87. 故郷の味
夢を見た。
前に見た夢と同じ、本家の縁側。柊士が自分の隣に座っている。
違うのは、晦と朔が仔犬の姿でキャンキャン言いながら亘に噛みつこうとしていて、亘は二人を小馬鹿にしながらいなしている。汐が呆れた顔で止めるでもなくそれを眺め、巽は面白そうに、椿は困った顔で見ている姿があること。そして、本家の庭にはあるはずのない燐鳳の姿も。
『そのままでいい』
不意に、隣で柊士が静かに言った。
『神が日向奏太になったんじゃない。お前は日向奏太として生まれて、神の力を持たされただけ。生まれた時のまま、自分を生きようとして何が悪い』
柊士は真っ直ぐに、奏太を見つめていた。あの頃の、言い聞かせて諭すような、それでいて温かな眼差しで。
「……けど、世界を維持する為の力を、自分の為だけに使うのは……」
罪だと。
たとえ、目の前で楽しそうにしている大事な者達が許すと言ってくれていても、その事実は変わらない。
「それに、俺が存在してるだけで、闇の女神が……」
ギュッと膝のうえで両手を握りしめる。すると、そこに柊士の片手が重なった。書類仕事でタコができ、守り手の役目で小さな傷がいっぱいついた手。
『お前が生きることにつかってる力は、お前が秩序の神を繋ぎ止めて役割を肩代わりした、正当な対価だ。それだけの代償を、お前はきちんと払って来た。暴力を受け続けたことじゃない。お前自身が、世界に尽くしてきた対価だ』
柊士の手には、さらに強く力がこもる。きちんと熱が——想いが伝わるようにと。
『闇の女神の罪は、闇の女神のものだ。お前はあれに殺されかけて、ただ、生きるために命をつないだだけ。お前は悪くない。絶対に。お前がいなければ、世界は滅びてた。弱った秩序の神の力を繋ぎ止めて、お前が代わりに三界を飛び回らなきゃ、もっと多くの犠牲が出てた。お前は、もう、ちゃんと分かってるはずだ』
柊士はそう言うと、亘達や燐鳳に目を向けた。気付けば、そこには楓たちも加わっている。
『お前がいたから、俺も、白月も、里の奴らも、妖界の奴らも、子孫たちも、そいつらの大事な者達も、皆、皆、ちゃんと生きて、繋いでこられた。お前のお陰だ。ありがとう、奏太』
それから、柊士は奏太の背に手を当て、奏太を亘達の方へ押し出すようにグッと力を込めた。
「柊ちゃん?」
柊士に促されて立ち上がると、亘達の目がこちらを向く。そこにあるのは、奏太が加わるのを待つような、みんなの笑顔。
『あいつらと、生きたいんだろ?』
「……うん」
まるで日だまりのような、絶対に失いたくない、奏太の居場所。一度は失くしてしまったと思っていた、奏太が奏太のまま、生き続けている意味。もう、二度と、失いたくない者達。
奏太が頷くと、柊士はふっと微笑んだ。
『その気持ちがあれば、もう大丈夫だな。お前は、十分、良くやってる。自分の為に、生きていい』
その声とともに、もう一度、トンと背を押され、奏太はふっと、目が覚めた。
自分の手に被さっているのは、柊士の手ではなく、亘の手。ずっと、何日も握られ続けたゴツゴツと厚く大きな、三百年を共に歩んだ護衛役の手。
奏太は、眠ったままの亘のその手をギュッと握り返した。
このまま、ここに居たい。この、温かな場所に。
素直に、そう思った。
「……奏太様?」
亘が目を覚まし、添えられていただけの手に力がこもる。柊士に握られていたのとは違う、熱く硬い感触。けれど、それが心地よかった。
「……このまま、もう少し……」
奏太が引き留めるように指に力を込めると、亘はほんの少し驚いたような顔をしたあと、嬉しそうな、柔らかな笑みを浮かべた。
その日は、いつもの散歩に、汐や椿、巽の姿がなかった。晦は居るけれど、朔も居ない。何だか周囲が寂しくて見回していると、楓がくすっと小さく笑った。
「皆、ちょっと準備をしてるの。部屋に戻ったら、きっとすぐに分かるよ」
ワクワクしたような楓に、奏太は首を傾げる。燐鳳が、いつもの綺麗な微笑みを浮かべ、そっと奏太の手を取った。
「私が、お側におります。奏太様」
燐鳳の言葉に亘が微妙な顔をし、晦が胡乱な目を向け、燐鳳の後ろにいた縁が遠い目でどこかを見ていた。
部屋に戻ると、来客向けのテーブルに、いつもと違うテーブルクロスが被せられていた。
楓に促されてテーブルに着きながら不思議に思っていると、ドアがコンコンとノックされ、巽と汐が入ってくる。その後ろから、お盆に食器を乗せた椿がやってきた。さらにその後ろから、朔と、身の置き場のなさそうな真尋も。
「奏太様に、召し上がっていただきたくて、皆で用意したのですよ」
ふわりと、どこか懐かしい、いい匂いが部屋の中に広がる。
ニコリと笑った汐が、椿から受け取った食器を、コトリ、コトリと、一皿ずつ丁寧に並べていく。
「……これ……」
盛りつけられていたのは、生姜とニンニクの香ばしい匂いが立ち上るアツアツの唐揚げ。サラダ菜が敷かれた平皿は、昔母が好んで使っていたのによく似た、赤紫の模様と黄色の小花を散らしたもの。
ほかほかで真っ白な粒立ったごはんが、少しだけ甘い香りを漂わせながら、奏太が毎日実家で使っていたものに近い茶碗の上でこんもりと小さな山を作っている。
小鉢にはキュウリとハムとたっぷりのマヨネーズで和えられたマカロニサラダ。サーモンとレタスと海藻類がバランス良く混ざったサラダ。キュウリの浅漬け。温かな湯気が味噌の香りと共に上がる味噌汁。
箸の焦げ茶も、小鉢の白と水色も、木製の碗の赤も。かつて、実家の食卓に並んでいたものに、よく似ていた。
あの頃。まだ、父母と共にとっていた……そして、「お前の好物だろ」と、人界に戻り本家に行く度に、柊士が用意してくれていた食事。
時折見る鬼界の食事とも、妖界の帝のために用意された食事でもない。平凡で、ありふれた、人界の家庭の——
「奏太様が、まだ生家で暮らされていた時の私の記憶と、栞が柊士様のご指示で作らせていた食事の記憶をもとに、巽が食材を取り寄せたり食器を揃えて、真尋様が作ってくださいました。私も、少し手伝ったのですよ」
恥ずかしそうに、汐が言った。
人から神に変わり飲食自体が不要になっても、奏太は、両親が生きている頃までは人と同じく生家で食事をとっていた。二人が亡くなると、今度は柊士に毎日日向の本家に来るよう言われ、しばらくの間は通って食卓を囲む日が続いた。
『不要でも、ちゃんと毎日食べに来い』
そう、言われて。
けれど、柊士を失い、人の生の移り変わりの中、その足が人界から遠のき始めると、食事を摂るという行為自体をしなくなっていった。周囲にいる亘達も妖界の者達も、日々の生活の中で食事をする習慣がない。
いつだったか、人界の親しい者達を失うことに疲れて塞ぎ込んでいた頃、汐が『お食事を用意しましょうか?』と言ったことがあった。
けれど、わざわざ準備させるのが申し訳なくて、奏太は『食べなくても生きられるんだから、わざわざ俺の為に用意なんてしなくていいよ』と笑って答えた。
もちろん、妖たちの間にも嗜好品としての食べ物はある。幻妖宮には会食という名の政治もある。だから、飲食を全くしなくなったわけではない。けれど、食事はいつしか、奏太にとって、営みとしてのものではなくなっていた。
楓が部屋の隅で小さく縮こまっている真尋に目を向けた。
「真尋、家事が得意なの。守り手が多い家だから、その分、守り手じゃない真尋が、日向の家を守ってくれてて。奏太君のために、自分にも何かできないかって、真尋が」
楓の言葉に皆の目が向くと、真尋は居心地悪そうに、更に身を小さく部屋の角に埋め込んだ。近くで守る朔が、気の毒そうにそれを見ながら眉尻を下げている。
「私も手伝いました! 奏太様! これ、この緑の、私が切ったんですよ!」
突然、ずいっと顔を突っ込んできた椿が、少しだけ歪に太くなったキュウリを指さす。
「奏太様に、喜んで欲しかったんです!」
「……失敗作が大量にあるんですよ。しかも、キュウリばっかり。あとで、武官達とどうにかしますけど。どうせなら、レタスをちぎる係をしてもらえたらよかったんですけど……」
巽がゲッソリした顔でぼやいた。
奏太は、目の前に並べられ、湯気を上げる料理に目を戻すと、ゆっくりと箸を手に取った。
唐揚げの一つを箸で掴み上げ、どこか緊張しながら口にする。
衣がサクリと音を立て、じゅわりと口の中に広がる肉汁。懐かしい人界の味が、口いっぱいに広がる。それと共に、いろいろな思い出が脳裏を過る。父母との食卓、柊士達と囲んだ食卓。鼻腔をくすぐる香りは、あの頃と変わらないもの。
こんな食事を食べたのは、いったい、いつぶりだろう。
噛みしめるほど、胸が痛いくらいにいっぱいになっていき、それと共に、勝手にポロポロと両目から涙が溢れ出てくる。
「奏太様、お口に合わなければ、お召し上がりにならなくても良いのですよ」
側で見守っていた燐鳳が、気遣わしげに言いながら、じろっと巽を睨む。
しかし、奏太は緩く首を横に振った。
「……ううん。美味しい……すごく……。ありがとう、みんな」
頬を涙で濡らしたまま、自然と、微笑みが溢れた。
皆が息を呑み、奏太の顔を唖然と見つめる。
空気が少しだけ変わったのを感じて、良くないことをしたのだろうかと、不安が心によぎる。
瞬間、ガバっと巽に横から思い切り抱きつかれた。
「奏太様が、笑ってくださるだけで、十分です……!」
肩に目が押し付けられて、じわりと温かく濡れる。
「奏太様が、いつもみたいに、ただ、普通に笑って、ここに居てくださるだけで……」
グス、グスッと、肩を震わせしゃくり上げる巽の背に、奏太はそっと箸を置いて、腕を回した。
ここに居ていいという言葉。それを、気付けば自然と受け入れられるようになっていることが何だか不思議で、でも、こうして抱きしめられていることが、とにかく温かくて。
「巽殿、奏太様のお食事の最中ですよ」
見兼ねた燐鳳から冷ややかな声が響く。けれど、巽は逆に、抱きつく腕に力を込めて、ひしとしがみついた。
「嫌です! 僕には奏太様の温かさに触れる権利があるんです! この狭い屋敷の中で、使い物にならなくなった亘さんを宥めて、何かと燐鳳殿に脅されて、奏太様の隣を取り合って小競り合いを始める奴らの仲裁に明け暮れて、楓様の無茶振りに精一杯応えて、身も心も胃もボロボロになって……! 誰も僕と苦労を分かち合ってくれないし、揃いも揃って僕に負担ばっかり背負わせて……! 僕には、奏太様の笑顔だけなんです……! 誰にも邪魔は——」
巽が必死に言い募ると、亘に襟首を掴まれ後ろに引かれてバリっと奏太から引き剥がされた。
「あとで聞いてやるから、今は離れろ、巽」
「離してください、亘さん! うっ、うぅ……奏太様ぁ……!」
情けなくこちらに手を伸ばす巽の手を、今度は燐鳳が畳んだ扇でベチンと叩き落とす。
「そうですね、あとでお話を聞くべきことが多そうです」
バサリと広げた扇を口元に当てて、冷徹極まりない目で燐鳳が見下ろしたところで、巽はヒクッと顔を引きつらせた。
「あ、あの……、巽は……」
燐鳳を止めた方がいいかと奏太が口を開きかけると、三人の姿を視界から遮るように椿が間に体を滑り込ませる。
「さあさ、奏太様、冷めてしまう前にお召し上がりください」
「そうですよ、熱いうちが一番美味しいですからね」
汐もまた、巽達から気を逸らせるようにそう微笑んで、コトリとお茶をテーブルに置いた。
「い、嫌だぁあぁぁぁ! 奏太様ぁああぁぁ~~……」
部屋から放り出された巽の声が、扉の向こうから遠く聞こえた。




