天川に星を逐う 四
璃江のほとり、葦の上に寝そべって、子怜は夜空をながめていた。
朝方にふっていた雨は昼前にはあがり、藍色の空は綺麗に晴れている。無数の星がまたたく天蓋は、見ていて飽きるということがなかった。
星宿を追っているうちに、頭の中で星のひとつひとつが生き生きと動きだす。
北天にかがやく老白星は本陣の大将。右翼左翼をしたがえた堂々たる布陣に、南の赤乱星が襲いかかる。迎え撃つは青輝星。剽悍な南軍に翻弄され、いったん後退するも巧みに陣を編みなおし、一気呵成に攻勢にうつる。
めまぐるしく変わる戦況に眩暈をおぼえ、子怜は手の平でまぶたを覆った。
ときどき、こういうことがある。己の思考に深く潜りすぎてしまうことが。あの、いつも笑っている男に出会ってからは、とみにひどくなっているようだ。
師父と呼ばせて悦に入っているあの男、どうやら自分に兵法というものを学ばせたいらしい。と言っても、とりたてて何かを教えてくれるわけではない。囲棋を打つかたわら、ぽつぽつと独り言のようなつぶやきをもらすだけだ。何は無くとも兵糧だね、とか。
食事のことなら伯英も負けていない。近ごろでは自分の顔を見るたびに、飯食ったか、と訊いてくるようになった。面倒だから全部うなずいていたら、嘘をつくなと叱られた。わかっているなら訊かなければいいのに。
さくさくと、草を踏む音が近づいてきた。頭のすぐ先の地面が震え、
「うおっ……」
聞き慣れた声がふってきた。
「おまえな、なんてとこで寝てんだよ。あやうく踏んづけちまうところだったろうが」
背の高い男が、あきれ顔でこちらを見おろしていた。
「……伯英」
身を起こした隣に、伯英がどっかりと腰をおろす。
「ひとりで出歩くなっていつも言ってるだろ。蘇丁がえらく心配してたぞ」
「そうなんだ」
「そうなんだ、じゃねえ」
頭を小突かれたが、あまり痛くはなかった。
「いつから隠れてた」
「隠れてない」
「そうかよ。んじゃ、いつから寝てた」
「日暮れどきから」
「飯食ったか?」
「…………」
拳が落ちてきた。今度はわりと痛かった。
「悪かったよ」
殴った分を埋め合わせるように、大きな手が頭をなでてくれる。
「怒鳴っちまって」
詫びの言葉は、軍議の席での一件に対してらしい。
「怖かったろ」
「怖くない。びっくりしただけ」
「いい度胸してやがるぜ。おれは肝が冷えたぞ。おまえが妙なことを口走るんじゃないかと思ってな」
「言わないよ」
「そうか。けどな、ああいう場じゃ、おまえみたいなやつは勝手にしゃべっちゃだめなんだ。次からは気をつけるんだぞ」
うん、とうなずいてから、子怜は伯英を見上げた。
「間違いだった?」
「なにが」
「ぼくを連れてきたこと」
伯英は目を見開き、次いで小さく笑った。
「……それも悪かった」
髪をくしゃくしゃとかきまわされる。
「正直な、江夏までなら大丈夫だと思ってたんだよ。おれが甘かった。悪かったよ、本当に。えらく危ないところにおまえを残していくことになっちまって」
「そんなの」
どうでもよかった。それより気になることがあった。
「いまから行くの?」
「おう」
王家軍と江夏の騎馬兵計千騎を率い、伯英はじきにこの城を離れる。そこに子怜は同行を許されていなかった。
「やっぱり、そっちなんだ」
そう子怜がつぶやくと、伯英は「ははん」とあごに手をあてた。
「さてはおまえ、すねてるな。自分の案が蹴られたからって」
「すねてない」
ただ、理解できないだけだ。この男が、あえて平坦でない方の道を選ぼうとしていることが。
「たしかにな、おまえの策、あれはあれで正解だ。先に常陽をとったほうが、早くけりがつくかもしれん」
「なら……」
「けど、間違ってんだよ」
わけがわからず、子怜は眉根をよせた。
「おれたちは護民の軍だ。民を見捨てるなんて選択肢は、はなからない。まあ、そのへんは抜きにしても、おれが嫌なんだよ。意味もなく殺されるのも、奪われるのも……それを指をくわえて黙って見ているのも」
淡々と語る伯英の声は、灰の中の埋火に似ていた。冷えているように見えて、うっかり手を入れれば火傷をする。
「なにより、ここで江夏の民を見殺しにしたら、おれはやつと同じになっちまう。それだけは我慢ならん」
やつ、が誰を指すのか、訊かずとも子怜にはわかっていた。
「……でも、最後にたくさん残ってるほうがよくはないの?」
先にいくらか犠牲を払っても、いや、払ったがために、結果的に多くの石をとれることもある。
「……場合によるな」
伯英は天を仰いだ。群青の空にまたたく星よりも、なお遠くを見はるかすように。
「おまえには、まだ難しいか。なら、もっとわかりやすく言ってやる」
子怜の顔に視線をもどし、伯英は目もとをゆるめた。
「おまえを死なせたくない」
呼吸が止まった。
「だから行く。どうだ、これ以上ない理由だろう」
まただ、と子怜は胸もとをつかんだ。例のあれだ。胸の奥がぎゅっとしめつけられるような、甘くうずくような、手に負えない感覚。鼓動が速くなり、目のまわりが熱くなる。
「わかったな?」
笑みを含んだ声に頭をおされるように、子怜はうなずいた。
「よし」
かたがついたとばかりに、伯英は子怜の両肩をたたく。
「蘇丁はおいていく。文昌も。何かあったらあいつらを頼れ。それから、これだ」
伯英は懐から取り出したものを子怜の手に握らせた。それは手の中にすっぽりおさまるほどの小刀だった。鞘をはらうと、よく磨かれた刀身の冴えた光が目を射抜いた。
「使わずにすむなら、それに越したことはない。けどな、もしものときは、ためらうな。自分の身は自分で守るんだ」
わからないな、と子怜は思った。
わからないことだらけだ。このひとは自分に花をくれた。名をくれた。居場所も、たくさんの言葉も。なぜこんなに多くを与えてくれるのか、まるでわからない。わからないが、それでもかまわなかった。
「伯英」
このひとが死ぬなと言うならそうしよう。側に居つづけるためなら何でもしよう。だから、
「帰ってきてね」
あたりまえだ、と笑う顔は、星明りのもとで普段よりずっと優しく、やわらかく見えた。




