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玉蘭花伝  作者: いろは
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23/29

暁に咲く 一

 深更に出発した一団を見送ったのち、文昌はいくつかの用事をすませ、そのまま眠らずに明け方を迎えた。


 重い身体と冴えた頭をかかえて城壁の上へ出ると、ひやりとした風が顔をなでた。ふり仰いだ空はいまだ暗い。東の地平近くでは、痩せた月が弱々しい光を放っていた。


 見張りの兵がこちらに気づいて姿勢をただす。それに目顔で応じつつ、文昌はあたりを見わたした。


 探しものはすぐに見つかった。城壁上に設けられた物見の望楼に、ずんぐりとした人影がある。もうひとつあるはずの華奢な影は、大柄なその男の背に隠れているのだろう。


 梯子をつたって望楼にのぼると、蘇丁がうやうやしく、そしていつものように無言で迎えてくれた。その横で柵にもたれていた少年は一瞬だけ視線をよこし、すぐにふいと目をそらした。


「夜どおしここに?」


 尋ねると、子怜は黙ってうなずいた。


「それは大変だったな」


 蘇丁が、と文昌が口の中でつぶやくと、寡黙な護衛役はゆるく首をふった。自分は大丈夫だと言うように。


「しばらく休むといい。ここはわたしが代わろう」


 蘇丁は遠慮するようなそぶりを見せたが、文昌がかさねてうながすと、一礼して梯子を降りていった。


 ふたりきりになったところで、文昌は子怜の隣に立ち、眼下に流れる璃江を眺めやった。


「きみが来てから、伯英どのは少し変わったようだ」


 返ってきたのは沈黙だった。もとより返事は期待していない。文昌はかまわずつづけた。


「わたしはね、あの男を討てば、すべてが終わると思っていた。もともと、われらが兵を挙げたのは、あの男に報いを受けさせるためだ。それさえ果たせれば、われらは戦と無縁の暮らしにもどるのだろうと」


 だが、文昌の予想もしくは願望とは裏腹に、義兄にほこをおく気はないらしかった。いつかの県丞の懇請に心をうごかされたせいかもしれない。王家軍の旗のもとに集まった者への責任を感じているためかもしれない。あるいは、


「伯英は、やめないよ」


 ぽつりと子怜がつぶやいた。


「好きだって、得意だって言ってたもの」

「……それを気づかせたのが、きみというわけか」


 かたわらの少年に目をやれば、艶やかな瞳がじっとこちらを見返していた。


 綺麗な子だ、とあらためて文昌は思った。ただ顔立ちが整っているだけではない。この少年の眼差しには、見る者の心をかき乱す何かがある。


「文昌は」


 少女のような朱唇が己の名をつむいだ。


「ぼくが邪魔なんだね」


 その瞬間、わが身を貫いた感情をなんと呼べばいいのか、文昌にはわからなかった。


 心底を見すかすような台詞を吐いた少年への怒り。焦りと狼狽。あるいは羞恥。それらすべてをねじふせ、文昌は苦いつぶやきをもらす。


「……それは違うな」


 邪魔より、なお悪かった。


 はじめて会ったときから、この少年には漠とした違和感を覚えていた。とらえどころのないその感情が、はっきりした形をとって現れたのは、一日前の軍議の席でのことだ。


 江夏の民を見捨てるという策が子怜の口からすべり出たとき、文昌がまっさきに抱いたのは強烈な嫌悪感。それから、底なしの恐怖だった。


 ()()は違う、と思った。ひとの姿をしているだけで、これは自分たちとはまるで相容れないものだと。


 もしもいま、と、文昌の胸の奥で激情の残り火がゆらいだ。


 この少年の肩を押してやったらどうなるだろう。少しだけ、ほんの少しだけ力をこめて押すだけで、この小さな身体は簡単に柵の向こうへ落ちていくことだろう。


 ゆっくりと、文昌の腕が持ち上がる。それを追う子怜の視線が、ふっと横にそれた。


「なっ……」


 はじかれたように柵から乗り出した子怜の身体を、文昌はとっさに抱きとめた。


 何をすると、叱りつけようとしたところで、文昌もそれに気づいた。


 眼下に流れる璃江の上流から、灰色の影がすべるように近づいてくる。ひとつではない。二十、三十、いやもっとか。川霧の向こうから続々と姿をあらわしたそれは、大きさも形も異なる船の群れだった。


 船団の先頭に、紅い旗がひるがえる。曙光を浴びてはためく旗にあるは「陳」の文字。


 陳王嚇玄の軍が、江夏城へ押しよせつつあった。朱圭が示した尭谷をず、水路によって。


 文昌は腕の中の少年を見た。食い入るように川面を見つめる少年の白い顔もまた、暁光を受けて血の色に染まっていた。その唇がうっすらと笑んでいるように見えたのは、文昌の気のせいではあるまい。


 ──義兄上あにうえ


 文昌は胸のうちで呼びかける。


 あなたの気持ちが、少しだけわかったような気がしますよ、と。


 文昌は望楼に吊り下げられているつちを手にとった。ひやりとしたはがねのそれを、頭上の鐘に思いきりたたきつける。


 甲高い鐘の音が払暁の空に響く。江夏城攻防戦の、それが幕開けだった。


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