77. 現実世界の葛藤:side.巽
「これ以上は無理ね。汐、奏太様を引き戻して」
栞が、握っていた奏太の手を離す。代わりに汐が奏太の手を握るのを見ながら、巽は栞に問いかける。
「無理って? 柊士様の記憶じゃ、癒やしにならなかったってこと?」
「癒やしにはなったわ。確実に。ただ、それが強すぎたの。柊士様への依存と現実への拒絶が大きい。これ以上続けたら、戻って来られなくなるわ。永遠に」
柊士に自身を肯定してもらうことで主の傷が少しでも癒えればと、栞に協力を仰いだ。うまくいけば、目覚めた時に黒の瞳を取り戻しているかもしれないと。
けれど、やはり事前に汐と栞が懸念したとおり、夢の引力が強すぎた、ということらしい。
「僕らの記憶を混ぜることはできた? 幸せな記憶に少しでも僕らの存在が入り込めていれば、現実世界での糸口が見えるんだけど」
巽の言葉に、栞は首を横に振る。
「残念だけど、拒絶が酷くて無理だったわ。唯一、汐が許されただけ」
「汐ちゃんだけ? 何で?」
栞は、その場にいる、巽、亘、椿を見る。
「奏太様は、汐だけが『罪を知っても、自分を罰しなかった』って仰ったわ。貴方達、この方に何をしたの?」
糾弾するような栞の目。亘が、主のベッドの上で両手を強く握り締めたのがわかった。
主の崩壊からここまで、巽は主と自分達の動きを思い返す。けれど、直接の原因となった亘はともかく、自分と椿が拒絶される理由が見当たらない。
「椿、心当たりある?」
椿は巽に問いを向けられ、頬に手を当てて考え込む。
それから、「……もしかして」とポツリと呟いた。
「何か、思い出した?」
巽に促されると、椿は主の手に目を向けた。
「その白絹。燐鳳殿が奏太様の手を縛り上げた時、汐だけがその場にいませんでした。もしかしたら、それが原因かもしれません」
椿の言葉に、巽は血の気が引くような思いがした。
あの時、自傷しようとする主を必死に引き止めた。亘が主の体を押さえ、椿がナイフを持って振り上げられた手を拘束した。巽は、傷つけられそうだった手を守り――罰と称して主を縛る燐鳳に、その手を明け渡した。
「僕ら全員が、罰を与えたように見えたんだ……」
巽は、あまりのショックに両手を目元に当てた。主を守ろうとした行為が、主には、その存在の否定に見えていただなんて。
主が柊士に依存しきって夢から出てこようとしないのも理解できる。現実世界に味方が汐しか居らず、他の全てが罰を与える手に見えるのだから。
絶望的な状況。
これをひっくり返すには、相当な『何か』が必要だ。自分達が、主を否定する存在ではないと、強烈に理解してもらうための『何か』が。
巽は、眠り続ける主に目を向けた。それから、その手を握る汐を。
「……悪夢、か」
巽は、ぼそっと口元だけで呟く。
「巽?」
促すような椿の声に、巽は頭の中にある可能性の断片を素早くまとめる。上手くいくかはわからない。当然、リスクもある。けれど、それだけ思い切ったことをしなければ、主の心は取り戻せないかもしれない。
――試してみる、価値はある。
「汐ちゃん、奏太様に見せる夢、変更できる?」
「まだ、意識に触れ始めたところだから、できるけれど……どうするつもり?」
訝る汐に、巽は真剣な目を向ける。
「奏太様を引き戻す悪夢を利用する。僕らは奏太様を否定して罰を与えたいんじゃなく、護りたいんだってことを、思い出してもらうんだ」
それから、罪悪感に押しつぶされそうになりながら主の側から離れられずにいる亘に、巽はピタリと視線を止めた。
「もう一度、亘さんに命懸けで奏太様を護ってもらうんだよ」




