幸せでしたよ
十二月の満月も綺麗に輝いている。
寒空に澄み渡る空気が、より輝きを増してるような気がした。
宗馬は仕事からの帰り道、空を見ながら思い出していた。
忘れていた子供の頃にあった出会いと別れ。
今になればそんな事と思うかもしれないが、当時の自分の心を塞ぐのは十分な出来事だった。
「今日は満月、黒一は来る」
そう呟いて家路を急いだ。
帰宅して待ち人を待つ。
程なくインターホンが鳴る。
ピンポン
モニター見ずとも誰かはわかる。
ドアを開ければ予想通りの女が居る。
変わらない黒髪、薄紫の和柄の和装、微かな微笑みを見せる口元、吸い込まれそうな瞳。
「黒一…」
「恩返しに参りました」
もう慣れたように一言残して部屋へ入っていく。
部屋に入ってソファに横並びに座る。
特になんとことない空間だが、黒一は微笑みを崩さない。
本当に綺麗な顔をしている。
「俺は…」
言葉を紡ごうとした時、唇を指先で塞がれた。
いつのまに側まで来ていたのだろう、いつもの甘い香りにも気付けなかった。
「宗馬様…言いたい事はあるでしょう、ただ私から言わせてください」
ぷにぷにと唇を押されながら黒一は笑みを強めた。
「私は幸せでしたよ」
これまでの抑えた微笑みではなく、笑顔に近い顔で真っ直ぐ見つめてくる。
黒一は自分が思い出した事を知っているのだろう。
「…クロ」
自然とそう呼んでいた。
そして、クロと呼ばれた黒一の目から涙が一筋流れた。
「ありがとうございます、また呼んでくれて」
そのまま黒一は身体に抱きつき倒れ込む。
「宗馬様…」
「クロ…」
子供の頃死に別れた愛猫を、あの時の続きのように愛でる。
黒一もクロに戻り全身で甘えてくる。
お互いに喋らず、撫でて撫でさせてでしばらくは動かなかった。
どれぐらい経ったかはわからないが離れた二人は見つめ合い、宗馬が口を開いた。
「……あの時、救ってやれなかった」
「いいえ、あの時確かに私は救われたのです」
宗馬を否定した黒一は続けた。
「野良猫の身でありながら献身的に尽くしてくれた少年の下で、最期の安らぎを確かにくれたのです、寂しさはありませんでした」
黒一はゆっくり頭を下げ微笑みを見せた。
「それでも……俺は子供すぎた」
「その優しさがトラウマとなり記憶を封じてしまったのです、ですがそのおかげで恩返しに来られたのです」
「そのおかげで……?」
「うふふ、これからは気兼ねなく恩返しができる事を嬉しゅうございます」
「何を…」
突然目の前が覆われた。
パッと飛びかかる黒一が見えたので、抱きしめられてるのだろう。
優しく柔らかく甘い香りに包まれている。
「…少し謎は残りますが、時間の問題です」
黒一に包まれながらそう聞こえ、視界が開けたと思った瞬間だった。
チュッ
唇に重ねられた黒一の唇に反応が出来ず、黒一の顔を見る。
「今はまだ、癒しをお受け下さいませ」
また顔が柔らかく包まれて宗馬の意識は遠くなっていった……
朝、目覚めた時はいつものように誰もおらず、僅かな甘い香りだけが残っている気がした。
昨夜に宗馬は思い出せた全てを黒一に知らせ、黒一は涙を流した。
あれが悲しみの涙で無いのはわかる。
これまで何度も恩返しに来てくれた女性は、救った本人が蓋をしていた子供時代の出来事から姿を変えてやってきた。
どのようにしてそんな事が出来たのかはわからない、だが間違いなく黒一……クロは存在をしていて満月の夜に姿を見せる。
恩返しと称して癒しを与えてくれる。
その癒しも実際には何をされているかわからない。
わかった事、わからない事はあれど宗馬はただ幸せに感じていた。
「恩返しなんてされる器じゃ無いよ俺は、忘れてた薄情な奴だってのに…なあクロ」
(少し謎は残りますが、時間の問題です)
ふと昨夜の会話で黒一として言われた事を思い出す。
時間の問題、どういう事だろうか?
意味を考えれば、これから知る場面が訪れるという事か?それとも来月の満月の夜に明かしてくれるのか?
「…焦っても仕方ない」
大きな謎は解けたのだ。
満月の夜に来るのは黒一、何かしらあって姿を変えた幼少期に看取った黒い子猫だったクロ。
それをショックから記憶を封印していた自分が、三十年以上経ち思い出しただけ。
会いに来てくれた、癒しで恩返しされた、それで充分だった。
宗馬は何かに深く関わる事を避けて生きていた、それはクロとの別れから生まれた感情に起因するのだろう。
事実深い仲の友達と呼べる存在は作ろうとしなかった、崩れる時が怖かったのだ。
我ながら子供だと振り返った。
だが、黒一が来てくれて時間が動き出したような気がする。
止まっていた時間の中で、もっと上手く立ち回れていたらこんな疲れたオジサンとならなかっただろうに。
宗馬は思わず笑ってしまった、それ程にあの時の自分は弱かったんだなと。
そして、気付いた。
あのクロの件から人や物を見る癖が付いた事に。
見てどうにかなるような簡単な事では無い、ましてや人間関係等。
それでも恐怖心から見る事はやめられず、断りきれない性分か背負って生き続けた人生。
もしかしたらクロは、黒一となって「良い加減にしろ」と叱りに来てくれたのかも知れない。
愛情を注いだら化けて出る。
そんな御伽話があった気はする。
宗馬は化ける程に覚えててくれたクロに、胸を張らなきゃなと気合いを入れた。




