最終話 今なら
雨が降っていた。
夜の東京。
濡れたアスファルトにネオンが滲んでいる。
律は傘も差さず、九条のオフィスビルを見上げていた。
スマホの画面には、開きっぱなしのSNS。
『律また最近出てきてるな』
『やっぱ承認欲求捨てられてないじゃん』
『結局戻ってきたかったんだろ』
指が止まる。
否定できなかった。
戻ってきたかった。
見られたかった。
コメント。
数字。
再生数。
通知が鳴るたび、心臓が熱くなる。
あれだけ壊れたのに。
苦しかったのに。
それでも。
まだ欲しい。
「……終わってるな」
小さく呟いて、律はスマホを閉じた。
そしてエレベーターへ乗る。
◆◆◆
オフィスはまだ明かりがついていた。
深夜零時。
律が入ると、慶はデスクでノートPCを見ていた。
「……こんばんは」
律が言うと、慶が顔を上げる。
「来ると思ってました」
「怖いんですよ、その言い方」
「当たってたので問題ないかと」
いつもの調子。
静かで。
穏やかで。
少し気味が悪い。
でも今日は、それに少し安心してしまう。
律は慶の向かいへ座った。
数秒、沈黙。
エアコンの音だけが響く。
律は視線を落としたまま言った。
「……俺」
喉が乾く。
でも、ちゃんと言わなきゃいけない気がした。
「まだ承認欲求なくなってないです」
慶は何も言わない。
「数字見るし」
「……」
「エゴサするし」
「……」
「褒められると、気持ちいいし」
情けなかった。
もう一度壊れたくないと思っていた。
普通に働いて。
普通に生きて。
静かに終わるはずだった。
なのに。
また戻ってきてしまった。
コメント欄へ。
視線へ。
“見られる場所”へ。
「また壊れるかもしれない」
やっとそう言うと。
慶は静かに頷いた。
「知ってます」
即答だった。
律は苦笑する。
「否定しないんですね」
「しません」
慶は穏やかな顔のまま続ける。
「笠原さん、多分また数字に飲まれますよ」
「……」
「コメントにも傷付きます」
「……」
「見なくていいものも見ます」
全部図星だった。
律は視線を逸らす。
「最悪だ」
「はい」
「じゃあ止めてくださいよ」
半分八つ当たりみたいに言う。
でも。
慶は少しだけ目を細めた。
「止めたら、あなた死ぬでしょう」
律は息を止めた。
静かな声だった。
責めるでもなく。
脅すでもなく。
ただ事実みたいに。
「見られなくなった時のあなた、知ってるので」
律は何も言えない。
昔。
本当に空っぽだった。
動画をやめて。
数字が消えて。
誰にも見つけられなくなって。
朝起きる理由すら曖昧だった。
慶だけが、それを見ていた。
壊れかけていた頃から。
ずっと。
「……なんでそこまで分かるんですか」
律が掠れた声で聞く。
慶は少し黙った。
それから、静かに言う。
「今なら隣にいられると思ったので」
律の呼吸が止まる。
その台詞。
最初に会った時。
『今なら断られないと思ったので』
あの日の言葉。
あの時は怖かった。
利用されている気がした。
弱ってるところを見透かされているみたいで。
でも今は。
少しだけ意味が分かってしまう。
慶は最初から、壊れた自分を見つけていた。
終わりかけの自分を。
そして。
終わらせないように、ずっと隣にいた。
律はゆっくり顔を上げる。
慶は静かにこちらを見ていた。
いつもと同じ顔。
なのに。
今だけ少し、怖くなかった。
「……九条さん」
「はい」
「あなたも大概壊れてますよ」
慶が少し笑う。
「知ってます」
その笑い方が、妙に疲れて見えた。
律は胸の奥がざわつく。
この人も、多分ずっと一人だった。
人を観察して。
壊れる瞬間ばかり見て。
でも自分の感情だけは、どこにも置けなかった。
だから。
気付けば律は立ち上がっていた。
慶が少し目を見開く。
律は迷う。
怖い。
気持ち悪い。
危ない。
でも。
逃げたくなかった。
律はゆっくり手を伸ばし。
初めて、自分から慶へ触れた。
シャツ越しの体温。
慶が息を止める。
「……」
律は小さく笑った。
「そんな顔するんですね」
慶は答えない。
ただ珍しく、本当に言葉を失っていた。
その反応が少しだけ嬉しくて。
律は、自分でも驚く。
承認欲求。
依存。
数字。
多分、全部まだ消えていない。
これからまた壊れるかもしれない。
でも。
一人で壊れるよりは、少しマシな気がした。
沈黙の中。
PCモニターだけが静かに光っている。
編集ソフト。
新規プロジェクト。
書きかけのタイムライン。
そして、空白のタイトル欄。
まだ名前のない、新しい動画。
律はその画面を見つめながら、小さく息を吐いた。
終わっていない。
多分まだ。
この物語も、自分も。




