第一の精霊
涙を地に落とし、逃げ出すようにパンドラはその場を去った。
今更聞きたくもない魔族を生み出す原因となった自らの種族の出自。だが、それも所詮自分よりも下位の存在が口にする戯言だ。そんな風に斜に構えて、発せられる言葉を軽く捉えていた。
嘲りも、挑発も、怒りはするもののまだ許せる。最悪そんな言葉を向けた愚か者をこの世界から存在ごと消してしまおうかとパンドラは考えはしたものの、それでも己が傷つくことはなかった。
だが、自分が闇の精霊だと知ったときの驚愕の色に表情のすべてを染めたカイト。それを見た瞬間、パンドラの胸がギュッときつく締め付けられたような痛みを伴った。
まだほんの僅か。それ夜の限られた時間しか接していない相手が向ける微かな負の感情。それ以上の嫌悪とも呼べる感情を直前までぶつけられていた時には何も感じなかったのに、相手がカイトだと話は変わった。
それは彼に授けられた〝愛し子〟の加護の影響が大きいのだろう。ともすれば、同類である他の精霊たちよりも無条件に親密さをカイトからは感じてしまう。
彼と接するたび、言葉を交わすたび、親愛の情は少しずつ積み重なり好意は増していく。
本当は深入りすることなど望んでいなかった。自分は精霊。彼は人。生まれたときから互いの存在は平等でなく、生きる時間の長さも違う。
どれだけ長く共に過ごせたとしても100年にも満たない時間で別れを迎えることを定められている。だからこそ、僅かな夜の逢瀬だけで満足するようにとパンドラは自分に言い聞かせていた。
でも、自分自身に課したそんな取り決めも一日、また一日と夜を重ねる度に少しずつ緩み、カイトと出会う前は一瞬で年が過ぎるほどの体感がたかだか一日でさえ、永遠にも感じられるほど長く感じてしまうほどになってしまっていた。
だから、彼にバレないよう密かに様子を伺いに来た。姿を隠し、気配を消してこっそりと。木々の隙間から彼の気配を辿って。
そこには一人の少女と共に修行を行うカイトの姿があった。強くなろうと懸命に思考を巡らせ、身体を動かすカイト。ああ、その姿を見るだけでパンドラの胸中に暖かな感情が生まれた。これまで感じたことのない不思議な感覚が。
だが、そんなカイトと対峙する少女からは吐き気を催すほどの醜悪な臭いがした。今すぐにでも鼻を切り落としてしまいたいほどの耐え難い臭気。関わる者を絶望と不幸へと導くことを予感させる〝悪〟の気配を感じさせる少女。
出来損ないと出来損ないを掛けて出来上がったツギハギだらけの存在であり下等な種族。拒絶するという選択肢しがないそんな存在が、醜い笑顔を浮かべて〝愛し子〟に触れる。劣情と、快楽を伴ったいやらしい手つきで未だ穢れを知らない無垢な彼を犯していく。
(気持ち悪い。気持ち悪い、気持ち悪い)
瞬間、制御しきれない怒りがパンドラの心の奥底から湧きあがった。自身から見て穢れた存在が自分たちにとって親しみを感じる相手を汚していく。ベタベタと無遠慮に。
まるでこいつは自分のものだとでも言うように舌を這わせ、唾を滴らせてマーキングをする。
触るな! と心が慟哭する。気がつけば自身に課していた枷も隠していた気配も何もかもを投げ捨て怒りの言葉と共に彼らの前に姿を現していた。
その子は自分たち精霊が慈しみ、育て、導くべき〝愛し子〟だ! そう主張するように言葉をぶつけた。
しかし結局それは悪手でしかなかった。言葉の刃を切り交した結果はパンドラが一方的に心に深手を負うだけでしかなかった。
イヴの主張はどれも的を得ており、カイトと自分は何の関係性も持っていなかったのだから。
彼を〝悪〟から守りたくて意気揚々と姿を現した自分はなんてことはない。ただの道化でしかなかった。
彼にとって自分は仇である魔族を生み出した闇の精霊。実際は同じ種族というだけではあっても、それはカイトにしてみればなんの関係もないのだろう。
自らでさえ、カイトという存在がいなければ絶対に関わろうとしない唾棄すべき〝悪〟の存在。そんな存在に隷属の契約を結んでまで力をつけるために教えを乞うているのだ。
それだけで彼がどれほどの憎しみを心の内に溜め込んでいるのか判ってしまった。掛けるべき言葉など見つからない。
「……ごめんなさい」
萎えた心がようやく搾り出せたのはそんな言葉でしかなかった。自分が今この場にいるのさえ耐え難いほど恥ずかしく、知らぬうちに流れた涙と共にその場を去るしかなかった。
森を駆け、泉へ向かう。短いながらも彼と夜を過ごした心が安らぐ場所へと。
「……私、なにやっているんだろう」
泉の浅瀬に腰を下ろし、蹲りながらパンドラは弱々しく言葉を吐き出した。小鳥の囀りも、森に住まう動物や魔物も今の彼女に遠慮しているのか息遣いさえ聞こえない。
膝を抱え、まるでか弱い乙女のように項垂れる。それは人々から崇められる精霊とはとても思えない姿だった。
まるで人間だ。今の自分の様子を客観視したパンドラは自虐する。弱々しく、触れれば壊れてしまうほど脆い存在。そんなものに今の自分は成り下がっている。
ポロポロとパンドラの瞳から涙が零れた。
こんな短い月日を彼と過ごしただけでこんなにも自分は弱くなってしまった。生まれたときからこの森に住み、瞬きをするだけで過ぎ去っていく月日に対し何も感じることなどなかった。時折流れてくる他の精霊たちから語られる現世の事象だけが偶の楽しみ。
その存在も、理もこの世界における上位存在として正しく、あるべき日々を過ごしていたはずなのに、ほんの少しの人との触れ合いでまるで人間のようと感じる程度には堕落してしまった。
「――ラ」
けれど、これでよかったのかもしれないとパンドラは思う。あのまま彼、カイトと共に過ごしてしまえば自分はどこまでも、どこまでも堕ちて行き、やがては下位存在である人のように成り下がっていただろうから。
「――ドラ!」
運命という名の分岐点があるとするのならばきっと今この瞬間。だから、選択を間違えてはいけない。
「パンドラ!」
徐々に大きくなる自らの名を呼ぶ声に反応など決してしてはいけない。このまま存在を消し、もう二度と彼と関わらないようにしなければ。
さもなければ……。
「パンドラッ!」
声と共に手が触れた。まだ小さく、幼い少年の手が。
「カイト……」
顔を上げると息を切らし、苦しそうに表情を歪めるカイトの姿があった。ここまで必死になって走ってきたのだろうということが一目見て分かる。
その姿を見てパンドラの胸の内いっぱいに歓喜の感情が溢れ出た。
(ああ、駄目だ。これは駄目)
先ほどまでの悲しみも、苦しみも今の彼の姿をみて一瞬で吹き飛んでしまった。これが加護による影響など百も承知。そうだとしても、喜ぶ心を抑えられない。
一度味わってしまえば逃れることなど二度とできない。まるで麻薬のような感情が次々に彼女の全身を満たしていく。
離れたくない、離したくない。ずっとずっと傍にいてほしい。たとえ他の何を犠牲にしたとしても。そんな思いがパンドラの心を占めていく。
そうだ、この時を迎えるためにきっと自分は生まれてきたのだ。だが、まだ足りない。最後の一歩を踏み出すためには。
「カイト、どうして私のことを追いかけてくれたの?」
「どうしてって……」
「聞いたでしょ? 私は〝闇〟の精霊。カイトが仇としている魔族を生み出した種族なの」
「うん……そうだね」
「だったらどうして!」
カイトへ問いかければ問いかけるだけ先ほどまで喜びに溢れていた気持ちが萎んでいくのをパンドラは感じていた。
「俺はさ、力が欲しいんだ」
「えっ?」
「適正があるくせに魔術は使えないし、毎日毎日イヴに修行をつけてもらっているのに一向に強くなっている実感がわかない。
いつもイヴから言われてるようにたぶん戦うための才能がないんだ、俺は。
そして、俺はそんな自分が嫌いだ。弱くって、惨めで、なんの力もなくて。何一つ大切なものを守ることができない自分が嫌いだ」
心の底からの本心なのだろう。そう語るカイトの表情は苦々しいものだった。
「でも、俺は強くならなくちゃいけない。力をつけなくちゃいけない。魔族を、〝魔王〟を倒さないといけない。
それは俺の義務だ。何の力もないくせにむざむざ生き残ることになった、俺に課せられた使命なんだ!
だけど、このままじゃいつまで経っても俺は強くなれない。だから、俺は強くなるためなら手段を選ばない。いや、選んでる余裕なんてない。
みっともなくたって、身勝手だって罵られてもいい。俺は力が欲しい。だから、たとえ魔族を生み出した闇の精霊だとしても、君が力を貸してくれるためならなんだってする。
打算なんだ……パンドラを追いかけたのも。幻滅してくれていい」
繋いだ手を震わせながらカイトはそう語る。そんな彼を見てパンドラは安堵した。
(……嘘が苦手な子ね。きっと必死になって建前を取り繕ってる)
カイトは気づいていないが彼と触れたパンドラには彼が今感じている感情の波を読み取ることができていた。
(打算なのも、力を求めているのもホント。でも、それはあくまでも本心の内の一部。だって、彼からはこんなにも私を心配してくれる想いが溢れてくるもの)
どれだけ憎しみや怒りに覆われていても性根まではそう簡単に変えることなどできはしない。お人よしで優しいカイトは結局のところ理由をつけて彼女の心配をしているだけだった。
たとえそれがほんの少ししか関わりを持っていない相手だとしても。
(守らなきゃ)
そんな彼の本心に触れたパンドラは決意する。
(私がカイトを守ってあげないと。きっといつかこの子は壊れてしまう)
彼が目指す先は険しく、破滅に最も近いであろう場所だ。進めば進むほど心は磨耗し、やがて擦り切れてしまうであろうことは想像に難くない。
長い時の果てにようやく生まれた〝愛し子〟。世界から祝福されるべき存在。彼を失ってしまえば、きっと自分は慟哭の末、この世界を憎むだろう。
彼に降り注ぐ悪意や脅威。その全てを己が取り除こう。そう、きっとそのためだけに自分はこの世界に生まれてきたのだ。
決意と覚悟は定まった。最後の一歩を踏み出したパンドラはカイトと繋いだ手をギュッと力強く握り締める。
「それでもいいわ」
「えっ?」
「幻滅なんてしない。打算だとしても、カイトはこうして私の元に来てくれた。隷属の契約をしているのにも関わらず、あいつよりも私を選んでくれた。
それが、私にとっては堪らないくらい嬉しいの。ええ、そう。この喜びを表す言葉を私は知らないわ」
そうだ、カイトはここに来ないという選択肢もあった。きっとイヴには止められたはず。にも関わらず自分の元に駆けつけてくれた。それはつまり、他の何よりも自分を必要としてくれたということに他ならない。
(ああ、カイト。カイト! 可愛い、可愛い私たちの〝愛し子〟。あなたと出会うために私は生まれた。
なら、私がやるべきことはただ一つ。彼の為の力になる。
たとえ〝他の何を犠牲にしても〟)
「カイトはこんな私でも求めてくれる?」
「……うん」
「憎い魔族を生み出した闇の精霊の種族でも?」
「そうだ!」
「そう……なら、私はあなたのために力を貸すわ。これは契約ね。期間はそう……死が二人を別つまででどうかしら?」
「ああ、願ってもないよ」
「そう……なら、契約は成立ね」
二人が言葉を交し終えた途端、目も眩むほど眩い光が繋いだ手と手から溢れだす。触れた掌から互いの魔力が行き来する。流れた魔力は両者の体内を一瞬で流れて、混ざり合う。
溢れ出る光はやがてカイトの手の甲に収束していった。そして、光が消え去った後に残されていたのは契約の証である魔紋。
「改めまして、私はパンドラ。この世界の上位存在であり、〝闇〟を司る精霊。今この瞬間からカイト、私の力はあなたのためだけに使うわ。ありとあらゆる脅威からきっとあなたを守ってあげる」
思わず目を奪われてしまうほど魅力的な笑みと共にパンドラは契約締結の言葉をカイトに告げる。そんな彼女に、カイトもまた言葉を返す。
「ありがとうパンドラ。力もなくて、弱い俺だけど契約を結んでくれたことを後悔しないように頑張るよ」
「ええ、期待しているわ。でも、まず初めに私と契約を結んで何ができるようになったのかを手っ取り早く理解してもらおうかしら。
カイト、悪いんだけど一度魔力を掌に集めてみてくれない?」
「いいけど、さっきも言ったとおり俺は魔術が……」
「使えないっていうんでしょ? いいから、いいから」
「わかったよ」
パンドラの言葉に困惑しながらもカイトは促されるままに手に魔力を集めた。
「いいわ。じゃあ、次にそうね……目の前にある泉に向かってこう唱えてみて。グラビドと。
イメージはそうね、何か重いもので押し潰されるような感じを想像しながら唱えてくれればいいわ」
「う、う~ん。なんだか曖昧だな。でも、わかった。とりあえず唱えてみるよ。どうせ失敗すると思うけど失敗しても笑わないでくれよ」
「ええ、絶対に笑ったりなんてしないわ」
カイトは一度深く息を吸い込み、集中する。手にはもう充分すぎるくら魔力は集まっている。パンドラか告げられたイメージ。巨大な力が泉へと圧し掛かる。そんなイメージと共に言葉を紡ぐ。
「グラビド」
瞬間、轟音と共に泉に溜まった水が豪快な飛沫を上げて飛び散った。溜まっていた水は半分以上が周囲へと弾け飛んだ。
予想だにしない光景を目の当たりにし、カイトは呆然とする。そんな彼を見たパンドラは心底嬉しそうな様子と共に、
「ほら、大丈夫だったでしょ? カイト、あなたは自分が魔術が使えないって思っていたかもしれないけれど、それは間違い。
それも当然。だって、人間が使う魔術なんて元を辿れば私たち精霊が使っている魔術の下位互換なんだもの。私たちにとっての〝愛し子〟が望んでくれれば使うことができる強大な力をわざわざ無視して下位互換である魔術を使うことを私も含めて精霊たちは認めないわ。
あなたは魔術を使えないんじゃない。使わせてもらえなかっただけ。あなたが望めば精霊たちは今すぐにでも応えてくれるわ」
いつの間にかカイトの目の前に立つパンドラを中心とし、下位の精霊であろう無数の光の玉がカイトの周囲に広がっていた。その光景を見てカイトは身震いする。それは自分が強くなるための道標が明確に彼の前に示されたからだった。
「カイト、私たちの〝愛し子〟。あなたが望み、求める限り私たちはどこまでもあなたの力になるわ」
繋いだ手を今一度ギュッと強く握り締め、パンドラはカイトに微笑む。こうして精霊士としての天職を授かったカイトに最初のパートナーである精霊との契約は交された。
やがて訪れる戦いの日々。その時に必要となる望むべき力。それをカイトは手に入れたのであった。




