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玉蘭花伝  作者: いろは
15/18

薫風は南より 三

 いくさが近い。


 迅風に詳しい話を聞くまでもなく、周囲の人々のたかぶった顔つきや慌しい足どりから、子怜はそれと悟っていた。


「ここだよ。ここが常陽」


 子怜の目の前で、迅風が地面に木の枝で地図を描いている。


 いつものことながら、この男は忙しいのか暇なのかよくわからない。こちらから何かを訊きに行くと「あとだ、あと」と、すげなくあしらうくせに、そうかとうなずいて立ち去ろうとすると「どこ行くんだ、おまえ」と、襟首をつかんでくるのだから。


「ここから南にずっとここ、江夏こうかてとこまで行って、璃江りこうを渡る。したら、あとはすぐだな。慶安けいあん郡の郡城があるとこだよ」


 迅風は木の枝でがりがりと土をひっかく。


「でけえ戦になるぞ。兄貴もたいしたもんだぜ」

「迅風」


 呼び捨てやめろ、と即座に返ってきた。いつになったらあきらめるのかと思いつつ、子怜は迅風に尋ねた。


「陳王て誰?」

「ばか」


 迅風は木の枝で子怜の頭をかるくたたいた。


「そんな呼び方してると役人にどやされるぞ。王だとか称してやがるが、所詮は叛乱軍の頭目さ。たしかかくとかいったな。嚇の野郎で充分だぜ」

「じゃあ、その嚇って、どんなひと?」

「悪いやつさ」


 ふうん、と子怜は早々に質問を打ち切った。あとで伯英か文昌に訊いてみようと考えていたところで、頭上から陽気な声がふってきた。


「名は嚇玄かくげんという。山賊あがりの男だけど、これがなかなかの軍略家でね」


 見上げれば、浅黒い肌の男がにこやかに笑っていた。


「蜂起したのは三年前。以後その勢いはとどまるところを知らず、昨年とうとう郡城の常陽をとしてしまったのさ。陳というのは、かつて慶安一帯を支配していた国で、嚇玄はその王族のすえだとふれまわっているけど、まあ、このへんはでっちあげだろうね」

「おい、あんた」


 迅風がうさんくさそうな眼で男を見やった。


「あんた、たしか趙都督の使者だよな。なんでこんなところにいるんだよ」


 こんなところ、とは王家軍の兵営である。出入りはそう厳しくは制限されていないが、余所者よそものがみだりにうろついていい場所でもない。


「これはご挨拶が遅れまして。わたしは虞朱圭と申します。どうぞよろしく、迅風どの」

「なんでおれの名まえ知ってんだよ」

「だってあなたは有名ですから。なんでも王虎将軍の右腕だとか」

「お、おう。まあな」


 迅風はとたんに相好をくずした。


「それで、きみが王虎将軍のとっておきか。なるほど、綺麗な顔をしているねえ」


 朱圭と名乗った男はしげしげと子怜を眺めおろした。


「きみ、長徳で拾われたんだって? どういういきさつで……」

「おい」


 剣呑な気配を漂わせて迅風が一歩前に出る。


「あんたにゃ関係ねえだろ。妙なこと嗅ぎ回るんじゃねえよ」


 これは失敬、と朱圭は笑って手をふった。


「なんで」


 その迅風の背中ごしに、子怜は問うた。


「なんで伯英が行くことになったの」


 二対の眼が子怜に向けられる。ひとつは苦々しげな、もうひとつは愉快そうな光をたたえて。


「簡単だよ。慶安には、もうまともな軍が残っていないから。だから高名な王虎将軍にお頼みすることになったのさ」

「それから?」


 朱圭の眼から光が消えた。口もとには変わらぬ微笑をたたえつつ、朱圭は尋ね返してきた。


「王虎将軍から何か聞いたのかな」


 子怜は黙って首を横にふった。


「本当に? わたしのことは何も言ってなかったかい」

「あなたのことは、少し。いつも笑ってるって」

「そういう性分でね」

「だから、気をつけろって」


 ──ああいう手合いは、笑いながら背中を刺してくるからなあ。


 そう伯英がぼやいていたのは昨夜のことだ。何をどう気をつければいいのかと尋ねたら、そのうちわかるさと笑われて、また髪をくしゃくしゃにされた。


「なるほどねえ」


 唇の端をつりあげた男を前にして、子怜は昨夜の言いつけの意味がなんとなくわかった気がした。



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