88. 不穏な雨の日
それから幾日か。
その日は、あいにくの雨。外に出ることも叶わず、窓に打ちつける雨粒の音が室内に微かに響く。
奏太はそれを遠く聞きながら、ぼんやりと、部屋の中を見回した。
周囲では、奏太が何かをするわけでも、誰かが何かの用事があるわけでもないのに、皆が部屋に集まり、わいわいとしている。汐がお茶を入れ、亘に晦と朔が噛みつくように言い合いをして、巽が仲裁をしている。亘が奏太の隣を外した隙に燐鳳がやってきて、静かに座ったままの奏太の手を取って握る。椿は椿で、うずうずしながら燐鳳の隙を窺い、楓が楽しそうに話し、栞がそれに応じる。そこには真尋の姿もあった。
賑やかで、雨なのに明るい室内。奏太はただ、黙ってそこにいるだけ。でも、それだけで、心が落ち着く気がした。
けれど、平穏は長くは続かない。
不意に胸の中に蠢く不穏を感じ取り、奏太は自分の手を握っていた燐鳳の手をほどかせ、静かに立ち上がった。
「奏太様?」
燐鳳の心配そうな声と、突然立ち上がった奏太に、皆が不思議そうな顔をする。
晦を押しやり、こちらへやってきた亘が、奏太の顔を覗き込んで、顔色を変えた。きっと、恐怖と共に一気に冷え暗い影が落ちた心が、そのまま面に出てしまっていたのだろう。
「奏太様」
「……俺、行かなきゃ」
奏太は、ポツリと、そう呟く。
「奏太様!」
両腕を亘に掴まれ、痛いくらいに力が籠る。
もう、痛みがあっても、それを罰だとは思わない。自分を引き止めようとする確かな熱だとわかる。
けれどーー
「……巻き込みたくない。大事なんだ……みんなが……」
もう、隠す必要はない。でも、巻き込んで、あいつの怒りに触れて、失うのだけは耐えられない。二度と、この平穏を壊されたくない。
「何があったのか、話してください。一人で背負わないでください。どうか、助けを求めてください」
必死に瞳を揺らして奏太を見つめる亘の目を真っ直ぐに見ていられず、奏太は視線を床に落とした。
「……玄が、来てる。屋敷の結界を通って……すぐ、そこに……」
その途端、空気がピリっと張り詰めた。燐鳳が視線で縁に指示を出し、周囲を守っていた武官の一人が足早に部屋の外に出る。晦と朔が真尋と楓を守るように立ち、椿や縁、部屋に詰めていた武官たちが一斉に武器に手をかける。
「護りの結界は……?」
栞の問いに、巽がギリっと奥歯を噛んだ。
「玄は、奏太様の眷属だ。屋敷の結界では、眷属を弾けない。僕らが自由に出入りできるのと同じように」
通過してきたことの感知はできる。でも、ここの結界は、眷属達の出入りを制限できる状態にはなっていない。
「御守りします、奏太様。今度こそ、何があろうと」
亘が奏太の腕を掴んだまま、低く厳しい声音で言う。
でも、無理なのだ。力量差がありすぎる。本物の秩序の神から力を賜った先代眷属には、ここにいる者達が束になっても敵わない。
「我が君、どこです!? 貴方が人の身に引きこもって出てこないから、妖界のゴミ虫共が、苦しんでいますよ!」
玄の愉しげな声が、屋敷の中に冷たく反響する。
今度こそ、玄は奏太を壊し、神への回帰を成し遂げようとするだろう。それこそ、何をしてでも。
奏太は、じっと亘の目を見上げた。
「亘、俺、ここに居ていい?」
この場所に、この世界に、自分のまま。
日向奏太のまま、生きていて良いと、その確証が欲しくて。
「もちろんです。ですから、貴方はこちらに——」
「ううん。俺が、決着、つけなきゃ」
奏太は、亘の言葉を遮って、そう微笑んだ。
「……玄とのこと、自分の心に決着をつけるには、俺が、やらなきゃ……。それに、眷属と決着をつけるのは、その神自身にしかできないから」
誰かに任せるのではなく、自分自身が。
「俺自身が、ちゃんと向き合わないと、俺、きっと、ずっと……」
自分を信じられず、誰かの影で怯え、醜く、無力で、何処かで生きる罪悪感を抱えたままになる気がした。
手は、冷たく小刻みに震えている。どうしても、恐怖に身が竦みそうになる。けれど、ここで、この場所で、自分に残された人としての時間の全てを亘達と生きるためには、きっと、もう、避けては通れない。
呪縛というものがあるのだとすれば、断ち切れるのは、きっと、自分の手だけ。
「無理に、笑う必要はありません」
不意に、低く響いた亘の言葉に、ドクンと心臓が鳴った。そこにあるのは、全てを見透かすような、亘の茶の瞳。
「……無理に……、なんて……」
そこまで言いかけて、表情を作れなくなる。
「奏太様。一人で全てを抱え込んで耐える必要はありません。辛いなら辛いと、怖いなら怖いと、仰ってください。私は、貴方の護衛役でしょう? 貴方を護り、背負う荷を軽くするために、我らは貴方の眷属になったのです」
すると、亘が上から覆うように、奏太の冷たくなった手をギュッと握った。
「一人では、行かせません。貴方自身が行かねばならぬのなら、私が、共に」
「……けど、お前に、何かあったら……」
失う恐怖が勝ってしまう。
しかし、亘は、絶対に譲らない強い瞳で奏太を見つめて、その手に更に力を込めた。
「貴方に何かがあれば、私は生きていけません」
真っ直ぐに自分を見つめる瞳。
(……そういえば、俺の眷属になった時も、こういう目をしていたっけ)
『この身命を賭して、貴方自身と、永久に続く貴方の未来をお護りいたしましょう』
忘れたわけではない。ずっと、大切だった言葉。でも、だからこそ、失いたくなくて必死に抱え込んだ。偽り、欺いてでも、あの時のまま、ずっと側にいてほしいと。
「貴方を貴方として、繋ぎ止める者が、御側に必要なはずです」
『ここから永遠に続く時を過ごす貴方の御側に、人としての貴方を知る者が、必要なのではありませんか?』
三百年前のあの日、亘が言った言葉は、いつしか、細く、けれど強固で、無くてはならない命綱になっていた。『日向奏太』を繋ぎ止める、綱というには細い糸。
「我が君! 早く出てきてください! でなければ、俺が、貴方を人として引き留める全てを壊してしまいますよ!」
ドアの向こうに響く声に、奏太はギュッと奥歯を噛んだ。せっかく取り戻した居場所を、失うわけにはいかない。
「亘、一緒に、居てくれる? 何処にも行かず、俺の側で繋ぎ止めていてくれる?」
いつ切れてもおかしくない——とっくに切れてしまったと思っていた、皆が強く結び直してくれた糸を。
「それが、私の役目ですから」
亘はそう言うと、その手に強く力を込めた。二度と、その糸を手放すまいとするように。
亘の言葉に奏太が頷くと、不意に、燐鳳の、らしくもない焦った声が聞こえた。
「奏太様、お待ちください……!」
タタッと駆け寄ってくる姿に、奏太は首を横に振る。あの状態の玄のところへ、皆は連れていけない。何をされるか、分からない。
奏太は亘の手を離し、息を詰めてこちらを見つめる者たちを振り返った。
「みんなは、ここに居て。……椿も」
「奏太様!」
椿は、鋭い声を上げる。亘が行くなら自分も、そう思っていたからだろう。でも。
「……椿は、みんなを護っていて。……ずっと昔、汐を護るって、言ってくれたみたいに……晦や朔と一緒に、汐や、大事な日向の子達も……」
奏太の言葉に、椿は、悔しそうにグッと口を噤む。
三百年前、奏太が人の身のまま鬼界に来ざるを得なくなった時。『置いて行かないで』そう縋る武力のない汐の肩に手を置き、椿は『汐も奏太様と一緒に守ります』と言ってくれた。そうやって、奏太だけでなく、奏太の大切なものも、椿に預けてきた。
「……奏太君……」
不安そうな楓に、奏太は小さく微笑んで見せた。
汐を見れば、胸元で両手を組んで祈るようにこちらを見つめている。
「汐、俺、ちゃんと戻ってくるよ」
いつだって、帰ってくれば、勝手に動いた奏太に怒り、泣き、自分のことのように心を痛めてくれる。ずっと側で奏太の心を支えてくれる小さな蝶のところに、いつものように。
すると、汐の小さな肩に巽がポンと両手を置いた。
「奏太様が仰りたいことは、よく分かっているつもりです。伊達に三百年、一緒にいませんから」
「……巽……」
戦闘力の低い汐と巽は留守番。
いつも二人には、今の椿のような、悔しそうな、もどかしそうな顔をさせてきた。それでも、どうしても、護りたかった。
「不完全なままの僕らじゃ、玄には敵いません。きっと、貴方の足手まといになるでしょう」
巽は、諦めと、ほんの少しの強がりを混ぜた顔で微笑んだ。
「だからせめて、『貴方のまま』帰ってくると、それだけ、約束してください。僕らは、貴方の居場所を護っていますから」
そう言うと、巽はチラッと燐鳳に目を向けた。奏太が光耀教会に行く前に、巽が燐鳳に言い聞かせていた言葉。
すると、燐鳳は静かに奏太の前まで進み出て、その場でスッと膝をついた。恭しく奏太の手を取ると、じっと奏太の顔を見上げる。
「いつだって、貴方はお止めする私を振り切って、何処かへ行ってしまわれる。お帰りになった時には、御身体が傷つき、御心が磨り減り、壊れてしまう寸前であったことが、今まで一体、何度あったでしょう」
巽達と同様に、いや、それ以上に、奏太から離れたところで待たせてきたのが燐鳳だった。眷属ではない燐鳳は、璃耀からの預かりものであるという意識も強かった。
けれど一方で、燐鳳の気持ちが真っ直ぐに奏太に向いているのも知っていた。置き去りにする度に心労をかけてきたのも、分かっている。
「そういう意味では、私はあまり、貴方を信用していません。もちろん、貴方の護衛役も」
燐鳳はそう言うと、鋭い視線で亘を睨んだ。
「……燐……」
奏太が燐鳳の名を呼ぶと、燐鳳は自分を落ち着けるように小さく息を吐き出した。
「けれど、私は、貴方の支えになりたいのであって、荷物になりたいわけではありません。貴方の御心の為には、ここに留まるのが、文官に過ぎない私の役目なのでしょう。……せめて、命を張って貴方をお護りできるだけの武力が私にあれば、どれほど良かったか……我が身を呪いたくなります」
燐鳳の瞳に悲哀が滲む。必ず無事に帰ってくると約束して反故にしたのは、ついこの前のこと。燐鳳が、心から、悔やんでいるのが伝わってくる。
「せめて、縁や武官達をお連れください。貴方が貴方であるために、貴方の御心に決着をつけ、アレと決別しに行くと仰るなら、今一度、貴方を信じ、待つことに致しましょう」
燐鳳はそう言うと、奏太の手に添えた指に、強い力を込めた。
「貴方に——日向奏太様に、私の命をお預けします。私の命は常に貴方と共に。貴方がお戻りにならなければ、私もまた、この命を絶ちましょう。どうか、その事を、努々お忘れなきよう。今度こそ、必ず無事に、お戻りください」




