84.回復の途上:side.巽
「今日も、外に行きますか? 奏太様」
ベッドの横、そう語りかけた巽に、主が目を合わせてコクと頷いたのを見て、ジンと心に温かなものが染み入るような心地がした。主からの反応がある。たったそれだけのことが、どれほど嬉しいことか。
まだ、以前のように話をするには至らない。ぼんやりと外を見続ける時間も多い。けれど、話しかければ視線が合うし、首肯や首振りで、少しずつ意思を示すことが増えてきた。
夜には、未だに暗闇で心の痛みに涙を流すことがあるらしい。けれど、以前とは違い、縋り付くように自ら亘の手を握り込むようになったと聞いた。今度は気のせいではなく、確かに『亘、』とその名を呼んで。
自ら意思を示すようになったものの、最初は恐る恐る周囲の様子を窺うようだった。本当に受け入れられているのか、自分はこのまま、ここに居ていいのかを確かめるように。
主のそんな様子を他所に、巽も皆も、ようやく返ってくるようになった主からの反応が嬉しくて、どんな小さな反応も見逃すまいと飛びついた。
目を見て首を縦に動かした、手に触れてくれた、握り返してくれた、少しだけ声が聞こえた——たったそれだけのことが、飛び上がるほどに嬉しくて。
椿が感激のあまりに勢いよく主を抱きしめたのを、何度目撃したことだろう。見た目に反する強すぎる力に抱き潰されそうになって、少しだけ苦しそうに眉根を寄せた主から、巽が慌てて引き剥がすのも一度や二度ではなかった。
亘と主の抱擁を見たせいか、それとも今まで何の反応も示さなかった主からの反応を一身に浴びたい欲求からか、亘と燐鳳と椿の間で、主のベッド横を奪い合う静かな争いが度々勃発するようになり、巽が胃を押さえながら「奏太がお困りになりますから!」と仲裁することも多くなった。
ちなみに汐は、何気ない顔で蝶の姿でひらりと舞い、主の上を陣取っている。巽も蜻蛉に変わってそうできたら良かったのだが、一度真似てみたところ、燐鳳や椿に握り潰さんばかりの視線を向けられ、怖すぎてそれ以降できなかった。汐は何故あの視線に耐えていられるのか、そして何故未だに無事なのか、不思議で仕方がない。
そうやって、少しずつ、少しずつ、商会内に賑やかさが戻ってくる。
「……俺……、汐の……お茶が、飲みたい……」
ポツと呟いた主に、汐が涙をいっぱいに瞳に溜めて、嬉しそうに笑ったのは、そんな日々から、更に数日経った頃だった。
気付けば定位置になってしまった廊下扉前の簡易机。仕事をしていると、妖界の武官の一人が一通の封筒を差し出した。
「商会長、白日教会から手紙です」
妖界の者達は、交代で燐鳳の手足となって本業の護衛任務をこなしながら、今までどおり商会の仕事を手伝ってくれている。
玄の一件で、今まで以上に燐鳳が屋敷の警備にピリピリと神経を尖らせているため、武官達の心労は大きい。故に、商会手伝いは良い息抜きになっているようだと、少しだけ縁が漏らしていた。
当の縁は完全に燐鳳の専属護衛兼小間使いになってしまったので、日々生気のない顔をしている事が多いが。
「また、面会依頼なの?」
ちょうど、主のお茶を用意してきた汐が、巽の手元に怪訝な目を向ける。
「いや、闇の動向についてだと思う。定期的に情報をよこすように伝えておいたんだ。光耀教会と違って、セキは聞き分けがいいからね」
もっと正確に言うならば、『使い勝手が良い』だ。奏太本人に恩がある為、何かと融通が利くし、事情をよく分かっている。
「今の状況だと、王城も、先代眷属も、信用できない。かと言って、闇の女神の狙いが奏太様にある以上、情報収集は必要だから」
巽はそう言いつつ、ピラっと手紙を広げた。
「なんて書いてあるの?」
「——ここのところ、闇の発生が極めて少ないみたいだ。発生しても小規模。それに、何故か教会関係者が着く前にすぐに消えてしまうって」
以前も、似たようなことをセキが言っていた。ハガネの事件の少し前のことだ。その現場に、黒いローブの少女の姿も目撃されているとも。
そして、今回の光耀教会の事件。あちこちで同時多発的に闇が発生し、そこに、少女姿の闇の女神がいたと、亘と椿、同行していた武官達が証言している。
「椿から聞いたけど、あの光耀教会での事件の時、闇の女神が『ハガネにあれほど力を与えてやったのに』って苛立ってたらしい。ハガネ自身が扱った闇の力、光耀教会のあちこちで発生した闇。奏太様を捕まえられなかったせいで、貸し与えた力が無駄になったってことだと思うけど……」
巽は、頭の中にある情報を整理するように口に出す。
「闇の発生規模が小さくなってるのは、あの一件で、力が一時的に弱まったからってこと?」
汐の言葉に、巽はコクリと頷く。
「たぶん。今まで、各地で闇を発生させてきたのが闇の女神だったとして、そもそも、闇の女神が街中で闇を発生させるのって、なんでだと思う?」
「……昔、闇の女神が深淵の闇を広げてたのは、憎悪を使って闇の女神と陰の御子の力を増すためだったけど……まさか、今も、力を集めるために?」
「確証はないけど、もしかしたら」
そうは言いつつも、辻褄は合ってしまうと、巽は思う。
「前に奏太様も仰ってたけど、そもそも、鳴響商会やハガネの後ろに隠れてコソコソしてる時点で、昔ほどの力は持っていない可能性が高い。その状態で、大量に力を貸し与えたとすれば、今の小康状態も説明がつく」
「失った力をまた集めようとして聖教会に広げた闇を消される前に回収して力を蓄えてるかもしれないってことね」
汐のつけ足しに、巽は、ハアと息を吐いて天井を仰いだ。
主は今は動けない。あちらも身動きが取れなくなっているのなら都合がいいが、力を蓄える時間を与えてしまっている可能性もある。
「できるだけ阻止したいところだけど、僕らが今、奏太様の側を離れるわけにはいかないし、かと言って、先代からの眷属達を信用できないのが辛いとこだね」
「しばらくは、聖教会側でどうにかしてもらうしかないわね。警告くらいなら、マソホのところにも飛ぶけど?」
王城との連絡係は、今まで汐が担っていた。けれど、今は避けた方が良い。
「いや、王城に近づくのは止めよう。汐ちゃんに万が一にも何かがあったら困る。それより、奏太様の傍に居て差し上げてよ。あと、お茶も」
巽は、汐が持つ茶器に視線を向けて苦笑を浮かべた。主が自ら汐のお茶を所望してから、汐は上機嫌のまま、高頻度でお茶の入れ替えをしていた。いつ主が飲みたいと言っても良いように。
過保護というか、何というか。
「王城への警告は、白日教会経由でしてもらうよ。今は、奏太様の御心を最優先にしよう」
情けないけれど、主が回復しなければ、闇祓いに関して巽達にできることは少ない。回復したところで、できたらもう、屋敷の敷地内より外には出したくないけれど。
世界の安寧よりも、主の安全のほうが、巽にとっては重要だから。
(僕も、十分、過保護なんだろうな)
巽はそう自覚しつつ、汐の為に主の部屋の扉を開けた。




