83. 青と紫の贈り物
その日から、日中の散歩が日々の習慣に加わった。それと共に、主の一日の過ごし方がある程度決まってくるようになった。
朝目覚め、ぼんやりしている間に汐がお茶を淹れ、主に飲ませる。落ち着いた頃、椿が呼ばれて主に語りかけ、しばらくすると巽と交代する。主の手を握る役は、相変わらず亘。ただ時折、椿や巽が代わってもらうこともあった。最初のうちは、主の拒絶が怖くて恐る恐るその手を握っていたが、今までの亘達の献身のおかげか、目立った混乱は起こらなかった。
そうしている間に楓がやってきて、他愛のない話をしながら陽の気を注いでもらう。主が一番穏やかな表情をしている時間だ。染み入るような故郷の温かさを感じているのだろう。
その後、椿に支えられながら、晦に乗って散歩の為に外に出る。その時間を見計らったように、呼んでもいないのに燐鳳がやってきて合流するのが日課になってしまった。
巽が胃を痛めながら燐鳳を抑える傍らで、主は楓達と共に人界の話を聞きながら自然に触れた。
途中で疲れが出るのか、主がウトウトとし始めるので、部屋に戻って昼寝をする。主の穏やかな眠りを妨げないよう、その時間は晦と朔に犬の姿で寄り添ってもらった。
散歩後から奏太の部屋に強硬に居座るようになった燐鳳が、ベッドの上に大型犬が二匹乗ることに酷い嫌悪感を示したが主の心の平穏の為には必要なことだと、巽は必死に説得した。
寝ている間に、主が無意識に晦を抱えるように腕を伸ばしたのを見て、『獣風情が』と燐鳳が殺気立つ場面もあったが、『人界の医療行為』を盾になんとかなだめた。
昼寝から起きると、ぼんやりする主の世話を燐鳳が甲斐甲斐しく焼こうとするのを、巽はヒヤヒヤしながら見守る。絶対に目を離せない時間帯だ。時折、主の首から下がる柊士の御守に忌々しげな目を向けるのが、怖くて仕方がない。
本当に、さっさと妖界に帰ってもらえないだろうか。
夜が近づくと、主の就寝準備を理由に早々に燐鳳を部屋から追い出し、亘と汐との時間を作った。三百年前、主が守り手の仕事を始めた頃の、最初の三人。
巽と椿が奏太に仕える前の昔話を汐が語って聞かせ、亘がその手を握ってあの頃の温かさを思い出させる。
少し寂しいけれど、何より大切な時間だと、巽は思っている。
主が眠ると栞がやってきて、毎日欠かさず夢で記憶の整理を手伝った。
そうやって、規則正しい日々が過ぎていく。
気づけば、罰を求めることも、柊士の名を呼ぶこともほとんどなくなり、瞳の色が黒一色で安定してくるようになっていった。
黒い瞳の安定と共に、少しずつ、少しずつ、視線が合う時間も増えてくる。未だ、会話するには至らない。思い出したようにすすり泣く姿も見られる。けれど、確かに、主がこちら側に戻ってきているのだと、そう感じられた。
「ほら、奏太君。新しい花が増えたんだよ」
楓が指し示す花壇の一角。人界のものによく似た花を、商会の武官と共に晦と朔に買いに行ってもらっていた。庭の手入れをしてくれていた武官に植えてもらおうと思ったが、どうやら楓達が率先して植えてくれていたらしい。
「スミレみたいでかわいいよね。いろんな色が混じってるし」
楓はふふっと楽しそうに笑う。そんな中、一つだけ、植えずに育苗鉢のまま置かれた花があった。青と紫の交じった色の花。朔は、それをおもむろに持ち上げると、奏太の様子を見守っていた亘の腕をグイッと引き、奏太から少し引き離してから手渡した。
「楓様が、護衛役からの贈り物があっても良いだろう、と」
朔はそう小声で短く言うと、トンと亘の背を奏太の方に押し出す。
亘は花を見下ろし、主の顔を見て、一瞬、不安気な顔を浮かべた。
「人界で見る花に似てますし、奏太様、喜んでくれるといいですね」
巽がそう口添えすると、亘はようやく、意を決したように、その花を持って主の方に向かった。
楓と晦がそれに気づいて立ち止まると、主の視線もまた、花を持った亘に向く。
「奏太様、これを」
亘が、奏太の目線に合わせるように屈んで、花をそっと差し出す。けれど、当の主は、亘と差し出された花を見比べるだけで、手を出さない。
亘は少しだけ悲しげに眉尻を下げたあと、奏太の手を取り、鉢をその手に持たせた。
主は、亘に持たされた花を、じっと見下ろす。
「……むかし……」
不意に――、本当に唐突に、奏太から微かな声が聞こえた。
まさか、主からの声が聞けると思わず、皆が目を見開いて奏太を凝視する。
零れ落ちたのは、本当に本当に小さな、けれど、確かに奏太から発せられた言葉。混乱しているでも、罰を求めるでも、柊士を呼ぶでもない、主の意思で発せられた――
周囲がしんと静まり返り、一言一句聞き漏らすまいと、皆が息を潜める。
主の視線は青と紫の花に縫い付けられたまま。
「……むかし……、里の……祭りに……ハクが来た……時……、亘が、選んだ……結ちゃんが……好きだった色の……ヨーヨーを……、渡したことが……あった……。青と……紫……の……」
誰も口を開くことができない中、主の口から、ポツリ、ポツリと、まるで独り言のように、言葉が零れ落ちていく。
それは、遠い昔。人界の日向の里での出来事。ほんの些細な、一緒にいた巽ですら忘れていた思い出。
「……ハクには……俺から……、渡した、けど……、それは、ホントは……亘からの……贈り物、で……結ちゃんを、ハクに……変えなきゃならなかった……詫びと……結ちゃんの頃から……、変わらない……亘の想いが……、詰まってるんだって……、そう……思った……」
途切れ途切れに言いながら、奏太はギュッと、手渡された花を握りしめる。気づけば、その手は微かに震えていた。
「……この……花……、は……」
主の言葉が、そこでプツリと切れる。
続く言葉は、何だったのか。
きっと、紡がれるはずだったのは、この花もそうであってほしいと、そう、願う言葉。
主の身体が、拒絶される恐怖に押しつぶされそうに、硬くなる。
亘も思い出したのだろう。悲痛に顔を歪ませ、一度、キツくその目を閉じた。
ただ、懐かしい思い出を紡ぐだけのこと。けれど、そこに込められた想いは、主にとっても、亘にとっても、ここにいる皆にとっても、何よりも、大事なもの。
――変わらない、想い。
それを、不安と怯えの中で絞り出さなければならない状況にまで主を追い込んでしまったことに、胸が引き裂かれるように痛む。
亘は、鉢を握ったまま震える奏太の手を、大きな両手で包み込んだ。力強く握り締め、奏太の顔を覗き込む。
「変わりません。奏太様。貴方がどうなろうと、何があろうと、私の貴方への忠誠が、変わることはありません。日向奏太様を、御慕いし続ける心は、ずっと、変わりません」
奏太の目が、自分を見つめる亘の瞳の奥の光を捉えたように見えた。しかし、その視線は再び、手元の花に落ちる。花を握る主の指に、白くなるほどの力が加わった。
「……わ……わたり……、」
掠れる声で、主が亘の名を呼んだ。視線は手元に固定されたまま。けれど、確かに。
それは、主が夢に逃げるのではなく、ようやく、現実に根を下ろそうとしている証。
主の唇が、青く震える。
「…………わたり、……俺…………、俺の……、まま……、」
奏太は、そこまで言いかけると、喉を詰まらせた。言っていいのか、そう、迷っているのだろう。
「奏太様」
亘が励ますように、力強く名を呼ぶ。すると、奏太はもう一度、亘のその目を見た。まるで、自分の居場所を確かめるように。自分の言葉が受け入れられると、信じ、縋るように、黒の瞳を頼りなげに揺らして。
「…………俺の……、まま……、存在、してて…………いい……?」
言葉に出してはならないと、けれど、心の底では、誰かに肯定してほしいと――目の前の、三百年を共に歩んだ護衛役にこそ、認めてほしいと、ささやかな、祈りと願いが込められた言葉。
亘は、その言葉を噛み締め、目の前の、いつもよりも小さく見える肩と、二百年越しにようやく投げかけられた助けを求める声と、そして、すぐにでも消えてしまいそうなほどに小さく灯された願いを、丸ごと包み込むように、抱きしめた。
「もちろんです。貴方が、貴方として生きてくださることが、我らの、何よりの望みです。誰が、何と言おうと、貴方は、ここに居ていいのです。周囲にどれほど否定されようとも、神の理に反すると言われようとも、我らが、ずっと、貴方と共に居ります」
奏太の黒い瞳に、見る見る内に涙が溜まって溢れ、ポタリ、ポタリと、亘の肩に温かく落ちる。その手が、ようやく、縋るように亘の背に回され、その服をギュッと握った。
「……うん」
小さな、けれど、確かな答えが亘に返った。




