79. 悪夢からの覚醒:side.亘
「亘っ!」
ハッと目を覚ました主が真っ先に呼んだのは、亘の名。そのままギュッと亘の服を握り込み、しがみつくように、その体が寄せられた。
「亘、亘……っ!」
「……奏太様」
亘は、口元だけで主の名を呟く。もう一度、主の方から自分に縋ってくれるとは、思いもしなかった。
亘は、震えるその肩を両手で覆う。
「大丈夫です、奏太様。全て、夢です」
「……ゆ……夢……?」
涙を浮かべ亘の無事を確かめるような、金の混じらない、優しい黒の、いつもの瞳。
「私は、大丈夫です」
もう一度繰り返すと、主はほっと息を吐きだした。しかし、その視線が下に向いた瞬間。
「……あっ、」
小さく、主から声が漏れた。
視線の先にあったのは、自分の両手を拘束する白絹。
一瞬で、主の顔色が血の気を無くしていく。
「……お……俺……、……ごめ……、」
その身体がガタガタと震え出し、呼吸が見る見る浅くなる。瞳に涙が浮かび上がり、それとともに、せっかく黒一色になったところから金が侵食し始める。
「……ご……ごめ、なさ……、」
空気を求め喘ぐように、誰にともなく、途切れ途切れに発せられる謝罪。
「ごめん、なさい」
更に、亘から逃れるように、縛られたままの両手でグッと亘の胸のあたりを押し戻そうとし始めた。
先程までの一瞬の正気が嘘のように、主の瞳が黒と金に揺れる。亘は堪らず、押し戻そうとする弱々しい力を無視して、その肩を抱きしめた。
空虚な心から、ようやく戻ってきたのだ。たった一瞬かもしれない機。今度こそ放さず繋ぎ止めなければと、信用を失っていても、今度こそ助けを求める悲鳴を見逃すことなく掬い上げられるようにと、ただ、必死に。
「大丈夫です、奏太様。誰も、責めていません」
「……い……やだ……誰か、俺を、罰し……」
「大丈夫ですから」
「……ごめ……なさ……っ、うぅ……」
主は必死に抵抗し続ける。亘から逃れて楽になりたいと言わんばかりに。
「……うっ……、柊……ちゃん……助け……」
不意に、主の体から力がふっと抜け、体が崩れ落ちる。目覚めたばかりだというのに、まるで回路が焼き切れたように、そのまま意識を失ってしまった。
「奏太様」
そう呼びかけ揺らしても、くたりとしたまま動く様子はない。
「夢と現実の落差に耐えきれなかったのかもしれないわね」
栞が、そう言った。
亘は、主を見下ろす。涙で頬を濡らしたままの顔。あまりに無防備で、今にも消えてしまいそうなその身体を、どうしても放す気にはなれなかった。
汐が主の額に手を伸ばし、そっと触れる。乱れて額にかかった髪を撫でるように避けると、辛そうに眉を震わせた。
「申し訳ありません。奏太様」
その声は、か細く掠れて亘の耳に届く。自分の見せた夢が主を傷つけたのだと、悔やんでいるのだろうか。
そこへ、巽の声が冷たく響いた。
「……もう一度、やろう」
全員の怪訝な視線が巽に集まる。当の巽は、じっと、亘の腕の中の奏太を見つめたまま。
「今、ほんの一瞬だけど、瞳が完全な黒だった。きっと、方向性は間違ってない。何度か試してみる価値はある」
「馬鹿なこと言わないで。刺激が強すぎたのよ。きっと、次は今以上にこの方を壊してしまうわ」
汐は巽を睨みつける。しかし、巽は表情を崩さず、冷徹な目で周囲を見回した。
「今、見えてる手はこれしかない。他にこの方の瞳に黒を取り戻す方法なんて思いつかない。少しの可能性が見えたんだ。多少の痛みは我慢していただこう」
「巽。今、自分が何を言っているか、わかっていますか?」
椿が巽の言葉を遮り、まるで背に護るように主との間に入って、巽の目をじっと見据えた。
「あの時、玄は、奏太様の金の瞳を引き出そうとして執拗にこの方の心を踏み躙ろうとしていました。この方が傷つくことをわかっていて、黒い瞳を取り戻す為に夢と現実の間で心を引き裂こうとするのは、あれと同じ行為です」
「まさか。あんな奴と一緒にしないでよ。僕はただ――」
「傷つけてでも、あの方を変えたい。その思想は同じです。私達がしたいのは、そうじゃないでしょう。この方が傷つかぬよう護り導くのが、『日向奏太様の護衛役・案内役』の御役目です。この方を傷つけ神を望むだけの『秩序の神の眷属』ではなく」
椿の言葉に、巽はグッと悔しそうに口を噤んだ。その目が、悲痛を帯びて主に向く。
「……なら、どうしろって言うんだよ……」
「全てが無駄だったわけじゃないわ。少なくとも、縋るべき道は見えたと思うけど」
栞はそう言いつつ、そっと汐の両肩に、励ますように手を置いた。
「夢の中で汐が受け入れられたのなら、唯一汐だけは、この方の心に触れられるということ。それに――」
今度は、亘にピタリと視線を止める。
「辛くて目を逸らしたいだけで、貴方達が大切であることは、恐らくこの方の中では変わっていないわ。そうでなければ、亘を失う記憶を追体験したところで、あれ程泣いて取り乱したりしないもの」
黒い瞳で縋りつき、自分を見上げて安堵を覗かせた顔。あれは確かに『日向奏太』のものだった。秩序の神の混じらない、純粋に自分達を想う、主のもの。
亘は主を見下ろし、その身体を抱える腕に力を込めた。
「汐をきっかけにして、少しずつ、貴方達の想いを現実世界で理解してもらうしかないわ。夢はあくまで夢。記憶の中の柊士様に逃げ込んだところで、安らぎは得られても、本当の意味での救いはやってこない。主の願いに貴方達が応えて差し上げないと」
栞の言うことは至極正しい。けれど、それが何より難しい。
「……この方の、願い……」
ポツと、巽が呟く。
「御自分が存在することは罪ではないと、信じたい。人として、生きていきたい。貴方達と、これまでと同じように一緒に居たい。柊士様と話すこの方の望みは、そう見えたわ。ただ、現実と真逆の願いだと信じ込んでしまっているせいで、全てを諦めて過去の望みとして語られてしまっていた。でも本来それは、諦めるようなことではないでしょう? この方が、その願いを一番肯定してほしいのは、貴方達よ」
栞は、そう言いつつ、亘、汐、巽、椿に目を向けた。
暗闇の中で、細い糸を掴むような心地になる。
けれど、主の願いに、まだ自分達が含まれているのなら、それは、肯定すべきものというより、主との共通の願いだ。
想いは同じなのだと。もう一度共に歩ませてほしいと。自分達を信じてほしいと。何度でも、泥臭く伝えていくしかないのだろう。
一度失った信頼関係を初めから築き直していくことに、近道などないのだろうから。
栞は黙り込んだ面々に仕方がなさそうな顔をしてから、汐の横から主の手をもう一度握った。
「栞?」
「少し、穏やかな空間で記憶を整理する時間を作って差し上げるだけよ。もう、柊士様は出さないわ。過去から現在までの、記憶の整理。虐げられ否定されるばかりではなかったと、少しでも、この方自身が気付けるように」
問いかける汐に、栞はそう返した。
「……ありがとう、栞ちゃん」
巽もほんの少しだけ表情を緩める。先程までの、張り詰め冷たいばかりの雰囲気が少しだけ冷静さを取り戻したように見えた。
「『日向の守り手様』としての奏太様を支える御役目もそうだけれど、奏太様の御心を守ることは、柊士様の御意志だもの。私は、柊士様の案内役だから。ここにいる間は、いくらでも協力するわ」
栞はそう言いつつ、何かを思い出したように、フッと笑った。
「あ、そうそう、あまりに貴方達が不甲斐なかったら、護衛役を変えてやれって柊士様が仰っていたの。私が護衛役入れ替えの権限を託されてるのよ。せいぜい、解任されないように努力することね。最悪、人界に連れ帰ってしまうわよ」
栞は、そう、いたずらっぽい笑顔で言った。




