86. 二百年の焦燥②:side.燐鳳
燐鳳は、渋る巽や椿達を退室させる。汐が蝶の姿で亘のところまで飛び、何かを言い残して行ったのが見えた。大方、燐鳳のことを警戒でもしているのだろう。
パタリと扉が閉じ、周囲が静寂に包まれる。
「亘殿、奏太様から見える位置にいて差し上げてください。できるだけ距離を置いていただけると助かりますが、何かがあれば直ぐに間に割って入れる場所にいていただいて構いません」
燐鳳が言えば、亘はじっと見定めるような目をこちらに向けた。言葉の裏にある意図でも探っているのだろうか。
「奏太様の御心に負担をかけないため、それ以外に他意はありませんよ。そうでなければ、とっくに追い出しています」
燐鳳は苛立ち混じりに、冷たく言い捨てた。
「……燐……」
不安そうに、燐鳳と亘を見比べる主に、燐鳳は柔らかな笑みを作る。
「何も、心配はいりませんよ、奏太様」
ひやりとした主の手に、燐鳳は自分の手を被せ直す。
「貴方に、私の心を知っておいていただきたかったのです」
巽や人界からの眷属達に邪魔をされて、主にろくに近づけなかった。主の心を癒す手にも、支えにもなれなかった。
「……燐、の……?」
戸惑いに瞳を揺らす主に、燐鳳は眉尻を下げた。
「あの害虫が、貴方が神になることは皆が望んでいることだと言ったそうですね」
「……玄の……こと……? けど、たぶん、それは……」
燐鳳は、頷きかけた主の頬にそっと手を当てて、それを遮った。
「奏太様、あの様な穢らわしい者の言う事など、信用してはなりません。それに、尊い貴方の方から、わざわざあの害虫の名など口にされなくても良いのですよ。清い心が汚されてしまいますから」
あのような男の名が、主の口から出ること自体が悍ましい。
「……でも……亘達は、ここに居ていいって、認めてくれたけど……俺、ホントは……」
視線を下げる主は、完全に自分の価値を見失ってしまっている。ごく身近な、たった四人の人界からの眷属と、楓たち日向の子孫達だけの小さな世界にしか認められていないと、本気で思い込んでしまっている。
しかも、ただ存在を許された、それだけの状態。だから今もまだ、ちょっとしたことで消えてしまいそうに心を揺らしている。
「奏太様、貴方は忘れてしまっているかもしれませんが、貴方自身が思うより、貴方は多くの者を救ってこられました。秩序の神ではなく、貴方自身が、です」
陰の気が満ちる妖界にとっては、鬼界と同様に、陽の気が何より重要なものだ。
公務という枠を超えて、危険だと燐鳳が止めても亘に飛び乗って行ってしまう主の姿を、何度見送ったことだろう。
「貴方が帝位に就かれてから、いえ、もっとその前から、妖界をあちこち飛び回ることで、貴方に救われてきた者達が大勢います。土地が枯れ困っていた村に白の光を注ぎ蘇らせたり、黒の渦から湧いて出た鬼を捕らえ混乱を収めて結界を元に戻したり」
そして、数日後に幻妖宮に礼を述べる書状が届いても、その時には既に主は別のところに行ってしまっているのだ。
「私が知る限り、貴方を否定する者のほうが圧倒的に少ないくらいです。あの害虫と、その周囲だけ。幻妖宮に戻れば、貴方を慕う者ばかりです」
燐鳳が言えば、奏太は不思議そうな顔になる。
「……ハクじゃなくて、……俺……?」
何故、ここで先帝白月の名が出るのだろうか。
先帝陛下から奏太が帝位を継いだ時、燐鳳は徹底的に、白月ばかりを持ち上げ奏太を否定する者達を排斥していった。今や、現帝否定派は、一人として幻妖宮に残っていないはずだ。
「何処の誰が、先帝陛下と比べて貴方を否定したのです?」
燐鳳の声が低くなる。
そこで、ふと、壁際に控える男が目に入った。
「……まさか、貴方の護衛役が、貴方と以前の主を比較したのではありませんね?」
亘は、先帝白月が、結という名の人界の守り手であった頃に護衛役をしていたと聞いた。
しかし、奏太は首をふるふると横に振る。
「違う……ただ、俺が……亘は、ハクのところに戻りたかったんじゃないかって……思ってただけで……」
奏太は、チラッと亘をみたあと、言いにくそうに俯いた。
「けど、亘は、俺が解任してもいないのに……ハクのところに帰るような真似は……しないって……」
「そ、奏太様! それは、三百年以上前の——!」
「亘殿」
慌てて声を上げた亘を、燐鳳は鋭く睨み黙らせる。それから、ギュッと奏太の両手に力を込めた。
「奏太様、貴方に解任されれば、元の主の元に戻ろうなどと不届きなことを宣う者は、さっさと解任ください」
前々から、燐鳳は亘達のことが気に入らなかった。界を越え常に主のすぐ近くに侍ることを許されているのに、何度も主を危険に晒し、心一つ守れない眷属たちが。
しかし、奏太はもう一度、ゆっくりと首を横に振った。
「亘は、俺の眷属になった時……他の、誰でもなく……俺の護衛役だって……言ってくれたんだ……」
奏太が言えば、亘はあからさまにほっとしたような顔になった。胸の中で、ジリっと焼け焦げるような感覚がする。
それは、奏太に仕えるようになった頃から、幾度となく感じてきた焦燥。
二百数十年前。
燐鳳自身、まだまだ若輩の身で、奏太に救われて忠誠を誓うと決めたばかりの頃。燐鳳は幾度となく先帝陛下に呼び出され、奏太の話を聞かされていた。
どんな子どもだったのか、どんな風に育ち、日向の守り手としてどんな活躍をしてきたのか。
妖界で一番近くに侍ることになる燐鳳に、自分の知る全てを伝えて奏太の支えとなれるように。
そのようなことをせずとも、主となった方をしっかり支えていける自負はあったが、それでも、燐鳳は自分の知らない奏太を知れるその機会を、密かに心待ちにしていた。
そして、その中に亘たちの名が出るたびに、ジリジリと胸の内側が焼け焦げるような不快感があった。同じ方に仕えているのに、常に主と共に飛び回り、ただの人として過ごした時代を知る者達。それが、妬ましくてたまらなかった。
主の拠り所であり、主を人界に留めおこうとする、年老いた柊士という名の従兄もまた。
「燐くん、また難しい顔してるね。その顔、璃耀そっくり」
先帝陛下に、そう顔を覗き込まれ、燐鳳はハッと顔を上げた。そこにあるのは、目元に皺を刻み悪戯っぽく笑う、相変わらず美しい顔。
「……陛下。どうか、『燐鳳』とお呼びください」
燐鳳が困ったように言うと、白月は不思議そうに首を傾げた。
「えぇ、なんで? 奏太は燐って呼んでるでしょ? 私はダメなの?」
純粋な瞳に晒され、燐鳳は、グッと喉を詰まらせた。
「……その……、その呼び方は……殿下に……だけ……」
どう答えるべきかと声を小さくさせながら、そう絞り出したところで、白月の背後に控えた叔父の、見定めるような視線に冷や汗が沸いて出た。
しかし、主上は一切お構いなしだ。
「へぇ~」
ニヤニヤ笑いながら、視線を逸らした燐鳳の顔を更に覗き込む。
「燐くんは、奏太が大好きなんだねぇ~」
からかう様な声に耳が熱くなってくる。
「白月様、お戯れもほどほどに。燐鳳、陛下の御前だ。其方は、もっとシャンとせよ」
低く窘める叔父の声。
「……申し訳ございません」
燐鳳が低く頭を下げると、白月はクスッと笑った。
それから、「よしっ!」と勢いよく立ち上がる。
「白月様、どちらへ?」
叔父の声が白月の背を追った。
「可愛い側近が待ってるんだもん。うちの奏太を、柊士から奪い返してこなきゃ」
「今から、ですか?」
「そうだよ。思い立ったが吉日っていうもんね。ちょっと待っててね、燐くん。奏太、連れ帰ってくるから」
白月は、弾んだ声音を残して、さっさと部屋を出ていく。
「白月様、お待ちください! 燐鳳、其方はここで待て! 白月様、その様に思いつきで行動されてはならないと、何度申し上げたら——」
叔父は、バタバタと白月の後を追いかける。もっとシャンとせよと言った叔父が、白月に振り回される姿を、燐鳳は呆然と見送った。
その時は、白月はなんて自由なのだろうと、振り回される堅物の叔父をほんの少し哀れに思ったものだが、燐鳳もその数十年後には、何かと理由をつけては公務から逃げ回る主に手を焼くようになるとは、思いもしなかった。そして、あれから更に二百年。こんな風に、主を内側から壊されることになるとは。
もっと、目を光らせていれば、妖界に留め置き何処へも行かせていなければ、眷属になど、この方を任せていなければ。主は鬼に害されることも、眷属に内側から食い破られることもなかった。燐鳳自身が、もっと、しっかりしていれば——
燐鳳は、黒を揺らす主の透き通った瞳をじっと見つめる。この方が、これほど儚く見えるようになったのは、いつからだっただろう。
燐鳳は、主をつなぎ留めている人間時代を直接は知らない。その頃から付き従ってきた亘達に敵うことなどないということくらい、痛いほどに分かっている。自分では、この方の錨にはなれないことくらい、燐鳳自身が一番分かっている。
商会の庭で、三百年前の共通の思い出を足がかりに、壊されていた主が真っ先に縋り付いたのは、他の誰でもない、亘だった。その間に、自分が割って入ることはできないことくらい、十分過ぎるほど、分かっているのだ。
けれど……だからこそ、人一倍、今、ここで、有限の生の中で、この方と共に在りたいと願ってしまう。
主とも、主と共に行ける眷属達とも違う、限られた時間の中で、精一杯、この方と共に在りたいと。
「妖界に住む、多くの者が救われて来たと申し上げましたが、私も、その一人なのですよ。奏太様」
燐鳳の言葉に、奏太は燐鳳の瞳を見つめ返す。燐鳳は柔らかく、その目を細めた。
「奏太様、貴方は、私の光です。金ではなく、貴方自身の持つ白の光に救われたのです」
期待もされず、使い捨ての駒のように見捨てられると思っていた罪人の子を、救い出し、引っ張り上げてくれた光。
「秩序の神ではなく、私を私として見てくださった貴方こそが——日向奏太様こそが、私の唯一の主なのですよ」
完璧ではなく、時に手を焼かされ、こちらの心が擦り切れるほどに心配させられ、身も心も傷つきやすく、弱く、脆く、けれど、誰よりも眩い白の光で周囲を照らす、この方こそが。
「幻妖宮に戻ったら、各地から届いた礼状の数々を、共に見ましょう。貴方が貴方として、成して来られた軌跡です。もしかしたら、また、増えているかもしれませんね」
少し前、主が妖界に戻った時に、あちこち飛び回ったばかりだから。
燐鳳の言葉に、ほんの少しだけ目を丸くしたあと、主から「うん」と微かで、けれど真っ直ぐな了承の声が返ってきた。




