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玉蘭花伝  作者: いろは
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22/29

天川に星を逐う 四

 璃江のほとり、あしの上に寝そべって、子怜は夜空をながめていた。


 朝方にふっていた雨は昼前にはあがり、藍色の空は綺麗に晴れている。無数の星がまたたく天蓋は、見ていて飽きるということがなかった。


 星宿せいざを追っているうちに、頭の中で星のひとつひとつが生き生きと動きだす。


 北天にかがやく老白星は本陣の大将。右翼左翼をしたがえた堂々たる布陣に、南の赤乱星が襲いかかる。迎え撃つは青輝星。剽悍な南軍に翻弄され、いったん後退するも巧みに陣を編みなおし、一気呵成に攻勢にうつる。


 めまぐるしく変わる戦況に眩暈めまいをおぼえ、子怜は手の平でまぶたを覆った。


 ときどき、こういうことがある。己の思考に深く潜りすぎてしまうことが。あの、いつも笑っている男に出会ってからは、とみにひどくなっているようだ。


 師父と呼ばせて悦に入っているあの男、どうやら自分に兵法というものを学ばせたいらしい。と言っても、とりたてて何かを教えてくれるわけではない。囲棋を打つかたわら、ぽつぽつと独り言のようなつぶやきをもらすだけだ。何は無くとも兵糧だね、とか。


 食事のことなら伯英も負けていない。近ごろでは自分の顔を見るたびに、飯食ったか、と訊いてくるようになった。面倒だから全部うなずいていたら、嘘をつくなと叱られた。わかっているなら訊かなければいいのに。


 さくさくと、草を踏む音が近づいてきた。頭のすぐ先の地面が震え、


「うおっ……」


 聞き慣れた声がふってきた。


「おまえな、なんてとこで寝てんだよ。あやうく踏んづけちまうところだったろうが」


 背の高い男が、あきれ顔でこちらを見おろしていた。


「……伯英」


 身を起こした隣に、伯英がどっかりと腰をおろす。


「ひとりで出歩くなっていつも言ってるだろ。蘇丁がえらく心配してたぞ」

「そうなんだ」

「そうなんだ、じゃねえ」


 頭を小突かれたが、あまり痛くはなかった。


「いつから隠れてた」

「隠れてない」

「そうかよ。んじゃ、いつから寝てた」

「日暮れどきから」

「飯食ったか?」

「…………」


 拳が落ちてきた。今度はわりと痛かった。


「悪かったよ」


 殴った分を埋め合わせるように、大きな手が頭をなでてくれる。


「怒鳴っちまって」


 詫びの言葉は、軍議の席での一件に対してらしい。


「怖かったろ」

「怖くない。びっくりしただけ」

「いい度胸してやがるぜ。おれは肝が冷えたぞ。おまえが妙なことを口走るんじゃないかと思ってな」

「言わないよ」

「そうか。けどな、ああいう場じゃ、おまえみたいなやつは勝手にしゃべっちゃだめなんだ。次からは気をつけるんだぞ」


 うん、とうなずいてから、子怜は伯英を見上げた。


「間違いだった?」

「なにが」

「ぼくを連れてきたこと」


 伯英は目を見開き、次いで小さく笑った。


「……それも悪かった」


 髪をくしゃくしゃとかきまわされる。


「正直な、江夏ここまでなら大丈夫だと思ってたんだよ。おれが甘かった。悪かったよ、本当に。えらく危ないところにおまえを残していくことになっちまって」

「そんなの」


 どうでもよかった。それより気になることがあった。


「いまから行くの?」

「おう」


 王家軍と江夏の騎馬兵計千騎を率い、伯英はじきにこの城を離れる。そこに子怜は同行を許されていなかった。


「やっぱり、そっちなんだ」


 そう子怜がつぶやくと、伯英は「ははん」とあごに手をあてた。


「さてはおまえ、すねてるな。自分の案が蹴られたからって」

「すねてない」


 ただ、理解できないだけだ。この男が、あえて平坦でない方の道を選ぼうとしていることが。


「たしかにな、おまえの策、あれはあれで正解だ。先に常陽をとったほうが、早くけりがつくかもしれん」

「なら……」

「けど、間違ってんだよ」


 わけがわからず、子怜は眉根をよせた。


「おれたちは護民の軍だ。民を見捨てるなんて選択肢は、はなからない。まあ、そのへんは抜きにしても、おれが嫌なんだよ。意味もなく殺されるのも、奪われるのも……それを指をくわえて黙って見ているのも」


 淡々と語る伯英の声は、灰の中の埋火うずみびに似ていた。冷えているように見えて、うっかり手を入れれば火傷をする。


「なにより、ここで江夏の民を見殺しにしたら、おれはやつと同じになっちまう。それだけは我慢ならん」


 やつ、が誰を指すのか、訊かずとも子怜にはわかっていた。


「……でも、最後にたくさん残ってるほうがよくはないの?」


 先にいくらか犠牲を払っても、いや、払ったがために、結果的に多くのいのちをとれることもある。


「……場合によるな」


 伯英は天を仰いだ。群青の空にまたたく星よりも、なお遠くを見はるかすように。


「おまえには、まだ難しいか。なら、もっとわかりやすく言ってやる」


 子怜の顔に視線をもどし、伯英は目もとをゆるめた。


「おまえを死なせたくない」


 呼吸いきが止まった。


「だから行く。どうだ、これ以上ない理由だろう」


 まただ、と子怜は胸もとをつかんだ。例のあれだ。胸の奥がぎゅっとしめつけられるような、甘くうずくような、手に負えない感覚。鼓動が速くなり、目のまわりが熱くなる。


「わかったな?」


 笑みを含んだ声に頭をおされるように、子怜はうなずいた。


「よし」


 かたがついたとばかりに、伯英は子怜の両肩をたたく。


「蘇丁はおいていく。文昌も。何かあったらあいつらを頼れ。それから、これだ」


 伯英は懐から取り出したものを子怜の手に握らせた。それは手の中にすっぽりおさまるほどの小刀だった。鞘をはらうと、よく磨かれた刀身の冴えた光が目を射抜いた。


「使わずにすむなら、それに越したことはない。けどな、もしものときは、ためらうな。自分の身は自分で守るんだ」


 わからないな、と子怜は思った。


 わからないことだらけだ。このひとは自分に花をくれた。名をくれた。居場所も、たくさんの言葉も。なぜこんなに多くを与えてくれるのか、まるでわからない。わからないが、それでもかまわなかった。


「伯英」


 このひとが死ぬなと言うならそうしよう。側に居つづけるためなら何でもしよう。だから、


「帰ってきてね」


 あたりまえだ、と笑う顔は、星明りのもとで普段よりずっと優しく、やわらかく見えた。




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