第80話:魔法競技祭当日――混迷の作戦本部
レオは空中でそっと目を閉じ、一瞬だけ胸に込み上げる熱を噛みしめた。
脳裏に浮かぶ。
どれだけ特訓しても力を引き出せず、
周囲から最弱の烙印を押され、“イチゴ”と呼ばれ続けた日々のことを――。
それが今、全て報われた。
涙が、自然とこぼれる。
イオとテオのもとへ戻ろうと、翼のように風を広げた――その瞬間。
世界が、音を失った。
歓声で満ちていた修道院跡地が、突如として静まり返っていた。
空気が凍りつき、皮膚の表面を“冷たい何か”が這い上がっていく。
そして、レオは見た。
――イオとテオ。
彼らの腹部に――背後から、静かに突き立つ漆黒の刃。
血ではなく、“黒”がじわじわと広がり、身体を蝕むように染めている。
「……は……?」
レオの口から漏れたのは、言葉とも呼べぬ空気の揺れだった。
理解が追いつかない。
視界が揺らぎ、心臓だけが暴走したように耳奥で叩く。
二人の背後に――“それ”は立っていた。
漆黒の風を纏い、
切り落とされたはずの首が“何事もなかったかのように”つながっている魔女。
氷のような笑みを、浮かべていた。
――嘘……だろ……?
「この魔法を使わせたのは、シモンとかいう男以来よ。褒めてあげるわ」
魔女は冷たく言い捨て、
糸が切れた人形のようにイオとテオを放り捨てた。
べしゃり――。
生々しすぎる音が、レオの鼓膜を刃のように刺した。
「…………っ……」
息が喉でつかえ、震えが止まらない。
言葉にならない。
理解も、拒絶すらもできない。
ただ――心の奥で、何かが“ぐしゃり”と潰れた。
魔女はゆらりと顔を上げる。
空中で呆然と立ち尽くすレオを見つけ、楽しげに口角を吊り上げた。
「さぁ次は、あんたよ」
漆黒の風が爆ぜる。
魔女の輪郭が黒い疾風へと変わり、雷鳴にも似た速度で襲い掛かる。
「その絶望に歪む顔――存分に見せなさいッ!!」
「くっ……!!」
レオは必死で魔力を引き出そうとした。
だが――二人が倒れたことで、
一卵性ボーナスは完全に途切れていた。
焦れば焦るほど魔力は空回りし、全身を支配する絶望だけが急速に深まっていく。
――結局、俺には何もできないってのかよ……!
手足が震え、心臓が耳元で爆音のように鳴り響く。
漆黒の風を纏った魔女が、
処刑人のようにゆっくりと距離を詰めてきた。
刃が視界いっぱいに迫り――
レオは反射的に身を固め、死を受け入れようとした。
その刹那。
世界が、白く弾けた。
「っ……!?」
視界が焼ける。
皮膚が焼けるほどの光。
魔女の攻撃が“霧散する”かすかな音だけが耳の奥で弾けた。
直後、絶叫が上がる。
「ジュリアン様……!?」
光が徐々に収まっていく中、
魔女は恐怖と陶酔の入り混じった表情で“前方”を凝視していた。
その視線が、凍りついている。
レオは息を呑み、その先へと顔を向けた。
――そして、そこにいた。
静かに、音もなく立つ男。
ゆったりとした長衣をまとい、無駄な動きのひとつもない。
その澄んだ瞳は、ただ冷ややかに魔女へ注がれていた。
「エリーゼ。俺をどれだけ手間取らせるつもりだ?」
その声音には怒気らしいものは微塵もない。
静かで、落ち着いていて――それでいて抗えない“絶対”が滲む。
その一言を浴びた瞬間、魔女は肩をビクリと揺らし、頬を染めて恍惚に震えた。
だが、快楽めいた震えよりも畏怖が勝ったのか、数歩、後ずさる。
レオはただ呆然と、その男を――
見知らぬ男の圧倒的な背中を見つめるしかなかった。
◇
――少し前のこと。
『イチゴセンじゃねぇ! レイテセンだっつってんだろ、馬鹿やろうが!!』
予備チャンネル越しにレオの怒声が響き、シシンは思わず苦笑した。
その瞬間、結晶の傷が鋭く疼き、神経を焼くような痛みが全身を走り抜ける。
だが――戦場は、痛みを気遣う余裕すら許さない。
荒くなりかけた呼吸を押しとどめ、シシンは近くのカエイへ振り返った。
「カエイ。俺は治療を終えた者の選抜に救護部へ向かう。
しばらく指揮を頼む」
「わかった、任せてくれ」
短く落ち着いた返答に、シシンは静かに頷き、作戦本部を後にした。
救護部では、グロリア修道院跡地で続く戦闘の模様が一斉通信に乗って響き渡っていた。
緊迫した声と断続的な爆音が重なり、室内には焦燥と不安が渦巻く。
シシンが姿を見せると、動いていた隊員たちの視線が一斉に向けられた。
「構わない、そのまま続けてくれ」
軽く手を挙げて告げると、隊員たちは再び慌ただしく持ち場へと散っていった。
シシンは救護部をゆっくりと見渡し、静かに息を吸う。
「知っての通り、グロリア修道院跡地に魔女が出現している。
緊急任務だ。――動ける者は、前へ出ろ」
その声に即応するように、
フウコ、エミリ、パイヤンの三人が立ち上がった。
他にも動けそうな者はいたが、
彼らの動きは鈍く、とても本調子とは言えない。
シシンは名乗りを上げた三人の顔を落ち着いた眼差しで見つめ、静かに指示を下した。
「フウコ、エミリ、パイヤン。
お前たちは直ちに国王陛下の護衛任務をイチイセンと交代してくれ。
陛下の安全確保を最優先とする」
三人は一瞬だけ互いに視線を交わし――フウコが代表して一歩前へ出た。
「イチイセンを戦場に送り出すのね。わかったわ、護衛は任せて頂戴」
エミリとパイヤンも力強く頷き、すぐに救護部を後にする。
その背を見送りながら、シシンは僅かな安堵を覚える。
だが戦いはまだ続いている。
胸に重圧を刻み直し、シシンは次の一手を慎重に思案しながら救護部の奥へと歩みを進めた。
「シシン先輩! 俺も……俺ももう動けます!」
力強い声とともに、ヒカルが真剣な眼差しでシシンを呼び止める。
しかしシシンはヒカルの顔を静かに見つめ、
わずかに眉をひそめた後、ゆっくりと首を横に振った。
「わかっている。
だがヒカル……お前は、あの少女を知る唯一の存在だ。
魔女と関係している可能性もある。意識を取り戻し次第、詳しく話を聞きたい。
その際、お前には同席してほしいと思っている。
まだ意識は取り戻していないようだが……どうだ? 今から一緒に彼女の様子を見に行ってみないか?」
ヒカルは決意を宿した表情で頷いた。
「わかりました……!」
そのとき、奥からケイトとメイナが駆け寄ってきた。
外傷は少ない。だが、その表情には恐怖と自責が色濃く残っていた。
「私たち……何もできなくて……」
ケイトの声が震え、言葉が途中で途切れる。
メイナも俯いたまま、肩を小さく揺らしていた。
シシンは二人の前に立ち、穏やかな眼差しで肩に手を置く。
「……よく生きて戻ってきた。それで十分だ。
今は休め。お前たちが再び動く時は、必ず来る」
二人は堪えていたものが溢れたように涙を浮かべ、何度も小さく頷いた。
落ち着くのを待ち、シシンとヒカルは救護部のさらに奥へ進む。
重篤者が隔離されている治療区画だった。
透明な防護幕の向こうでは、救護隊員たちが疲労を滲ませながら走り回っている。
その中に、治療を受けているヒヨリの姿があった。
立ち止まる二人に気づき、救護部隊長のコリンが近づいてくる。
「安心して。
ここに運ばれてきた隊員たちは……全員、命の危機は脱したわ」
その報告に、二人はほっと息を吐いた。
張り詰めていた空気が、わずかに緩む。
だが――コリンは一瞬、言葉を選ぶように視線を伏せる。
「……エドワード公だけは……残念だけど、
到着した時点で、すでに……」
シシンは静かに目を閉じ、短く頷いた。
覚悟していたはずの現実が、胸の奥を静かに抉る。
隣で聞いていたヒカルは、息を呑んだ。
魔法書室で最初に声をかけてくれた、あの厳しい表情が脳裏に浮かぶ。
――あの出会いがなければ、今の自分はいなかった。
ヒカルにとって、それは確かに“救い”だった。
拳を強く握る。
悔しさとも、怒りとも、喪失ともつかない感情が喉にせり上がり、
ヒカルは静かに視線を落とした。
シシンはその変化に気づき、短く視線を向ける。
わずかに頷きを返してから息を整え、再び冷静な指揮官の顔へ戻った。
「……ガブリエウの容態はどうか?」
コリンは防護幕の向こうへ視線を向け、落ち着いた声で答える。
「今は極度の疲労で眠っているわ。
洗脳の影響で脳に相当な負担があったみたい。
回復には、もう少し時間が必要でしょうね」
シシンは静かに頷いた。
「――例の少女はどこにいる?」
「あの子なら別室よ。意識はまだ戻っていないわ」
コリンは穏やかに首を振り、先導するように歩き出した。
シシンとヒカルは無言のまま、その後に続く。
やがて目的の部屋の前に辿り着き、
扉越しに中を覗くと、ベッドに横たわるラァラ――少女の姿が見えた。
その腹の上には、小さな黒猫が静かに丸まっている。
「ありがとう、コリン」
礼を告げ、シシンとヒカルは部屋へ足を踏み入れた。
扉が閉まり、空気が完全に遮断される。
――その瞬間だった。
空間が、わずかに歪む。
次の刹那、
目を焼くほどの強烈な光が弾けた。
「――ッ!」
二人は反射的に腕で顔を庇いながら、同時に間合いを取る。
やがて眩光がゆっくりと収まり、その中心に人影が浮かび上がった。
現れたのは――
美しく整った顔立ちに、
長い艶やかな髪を持つ男。
その腕には、気を失ったままの少女がぐったりと抱えられている。
「何者だ」
シシンは即座に鋭い声で問いかけた。
男は面倒くさそうに片手を上げ、肩をすくめる。
「あー急いでるんで、すいませんね。俺は義務を果たしに来ただけなんで」
軽く返しつつ、男はシシンの顔をまじまじと見て小さく苦笑した。
「なんだ、年下か。
まあいいや、すぐ帰るから俺のことは気にしなくていいよ。
邪魔だけはしないでくれよ」
男は何かを探すように視線を巡らせる。
「何者だと聞いている。その子を離せ」
シシンは険しい表情で言い放ち、静かに身構える。
「いや……何者って言われてもなぁ……。
そうだな、この大結界を張った者と言えばわかるか?」
そう告げた瞬間――救護部の方向から突如として大歓声が巻き起こった。
「イチゴセンが魔女を倒したぞ!」
予想外の歓声に、シシンは反射的にそちらへ視線を向けてしまう。
――しまった!
すぐに室内へ視線を戻す。
しかし、そこにいたはずの男も、少女も――跡形もなく消えていた。
「……ラァラ!!」
ヒカルの叫びが室内に響く。
だがその声は虚空に吸い込まれたように、静かに消えていった。
シシンはすぐに救護部へ引き返し、歓喜に沸く隊員たちへ鋭い声を放つ。
「全員聞け! 例の少女が、突然現れた正体不明の男に連れ去られた。
直ちに警戒態勢を強化しろ! 俺は本部へ戻る!」
怒号に周囲が騒然とする中、
ヒカルは握りしめた拳が震えていることに気づいた。
血の気が引いていく感覚だけが、現実として残っていた。
◆
作戦本部の入口に足を踏み入れたその瞬間――。
『さぁ、次はあんたよ。
その絶望に歪む顔――存分に見せなさいッ!!』
魔女の狂気じみた声が一斉通信を通じて響き渡り、
シシンは思わず足を止めた。
「何が起こっている!?
魔女はイチゴセンが倒したんじゃないのか!?」
本部の空気は動揺と混乱に塗りつぶされ、誰も返答できない。
ただ一人、カエイだけが青ざめた顔で声を絞り出す。
「……死んだはずの魔女が、復活したんだ……」
その直後、通信機から魔女とは思えぬ“間の抜けた声”が漏れた。
『ジュリアン様……!?』
その声に静かに重なるように、
落ち着き払った――しかし抗いがたい“絶対”を宿した男の声が響く。
『エリーゼ。俺をどれだけ手間取らせるつもりだ?』
その声を聞いた瞬間、シシンの背筋に冷たいものが走った。
――間違いない。
先ほど救護部で見た、あの男の声だ。
さらに脳裏に、男の言葉が鮮明によみがえる。
『大結界を張った者と言えばわかるか?』
それが意味するのは、ひとつ。
この男が――大賢人。
その結論に思い至った刹那、
シシンの胸を、鋭い衝撃が貫いた。
通信機を呆然と見つめながら、
押し寄せる焦燥と、どうしようもない困惑が胸を締めつける。
状況が、まったく掴めない。
敵か、味方か――その判断すら、今は立たない。
事態は、もはや制御不能の領域へ踏み込みつつあった。




