもう、何を返せばいいかわからなかった。
ただ。
ひとつだけ理解した。
九条慶は、“元ファン”なんかじゃない。
もっとずっと前から。
もっと深い場所で。
笠原律という人間を、見続けていた。




