82. 白日の夢:side.巽
それから更に数日。楓に、毎日少しずつでも良いから奏太へ陽の気を注いでほしいと頼み込んだ。毎日決まった時間に楓がやってきて、陽の気を注ぎながら人界でのことを主に語りかける。晦、朔、栞もまた、そこに混じって思い出話を語った。時に静かに、時に賑やかに。まるで、あの頃に戻ったかのように。
楓達がいない時間には、合間を見て交代しながら、巽や椿も主に語りかける。亘は相変わらず主の手を握り続け、汐が毎晩主が眠りにつくまで寄り添った。眠れば、栞が引き続き主の記憶を整理する夢を見せ、また朝を迎えれば、遠くを眺める主に語りかける。誰もが、自分の睡眠や休息をギリギリまで削ってでも主の事だけを考えて日々を過ごした。
どれに、どれほどの効果があったのかはわからない。けれど少しずつ、主が柊士の名を呼んで泣く回数も、罰を求めて混乱状態に陥る回数も、減ってきていると聞いた。
そんなある日。
「よし、明日、お散歩に行こう。奏太君!」
「……はい?」
突然、決意したように声を上げた楓に、巽はポカンと間抜けな声を漏らした。
「お散歩です、巽さん。こんな部屋に閉じこもっていたら、息が詰まっちゃいます」
楓は室内を見回しながら言う。豪華な調度品、燐鳳によって増やされた護衛の武官達、何より、窓にはめられた美麗だが閉塞感の漂う格子。
「奏太君、ずっと、窓の外、見てるじゃないですか」
「それは……そうですが……」
楓の言わんとすることはわかる。が、外に出す危険は、何よりも避ける必要がある。部屋の中から動かなければ護れたものをと、後から後悔しても遅い。
「奏太様を今外にお連れするのは……」
「庭だけでもダメですか? 結界があるんですよね?」
「ええ、そうではあるのですが……」
巽は困った顔で栞と晦と朔を見る。しかし、三名が楓を窘める様子はない。
「外の空気、少し吸った方がいいです。緑や花に触れるのだって、大事ですよ。心が弱っている時は特に」
「しかし……奏太様も、今、御自分で動くのは……」
ここ数日、主はベッドから全く動いていない。そもそも、動く意思がないのだ。この状態で、散歩になど行ける気がしない。
しかし楓は、うーん、と少しだけ考える素振りを見せた後、晦と朔を見た。
「奏太君が動けないなら、晦か朔に運んでもらいましょう。大きな犬の背に乗っていろいろ見て回るのがいいと思います」
「あの、楓様。奏太様を外にお連れするのは賛成ですが、何も、犬の姿でなくとも……抱きかかえてお運びしますので……」
晦が戸惑い混じりに言う。しかし、楓はフルフルと首を横に振った。
「それじゃダメだよ。心を癒すには、温かさとふもふって相場は決まってるの。もふもふは、正義だよ! 奏太君には癒しが必要なんだから」
「……もふもふ、ですか……」
朔もまた、眉尻を下げる。守り手様の勢いに押され気味な二人の様子は、身体が大きくなっても変わらない。
「あの、楓様……奏太様が二人の背に乗っていられるとも思えないんですが……」
こちらの声が聞こえているかどうかもわからない主の様子を見ながら巽は言う。掴まる意思さえ示さず落ちるのではという懸念しかない。
「なら、私が一緒に乗って支えましょうか?」
「その細腕で、ですか?」
いくら奏太が華奢な方とはいえ、主を乗せて空を飛べるほど力がある椿と違い、楓は普通の少女だ。落ちかけた主を支えようとして二人揃って落下するのが目に見える。
「じゃあ、真尋に支えてもらいましょう。奏太君の力になりたがってたから、丁度いいです」
「……え?」
「ダメですか?」
「ダメっていうか……」
真尋は、きちんと謝罪したとは言え、一度不用意な発言で主の心を壊しかけている。巽達にとって、良い印象はあまりない。万が一、真尋と奏太が大型犬の上で揺られてる姿を燐鳳に見られでもしたら、今度こそ殺されるのではなかろうか。
巽は晦に目を向ける。
「ねえ、晦。一応聞くけど、亘さんを乗せるのは……」
「冗談だろ」
「だよね」
晦と朔は、亘の武術の教え子なのだが、二人の亘への印象はあまりよくない。かつて二人の妹が亘に熱を上げていた事への嫉妬や、兄が亘と共に暴れたせいで里の重鎮に叱られるようなことが日常茶飯時であったこと、そして幼い頃から亘に揶揄われ続けた事などが要因だ。仲が悪いわけではないが、何かと反発しやすい。
「じゃあ、椿ならどう?」
「まあ、それなら」
巽の問いに晦がそう返事をすると、楓は、「そうだ」とパチンと手を叩いた。
「せっかくだから、お菓子も持っていきましょう。甘い物も正義。外で食べたら、きっと気分転換になります」
楓はニコリと笑う。燐鳳と違って圧があるわけでもないのに、その純粋な笑みには有無を言わさぬ力がある。
「……この強引さ、どこかで……」
何だか既視感を覚えて巽が呟くと、栞はふふっと笑った。
「結様にそっくりでしょ?」
「あぁ……」
思わず、納得の声が出た。
結、つまり、先帝白月に、確かによく似ている。
亘を見ると、否定もできず、何とも言えない顔で主と楓を見ていた。結の元護衛役からも、楓の様子に結の面影が見えたのかもしれない。
楓はもう一度、奏太の手を取りギュッと握りしめて、その手に白の陽の気を込めた。
そして、奏太と視線が合うように姿勢を変えてその瞳を覗き込む。まだ金の残る、けれど、この数日でほとんどが黒に変わった瞳を。
「奏太君、外に行こう」
迷いのない力強い楓の瞳は、奏太本来の色と同じもの。宿る光は、結や柊士の、そして、かつての主とよく似た、日向の者の目。
主の視線が、一瞬だけ、楓を捉えたように見えた。
翌日。巽は、エントランスの一角で胃のあたりをスッと押さえた。
目の前に立ちはだかる燐鳳が、扇を口元に当てて冷ややかに、お散歩に繰り出そうとする一行を見やる。
「巽殿。私が奏太様にお会いするのをあれ程止めていたというのに、随分と楽しそうですね」
中央にいるのは、人二人が乗れるほど大きくなった灰色犬の背に、椿に支えられ、されるがまま乗る主。随分シュールな絵面になったとは思うが、問題はそこではない。
「……その……、日向の守り手様が、奏太様も外の空気を吸った方が気分転換になるのでは、と……仰るので……」
主の部屋の窓を、嵌め殺しの格子で開けられぬ状態にした男に、巽は視線を逸らしながら言う。
「あの方の側近である私よりも先に、人界の者たちを?」
「ち、治療のために、どうしても必要でして……」
「治療、ですか」
燐鳳は胡乱な目で巽を見据えている。
「よ、陽の気であの方を癒していただいたのです! 立派な医療行為ですから!」
「医療行為、ね。では、あれは?」
燐鳳は扇をクッと動かして、大型犬を指し示した。
「……あ、あれも、医療行為……です……」
「ほう?」
ダラダラと、冷や汗が流れる。
「それに、あの方を護る為に私が巻いて差し上げた手の絹布――」
「り、燐鳳殿! それだけは禁句です!!」
巽はなりふり構わず、燐鳳の口元を、翳された扇ごとバシッと押さえた。
燐鳳の射殺さんばかりの視線が突き刺さり、巽は「あ、」と口元を引き攣らせて、恐る恐る引き下がる。
「……巽殿?」
「ああ、あの、その、これは……」
燐鳳の視線に耐えきれなくなったところで、楓が巽の前に一歩出た。
「部屋に閉じこもって鬱々していたら、治るものも治りません。燐鳳さんも、一緒にいかがですか? お散歩」
「ちょ、楓様!」
この状態の燐鳳相手にその勇気は称賛するが、まさか燐鳳を誘うと思わず、巽は目を見開いた。楓の手はキツく握られ、少し強張った顔をしているので、無茶なことをしている自覚はあるのだろうが……
燐鳳は、検分するように楓を見下ろし、目を細める。
「一緒に、ですか」
「はい!」
楓が応えると、燐鳳はパチンと大きな音を立てて扇を閉じた。それから、凍りつくような笑みを浮かべて扇の先を晦に向ける。
「良いでしょう。ただし、主上を、あれから降ろしていただけませんか? 楓様。高貴な御方が乗るようなものではありません」
威圧感にたじろぐように、楓がジリっと足を半歩下げた。しかし、その瞳は強く燐鳳を見返している。
「だ、ダメです。奏太君には、癒しが必要なんです。アニマルセラピーだって、意味があることかも知れないんです」
「奏太『君』、ですか?」
(あぁ、これはダメだ)
巽は心の中で呟いた。慌てて楓を背に庇うように、楓と燐鳳の間に滑り込む。
意思の強い日向の守り手と、主上に絶対の忠誠を誓う四貴族家は、同じ目的があり協力姿勢にある時にはこれ以上なく強い。しかし一度対立すると、徹底的に反発し合う。どちらも絶対に引かないからだ。
「燐鳳殿、少し様子をみましょう! 人界生まれ人界育ちの奏太様のことは、人界のやり方と感性が合うかもしれません。楓様がこちらにいる間しか試せないんです。やれることは、全部試してみましょう。ねっ!」
燐鳳はまくし立てる巽を冷たく見据える。
「燐鳳殿も、奏太様の笑顔、早く見たいでしょう!?」
巽が言い募ると、燐鳳は主の顔に目を向けた。
本来であれば、楽しそうにしているか、呆れて困り果てた顔をしていてもおかしくない状況。それなのに、今の主は、ぼんやりとした無表情で視線を落としたまま。
燐鳳の目に、不安と悲痛の色が滲んだ。
「……本当に、意味があるのでしょうね?」
「意味があるかどうかは、試してみないと何とも……ただ、人界には、心を病んでしまった者に対してそういう手法があるというのは聞いたことがあります。あの方の御心は、まだ人のままです。このまま、繋ぎ止めたいんです」
巽の言葉を吟味するような顔をしたあと、燐鳳はふっと目を伏せた。
「……わかりました。しばらく、様子を見ましょう」
風が頬を撫で、土と草の匂いの中に仄かに花の甘い香が混じる屋敷の庭園。
晦の上に乗る主に青い蝶の汐がとまり、黄色の蝶の栞が周囲をヒラヒラと飛ぶ。それを楓と燐鳳が挟み、亘と朔が直ぐ側で護る。
巽はキリキリ痛む胃を擦りながら、燐鳳が何かを起こした時にすぐに抑えられる位置について歩いた。
庭のあちこちには、これでもかというくらい武官達が配置されている厳戒態勢だ。
時折、晦が足を止めてクンクンと花の香りを嗅ぎながら、奏太を花に近づける。
「奏太様、この花は良い香りがしますよ」
「鬼界の花って見たことがないのが多いけど、ほら、これ、人界に咲いてるのに似てる。見て、奏太君」
楓も、奏太に呼びかけるようにこまめに声をかけていく。けれど、主はそちらを見向きもしない。
それでも、人界勢は諦めない。
「これは、チューリップに似てるね。少し小さいけど。巽さん、これ、一つだけ摘んでも良いですか?」
「え、えぇ、もちろん……」
楓が手に取ったのは、真っ赤なカップ型の花。それを手折ると、そっと主の前に差し出した。
目の前に赤が突然現れたからか、ずっとぼんやりしていた主の視線が花に向く。
「保育園とか小学校では定番だよね。ふふ、懐かしい。奏太君の時は、どうだったんだろう?」
「……同じだったと、思いますよ」
汐が、そう答えた。
「昔、結様が、里の子ども達が集まる場所に植えていました。『いろんな色があって、楽しいでしょ?』と仰って。亘も覚えているでしょう? 『さいた、さいた』と鼻歌を歌ってらして」
「……あぁ」
亘も、低く答える。
「その歌も、一緒だね」
楓はそう言いながら、歌を小さく口ずさむ。「さいた、さいた、チューリップのはなが」と。
それから、そっと奏太の手を取り、そこに赤い花を握らせた。
主はその花を、じっと見下ろす。楓はその様子に優しげに目を細めた。
「子どものころ、保育園の園庭に咲いてて、母さんに手を引かれながら見たのを思い出すな。小学校の花壇にも咲いてて、友達と水やり係をしたの。奏太君にも、もしかしたら、似たような思い出があるかもしれないね」
ただの人として過ごした幼い頃の記憶。家族や友人との、何気ない、けれど、今思えば美しいほどの日常。鮮やかな赤から目を離さない主にも、思い当たるものがあったのかもしれない。
しばらくそうやって、いろいろな花や草木を見ながら庭を巡る。商会の見栄えを良くするために、広い庭の手入れを常にしておいてもらって良かったと、巽は思う。
大きな木の下まで行くと、楓がバサリとシートを広げ、その上にバスケットを置いた。今朝、巽が用意したものだ。
晦から椿が奏太を降ろし、シートの上に座らせると、楓もその隣にストンと腰を下ろした。
ピクリと動いて楓を窘めようとした燐鳳の腕を、巽は咄嗟に掴んで引き止める。ジロッと睨まれたが、巽は必死に首を横に振った。
「今、いいところなんです。奏太様に、良い変化がちょっとずつ見えてきてるじゃないですか。もう少し堪えて様子を見ていてください」
小声で巽が燐鳳を引き止めているのを他所に、楓はバスケットからクッキーを取り出した。朝、汐が淹れていたお茶も。
カップにお茶が注がれ、クッキーが目の前に広げられる。けれど、主が手に取る様子はない。
「奏太様、少し、お飲みになりませんか?」
少女の姿に変わった汐が、その手にカップを持たせる。けれど、やはり口に付けようとはしなかった。
まだ、もう少し。少しずつよくなっている傾向はあるけれど、そんなにすぐに回復するものでもない。
ただ、風が吹く穏やかな時間を過ごすだけでも十分だろう。
犬の姿のままの晦が奏太の側に寄り添い、他愛のない話や人界の話が語られる。緑の木の下。楓や、栞、汐、晦、朔、椿。亘は黙って主を護るだけだが、それでも、主を囲むその光景は、まるで人界にいた頃のようで、何だか胸が熱くなってくる。
庭先の、懐かしく、優しいピクニック。
不意に、パタパタ尻尾を動かし奏太に身体を寄せる晦に、主がポフッと静かに身体と頭を預けた。
その様子に、皆が目を瞬く。
「……奏太様?」
晦が、穏やかに声をかけた。しかし、返事はない。
久しぶりの外に疲れが出たのだろうか。ふかふかの晦の毛並みに身体を埋めて、主はウトウトし始めた。
「しーっ」
楓がその様子を見ながら、口元に指を立てる。
しばらくすると、すぅ、すぅ、と寝息が聞こえてきた。毛並みの柔らかさに安心したのか、その顔は、いつにも増して穏やかなもの。その手には、先程の赤い花が握られたままになっていた。
美しく、温かな光景。
「……お風邪を召される前に、お部屋にお連れせねばなりませんね」
一歩踏み出しかけた燐鳳の前に、巽はさっと手を上げた。
「もう少しだけ、このまま、寝かしておいて差し上げましょう」
きっと、包み込むような人界の――故郷の匂いと、陽だまりのような温もりを思い出しているはずだから。




