81. 三百年の肯定:side.巽
そこから毎日、奏太が眠っている間は栞が奏太に寄り添って記憶の整理を手伝い、亘が手を握り熱を与え続け、「罰しないのか」と尋ねる主に、根気強く「必要ない」と伝え続ける日が続いた。
状況は一進一退。穏やかに大人しく手を握られ続ける時間もあれば、柊士に縋り名を繰り返すことも、耐えきれなくなったように「罰して」と泣くこともあった。不安定になり亘の手に負えなくなれば、汐が抱きしめて宥め続ける。その間、椿はもどかしそうにしながら護衛に徹し、巽はとにかく燐鳳を押さえる役に徹した。
未だ、日中は柊士の御守りを握りしめ、窓の外を眺め続ける時間も多い。けれど、時折、亘の手を握り返すように指が軽く動くことがあると、巽は聞いた。
亘の気の所為である可能性も高い。けれど、そんな些細な変化でも、前に進んでいるのだと、そう信じずにはいられなかった。
数日経った頃。巽は栞にとある相談を持ちかけられた。
もはや、奏太の部屋の前で仕事をしたほうが都合が良いと、廊下に出した簡易机の上に書類を広げて唸っている最中のことだ。
「……そうまでして、書類仕事が必要なの……?」
栞に呆れたように言われた。
「休業状態でも商会の仕事はあるし、白日、光耀の両教会からの問い合わせも多いんだよ。サイ枢機卿からの執拗な面会依頼とか……。この商会は、奏太様の拠点だから、商会長の僕が、ちゃんと守り抜かなきゃ」
巽はそう言いつつ、ビリっと一枚の手紙を破り捨てる。
「中に亘がいるなら、扉の護りは椿に任せたら?」
「今の亘さんが、護衛の役目に徹することができると思う? かと言って、妖界の武官達じゃ燐鳳殿の勢いを止めきれないし」
巽は自分の直ぐ側で扉の護りをする武官二人を見やったあと、肩を竦めた。
万が一燐鳳が不祥事を起こしたら、秩序の神の眷属の立場で妖界の四貴族家筆頭である柴川に抗議を入れると脅した結果、武官達はある程度は巽の言う事を聞いてくれるようになっている。ただ、圧倒的権力者である雉里家当主の威圧にどこまで耐えられるかは不明だ。
「それで、相談って?」
「楓様が、奏太様にお会いしたいと仰ってるの」
楓は、数日前に目覚めたと聞いた。ただ、身の回りに不自由のないように整えはしたものの、基本的には栞達人界の者に任せきりだった。正直なところ、主の対応に精一杯で、楓達に気を配っている余裕がなかったからだ。
「……燐鳳殿と違って、楓様が、あの方を壊すようなことはないとは思うけど……会ったところで、話もできないのに……」
巽は戸惑い混じりに返す。
「楓様に、奏太様の今の状態をお伝えしたの。最初は、救ってくれた御礼をと仰っていたから、お話は難しいと。ただ、楓様、奏太様に直接御力を注いでいただいた時に、一時的に意識が戻っていたようなのよ。その時に、玄という眷属に虐げられている奏太様の状況を知ってしまったようで……お話しができないのは、それが原因かと、詰められてしまって」
タイミングが悪いというか、何というか。主は、そんな姿、同じ日向の守り手であり、子孫である楓には知られたくなかっただろうに。
「隠し通すこともできなくて、全てをお伝えしたら、ひどく御怒りになって、奏太様の状況を悲しまれてしまって」
何とも、日向の守り手様らしいと、巽は思う。奏太はもちろん、白月も、柊士でさえも、他者のそういう状況を、見過ごすことのできない質だった。
「それで、人界時代の温かさでの癒しが必要なら、陽の気が一番じゃないかって仰ったの。人は、太陽の下に出ると元気になれるからと」
「それはそうかもしれないけど、今、人界にはお連れできないよ。この屋敷の結界の外に出る危険も大きいし、関所は王城の管轄だ。国王であるマソホの立場がわからない以上、あまり近づけたくない」
人界に帰り、日の下に出た時、ほっとしたように表情を緩める主の姿は今までも何度となく見てきた。
けれど、問題はそこに行くまで。
闇の女神が何を仕掛けてくるかがわからない上に、味方であるはずの先代眷属にも警戒が必要だ。
マソホは先代眷属とは違い、直接奏太から力を賜った『日向奏太の眷属』と言えなくもない。けれど、眷属になってからここまでの間、先代眷属と行動を共にしてきている。どこまで、玄の思想を受け継いでいるかがわからない。
「それは、承知の上よ。そうじゃなくて、陽の気を御身体に注いで差し上げたらどうかって。以前、奏太様の御身体が闇に侵食された時に陽の気を注いで差し上げたら、『懐かしい』と仰っていたからと」
「……陽の気、か」
それならば確かに、主を余計な危険に晒さずに、懐かしい故郷の温かさを与えて差し上げられるかもしれない。
「わかった。汐ちゃんにも伝えておいて。あと、できたら燐鳳殿に見つからないようにお連れしてくれる? 人界の小娘が何故自分より先にって、余計な嫉妬を買いかねないから」
「……あの方、妖界に追い返せないの? 数日見てたけど、奏太様の毒にしかならなそうなんだけど……」
「それができたら、とっくにやってるよ……。奏太様至上主義であることは間違いないんだけど……」
巽はそう言いつつ、天井を仰いだ。
夜。陽の気がどう主に影響するのかを見届けたくて、巽も同席させてもらうことにした。扉の守護役は、「奏太様の御側を離れたくないんですけど……」と膨れ面で渋る椿に何とか頼み込んだ。
栞や晦、朔と共に部屋に入ってくると、楓は奏太の様子を見て痛ましそうに表情を歪めた。主は、楓達を見向きもせずに、ただただ窓の格子の隙間から暗い外を見続ける。身動き一つしないその姿は、美しい人形でも見ているような感覚になる。
「場所、代わってもらえますか?」
楓が奏太の手を握り続ける亘に言うと、亘は主の様子を見たあと、離れがたそうにしながら、のそっと重い身体を横に退けた。
楓は亘と場所を代わると、視線の合わない主の顔をじっと見つめる。
「奏太君」
楓の呼びかけに、主が反応することはない。ここ数日、この状態の主には、誰が声をかけても、ずっとそうだった。
楓は諦めずに、もう一度、奏太に呼びかける。
「奏太君……、私、御礼を言いたかったの」
そう言いつつ、楓は、そっと奏太のほうに腕を伸ばし、その手を取って両手で握り込んだ。
「私のこと、二回も助けてくれてありがとう。大変だったよね。……辛かった、よね」
優しく語りかける声。けれど、やはり、主が反応することはない。
「前に、私が陽の気を注いだ時、懐かしいって、言ってくれたでしょ? だから、少しでも御返しができたらって思ったの。人界の陽の気は、奏太君にとって、遠い故郷の思い出だって、栞に教えてもらったんだよ」
近ごろは、主は鬼界や妖界にいる時間の方が多くなっていた。人界での居場所が三百年経って少しずつ失われていく度に、故郷へ足を運ぶ機会が減っていった。けれど、主にとって、今でも人界は、何より大切な場所だ。
「私、奏太君が、御伽噺に出てくる神様だって聞いて、すごく驚いたの。だって、実際に会った奏太君は、優しくて、笑ったり泣いたり、護衛役や案内役に呆れたり、言い合ったりする、普通の守り手の男の子だったから」
楓はふっと柔らかく笑いかける。握られた二人の手を、ふわりと白い陽の気が包み込んだ。
「栞や晦や朔もね、奏太君が人界にいるときは、本当に私達と変わらない人間の男の子だったんだって教えてくれたの。友達と遊びに出たきり連絡がなくて親や従兄を心配させて怒られたり、里で護衛役と口喧嘩したり、ちょっとしたことを揶揄われて照れたり」
感情豊かで、心優しい主。友人と遊び、亘と軽口を叩き合い、巽に無茶振りをし、汐に叱られ、椿に心配される。ごく普通の少年。時に戸惑わされ、時にその心根に救われながら、共に歩んできた。
「『憧れの守り手様なんですよ』って、晦も、朔も、目をキラキラさせて言うの。栞も『立派な守り手様ですよ』って」
日向の里で、主が晦と朔とじゃれ合っていた姿が思い出される。栞は、あの当時は柊士に可愛がられる奏太に嫉妬していなかっただろうか。けれど、それもまた、眩しいほどの思い出の一つ。
まるで人が変わったようになってしまった目の前の主と、あの頃の少年を重ねて、涙が出そうになる。
「大変なことも、いっぱいあったって聞いたよ。私達が想像できないくらいに大きな事件も、いっぱい。ずっと、ずっと、長い間、奏太君が日向の家と里を護ってきてくれたんだって。それだけじゃなくて、人界や妖界や鬼界を飛び回って、たくさんの者達を救ってきたんだって」
三百年。人の生で言えば、普通の三倍以上の月日。主は常に、誰かの為にと戦ってきた。闇祓いや虚鬼への対処だけではない。界を隔てる結界の修復、陰の気に汚染された土地への陽の気の補充、妖界での帝としての責務、人妖鬼各界の調整、それぞれから持ち込まれる問題事の対応。数えればキリがないほど、身を粉にして動いてきた。文句を言いつつも、いつも「大丈夫」と笑って、踏ん張りながら。
「自慢の守り手様だって、三人とも、口を揃えて言うんだよ」
巽にとっても、周囲にいくら自慢しても足りないくらい、大事な、大事な、自慢の主だ。
「三百年間、私達を護り続けてくれて、ありがとう。日向家の守り手として、戦い続けてくれて、ありがとう。奏太君が、奏太君として、頑張り続けてくれたから、私達は、こうして暮らして行けてるんだよ」
主が最も守りたかった、故郷。日向の者達の幸せな暮らし。
楓のその言葉に、長きにわたる主の頑張りが、ようやく認められたような気がして、巽は喉が熱くなるのを感じた。
「私達の為に、頑張ってくれて、ありがとう。……一人で、よく耐えたね。奏太君」
つい先日。奏太が楓を救った時に、主自身が「よく耐えたね。よく頑張った」と、そう楓を抱きしめたのだと、椿が言っていた。けれど、その言葉は、遠い昔、御役目で辛い思いをした主に、柊士が何度となくかけていた言葉だった。
『お前はよく頑張ってる』『よく耐えたな』そう言われて。
奏太は相変わらず、遠く窓の外をみたまま。けれど、たった一粒。涙が頬を伝ったのが見えた。




