薫風は南より 三
戦が近い。
迅風に詳しい話を聞くまでもなく、周囲の人々の昂った顔つきや慌しい足どりから、子怜はそれと悟っていた。
「ここだよ。ここが常陽」
子怜の目の前で、迅風が地面に木の枝で地図を描いている。
いつものことながら、この男は忙しいのか暇なのかよくわからない。こちらから何かを訊きに行くと「あとだ、あと」と、すげなくあしらうくせに、そうかとうなずいて立ち去ろうとすると「どこ行くんだ、おまえ」と、襟首をつかんでくるのだから。
「ここから南にずっとここ、江夏てとこまで行って、璃江を渡る。したら、あとはすぐだな。慶安郡の郡城があるとこだよ」
迅風は木の枝でがりがりと土をひっかく。
「でけえ戦になるぞ。兄貴もたいしたもんだぜ」
「迅風」
呼び捨てやめろ、と即座に返ってきた。いつになったらあきらめるのかと思いつつ、子怜は迅風に尋ねた。
「陳王て誰?」
「ばか」
迅風は木の枝で子怜の頭をかるくたたいた。
「そんな呼び方してると役人にどやされるぞ。王だとか称してやがるが、所詮は叛乱軍の頭目さ。たしか嚇とかいったな。嚇の野郎で充分だぜ」
「じゃあ、その嚇って、どんなひと?」
「悪いやつさ」
ふうん、と子怜は早々に質問を打ち切った。あとで伯英か文昌に訊いてみようと考えていたところで、頭上から陽気な声がふってきた。
「名は嚇玄という。山賊あがりの男だけど、これがなかなかの軍略家でね」
見上げれば、浅黒い肌の男がにこやかに笑っていた。
「蜂起したのは三年前。以後その勢いはとどまるところを知らず、昨年とうとう郡城の常陽を陥としてしまったのさ。陳というのは、かつて慶安一帯を支配していた国で、嚇玄はその王族の裔だとふれまわっているけど、まあ、このへんはでっちあげだろうね」
「おい、あんた」
迅風がうさんくさそうな眼で男を見やった。
「あんた、たしか趙都督の使者だよな。なんでこんなところにいるんだよ」
こんなところ、とは王家軍の兵営である。出入りはそう厳しくは制限されていないが、余所者がみだりにうろついていい場所でもない。
「これはご挨拶が遅れまして。わたしは虞朱圭と申します。どうぞよろしく、迅風どの」
「なんでおれの名まえ知ってんだよ」
「だってあなたは有名ですから。なんでも王虎将軍の右腕だとか」
「お、おう。まあな」
迅風はとたんに相好をくずした。
「それで、きみが王虎将軍のとっておきか。なるほど、綺麗な顔をしているねえ」
朱圭と名乗った男はしげしげと子怜を眺めおろした。
「きみ、長徳で拾われたんだって? どういういきさつで……」
「おい」
剣呑な気配を漂わせて迅風が一歩前に出る。
「あんたにゃ関係ねえだろ。妙なこと嗅ぎ回るんじゃねえよ」
これは失敬、と朱圭は笑って手をふった。
「なんで」
その迅風の背中ごしに、子怜は問うた。
「なんで伯英が行くことになったの」
二対の眼が子怜に向けられる。ひとつは苦々しげな、もうひとつは愉快そうな光をたたえて。
「簡単だよ。慶安には、もうまともな軍が残っていないから。だから高名な王虎将軍にお頼みすることになったのさ」
「それから?」
朱圭の眼から光が消えた。口もとには変わらぬ微笑をたたえつつ、朱圭は尋ね返してきた。
「王虎将軍から何か聞いたのかな」
子怜は黙って首を横にふった。
「本当に? わたしのことは何も言ってなかったかい」
「あなたのことは、少し。いつも笑ってるって」
「そういう性分でね」
「だから、気をつけろって」
──ああいう手合いは、笑いながら背中を刺してくるからなあ。
そう伯英がぼやいていたのは昨夜のことだ。何をどう気をつければいいのかと尋ねたら、そのうちわかるさと笑われて、また髪をくしゃくしゃにされた。
「なるほどねえ」
唇の端をつりあげた男を前にして、子怜は昨夜の言いつけの意味がなんとなくわかった気がした。




