85.二百年の焦燥①:side.燐鳳
「奏太様、どうか、二人きりでお話するお時間を頂けませんか?」
主の回復が少しずつ見られてきた頃。
巽を言いくるめ、亘と椿から無理矢理もぎ取った奏太のベッド横で、燐鳳は主の手をそっと取り、その顔を見上げた。
巽は、失敬なことに、燐鳳の傍でハラハラとした顔でこちらの様子を窺っている。主があの玄という毒蛇以下の害虫に壊されてしまってから、燐鳳が主に近づく度に、何故か燐鳳までもが警戒されていた。
なるべく燐鳳が主に近づかないようにと遠ざけられ、何かといえば眷属と人界の者の間だけで全ての事が運んでいく。まるで薄布で覆い隠されているように手出しができない。
しかし、常に主と共に行動し、過去も現在も含めて状況を把握している眷属達から、『これは主のためだ』と言われれば、燐鳳は引き下がる他なかった。
主と共に過ごした時間も、密度も、神としての立場や制約への知識も、圧倒的に燐鳳が劣るうえに、実際、僅かずつではあるが、主の状態が好転していっているのは認めざるを得なかったから。
燐鳳は、期待を込めて、主を見上げる。主が頷けば、邪魔の入らない静かな空間で、主と二人、過ごすことができると。
しかし、主は、まじまじと燐鳳の顔を見つめたあと、その瞳に怯えを浮かべ、透き通るような黒を不安定に揺らした。
人界の者達を見るのとは異なる拒絶を読み取って、冷水を浴びせられたような心地になる。
近くで様子を見ていた巽のハッと息を呑む音が聞こえ、グッと肩を掴まれた。
「燐鳳殿、やはり、今はどうか、ここまでに」
しかし、今、ここで引き下がるわけにはいかない。主が何を考えているのか、何に怯え、何を望むのかを知らないままにはできない。もしかしたら、何か誤解があるかもしれない。
眷属達だけで囲い込まれ、自分には何も見えない状態で主から遠ざけられ、永遠に主の側に居られないのだけは、何としても避けたい。
「奏太様、どうか、少しでも何か思われることがあるのなら、何でも仰ってください。私は、貴方の御心を煩わせるつもりはないのです」
燐鳳は、肩を掴む巽を無視して、主の手を包む両手に熱を加えるように力を込める。
「どうか、御心を、私にお教えください。どんな、些細なことでも結構ですから」
燐鳳の言葉に、主の瞳がさらに揺れ、唇が僅かに震え出す。
「燐鳳殿」
肩を掴む巽の手に力が籠る。けれど——
そう思ったところで、小さく、主の震える声が聞こえてきた。
「……燐は……、俺のこと……罰するの……?」
ようやく喉の奥から絞り出したような、掠れる声に、燐鳳は息を呑んだ。主の怯えの原因に、胸を抉り取られるような痛みが走る。
「私が、貴方の手を縛ったから、ですか?」
あの時、燐鳳は確かに『これは罰か?』と尋ねる主に、『そうだ』と答えた。
傷つけるつもりはなかった。ただ、自傷に走る主を護りたかった。けれど、主を壊したあの悍ましい男と同じだと言われてしまえば、否定はできない。
冷たい嫌な汗が背ににじむ。主の答えを待つ数秒がただただ恐ろしくて、何十倍もの時間に感じられる。
しかし、主はゆっくりと、その首を横に振った。
「……そうじゃ、なくて……玄が、俺を……罰するのは……いつも、二人きりの時……だったから……」
主はそう言うと、燐鳳の手をキツく握り返した。それと共に、小刻みな手の震えが伝わってくる。懇願し縋るような指先。
「だ、誰かと……二人きりになるのが……怖い。……俺……罰、なんて……ホントは……受けたく、ない……」
グッと俯いた主の瞳に、涙が溜まり、ポタリと落ちる。
「に、二百年も、耐えた……のに……大丈夫だった、はず……なのに……俺、何で、こんな……弱く……」
弱く、なったのではない。ただ、恐怖と痛みに死に物狂いで耐えていただけ。何よりも尊いはずのこの方の心を、必死に削り取って笑顔の仮面に変えていただけ。磨り減り尽くし、パキリと、簡単に割れてしまうほどに薄くなるまで。
燐鳳は、気付けば、その小さな肩をグッと抱き寄せていた。
「そうでは、ありません。奏太様」
不敬だと、理性が激しく責め立てる。けれど、このまま放っておけば、主がまた、知らぬ間に自分を犠牲に何処かに消えてしまいそうな気がして、居ても立っても居られなかった。
「自分自身を否定し虐げる者を恐れるのは、当然のことです。何も、おかしなことではありません。それよりも、怖いと、そう声を上げてくださることこそが、何よりも勇敢で、尊いことなのですよ」
ただ一言、助けてほしいと言ってほしかった。二百年も耐えてしまう前に、痛いと、苦しいと、辛いと、弱音を吐いてほしかった。そうすれば、何に代えても、何を敵に回しても、たとえ、何を犠牲にしても、必死に護り抜いたのに。
燐鳳は、主から身体を離して、その顔を覗き込む。涙に濡れた主の頬を、そっと、自分の着物の袖で拭った。
「奏太様、二人きりが怖いのでしたら、亘殿に、共にいて頂きましょう。それで、いかがですか?」
「……いいの……?」
戸惑うような声に、燐鳳は微笑み、首肯する。
「私は、貴方を罰したいわけではありません。ただ、静かに、貴方とお話がしたいだけなのです」
悔しいけれど、主がそれで安心するのなら。
燐鳳の言葉に、奏太は亘をチラッと見やったあと、コクリと小さく頷いた。




