第76話:魔法競技祭当日――偽りの四属性
魔女は、修道院の崩れた壁の裏を一巡した。
だが――どこにも、ヨツビシの姿はない。
胸の奥に、冷たいものが落ちる。
――……また私、男に騙された?
そう思った瞬間、即座に否定する。
あの少年の目は、澄んでいた。
計算も嘘も入り込む余地のない、まっすぐな眼差しだったはずだ。
けれど――
過去の傷が、心を引き戻す。
信じたくても、信じきれない。
確かめたいのに、確かめるのが怖い。
魔女は胸元を押さえ、
しばし、その場から動けずにいた。
やがて、意を決したように一歩。
ゆっくりと、壁の陰から姿を現す。
◆
修道院跡に広がる広場は、不気味なほど静まり返っていた。
時魔法を扱える女も、エドワードと呼ばれていた男も、どこにもいない。
代わりに、数人の少年たちが集まっていた。
真剣な顔で語り合い、何かを決意しているような、そんな空気。
その中に――
あの少年――ヨツビシがいた。
魔女の胸が、ぎゅっと締めつけられる。
足が止まり、息が詰まる。
「……ああ。そういうこと」
ひとり、静かに呟いた声は、凍りついていた。
同時に、魔女の身体を黒い魔力がじわりと包み始める。
哀しみと、痛み、そして失望――
行き場を失った感情が渦を巻き、黒い霧へと変わっていく。
魔女は震える足で一歩、一歩、ヨツビシへ踏み出した。
その気配に気づいたのか、ヨツビシが振り向く。
その瞳には――
逃げ出すでも震えるでもなく、
覚悟した“男”の目が宿っていた。
二人の視線が絡んだ瞬間。
魔女の唇が、小さく震えた。
「……あの告白も全部……芝居だったのね」
声は震え、今にも消え入りそうだった。
喉の奥に押し込めていた感情が、耐えきれず零れ落ちる。
「そうよね。
あんな純粋で綺麗な感情……
この世に、あるわけないもの……」
魔女の視線が伏せられる。
「信じようとした私が……
馬鹿だったのよ……」
ヨツビシは、すぐには答えなかった。
拳を強く握りしめ、ほんの一瞬だけ呼吸を整える。
「……確かに、今のは俺たちの作戦だった。
エドワード公を回収し、
ヒヨリを救い出すための嘘だ」
魔女の肩が、わずかに揺れた。
「でもな」
ヨツビシは、視線を逸らさずに続ける。
「だからって、
この世に“純粋で綺麗な感情”がないわけじゃない」
一歩だけ、踏み出す。
「エドワード公は、
亡くなった奥方の想いと、
残された子どもたちの未来のために命を燃やした。
俺たちも、
ヒヨリを救いたい――それだけだった」
魔女は、小さく笑った。
それは、笑みというよりも――
ひび割れた感情の残骸だった。
「……だからよ」
伏せたまま、静かに言う。
「そんな感情があるから、
命を燃やして、みんな死んでしまうのよ」
ゆっくりと顔を上げる。
「死んでしまったら、どんな綺麗な気持ちだって消える。
だから、この世に残っているのは――」
かすれた声。
「……汚れた気持ちだけ」
魔女は、鋭い視線をヨツビシへ突き刺す。
「あなたたちだって私を騙したわ!
どんな理由を並べても、人の心を弄んだ事実は消えないの!
それに……さっきから“魔女”なんて勝手に呼んでるけど……
私だって人間よ!
あなたたちと同じ、人間の心が……ここにはあるの!!」
胸元を掴む指が、震えていた。
ヨツビシは一歩も引かず、静かに頷いた。
「人間だというのなら――
自分がしてきたことの重さを背負うべきじゃないのか」
魔女の瞳が、怒りに揺れる。
「お前が侵略したせいで、奪われた命がある。
今も、悲しみの中で生きてる人たちがいる」
一拍。
「その責任から目を逸らして、
自分の痛みだけを振りかざすのは……
人間として、身勝手すぎると思わないか?」
魔女の肩が震えた。
「あなたたちの国がどうなろうと、そんなの私には関係ないの!
私が知りたいのは、この傷ついた私の気持ちを、あなたたちがどうしてくれるのかってことだけなのよ!」
その叫びは、痛々しいほど切実だった。
「いっつも……いっつもそう!!
みんな私ばっかり責めて……!!
そんなに私が悪いって言いたいの……!?
じゃあ……私の心はどうなるのよ……!?
私は……こんなに苦しんでるのに……どうすれば救われるっていうのよ!!」
その叫びに、ヨツビシは息を呑む。
言葉を探し、口を開きかけた――その瞬間。
「ああああぁぁぁぁぁ!!」
魔女が頭を抱え、感情を爆発させた。
「もぉぉぉ……うるっさいっ!
うるさいうるさいうるさぁーーーいっ!!!」
魔女は涙をぼろぼろ流しながら頭を抱え込み、
髪をぐしゃぐしゃに掻きむしり、子供のように絶叫した。
「あなたの正論なんて聞きたくないっ!!
嫌い嫌い嫌いっ!!
みんなそうっ……!
いつだって私の気持ちを踏みにじって!!
私を拒む世界なんて……ぜんぶ……
ぜーーんぶ消えてなくなっちゃえばいいの!!」
右手を掲げた瞬間、黒く淀んだ魔力が爆発的に膨張した。
大地が軋みを上げ、石畳が弾け、瓦礫が空へと跳ね上がる。
その異様な“怒りの圧”に、イチヨンセンは誰一人として前に踏み出せなかった。
ゲンジは顔を青くし、
オウギは唇を噛み締め、
タカノハは目を見開いて動揺を隠せない。
「そうすれば……
もう……誰も……私を傷つけられないんだからぁっ!!」
魔女の叫びは痛々しく、狂気と哀しみが入り混じっていた。
ヨツビシは歯を食いしばり、一歩前へ出ると仲間へ怒鳴った。
「来るぞッ!!
――全員、備えろ!!」
四人はすぐさま陣形を整える。
ヨツビシ、タカノハ、オウギ、ゲンジ――イチヨンセンの四人が一斉に構えた。
次の瞬間。
魔女の指先から漆黒の霧が勢いよく噴き出した。
地を這い、空を裂き、怒りに飢えた獣のように彼らへ襲いかかる。
「タカノハ!」
ヨツビシの叫びに、タカノハが瞬時に反応する。
足元から巻き上がる風が巨大な旋風となり、渦を描いて立ち上がった。
そこへオウギが火属性、ゲンジが土属性、ヨツビシ自身が水属性の魔力を重ねると、凄まじい規模の竜巻が形成された。
イチヨンセンだからこそ可能な“合技”――四属性の混合魔力。
魔女の黒霧が、巨大な竜巻へ突っ込んだ瞬間、
その禍々しい黒い奔流は、
四属性の渦に引き裂かれるように勢いを失い、霧散した。
「……あれ?」
ゲンジが小さく呟いた。
「もっとヤバいかと思ったけど……
これ、案外いけるぞ……?」
オウギが自信に満ちた表情で頷く。
タカノハは強い風を纏いながら、不敵に笑った。
「単純に……俺たちが強いってことだろ!
このまま攻撃に転換するぞ!!」
タカノハの号令とともに、激しい気圧差が生まれ――
四人が放った竜巻は、瞬く間に規模を膨れ上がらせる。
風は唸り、
火は竜の咆哮のように燃え上がり、
土は砕けた岩石を巻き込み、
水蒸気が白い閃光となって渦の芯を駆け抜ける。
――四属性混合、火炎岩竜巻。
炎の竜が咆哮し、魔女へと襲いかかった。
その圧倒的な威圧に、魔女の瞳が――
初めて、はっきりと揺らいだ。
「なっ……!」
魔女は咄嗟に宙へ跳ぶ。
だが、竜巻は生き物のように軌道を変え、
逃げる背を執拗に追い続けた。
追い詰められた魔女は歯を食いしばり、
指先を、地へと突き立てる。
ドッ――!!
地鳴りが走り、地表が裂ける。
土属性の魔力によって分厚い岩盤が一気に隆起し、
巨大な壁となって、炎の竜と魔女を強引に隔てた。
ヨツビシが思わず息を呑む。
――こいつ……土属性まで使えるのか!?
直後、土壁は火炎岩竜巻と激突し、
爆音が周囲を引き裂いた。
火花と土砂が弾け飛び、
視界は白と黒の煙に塗り潰される。
それは、あくまで――
“ほんの一瞬”を稼いだに過ぎなかった。
だが、その刹那。
魔女は地割れへと身体を滑り込ませ、
そのまま地中へ姿を消していく。
「ちっ……逃げられたか」
オウギが舌打ちする。
ヨツビシは険しい視線で裂け目を睨みつけた。
「いや、あいつはまだ近くにいる――ゲンジ、地中を探れ!」
「任せろ!」
ゲンジが地に手を当て、
土属性の魔力を流し込もうとした――その瞬間。
ゾワッ――。
四人の背筋を、同時に悪寒が駆け抜けた。
「……違う」
ヨツビシの瞳が見開かれる。
「――上だ!!」
その叫びと同時に、
頭上から“漆黒の風刃”が雨のように降り注いだ。
四人は即座に防御壁を展開する。
タカノハが風、
ヨツビシが水、
オウギが火、
ゲンジが土――。
しかし黒い風刃は予想を遥かに超えた速度で落ち、
防御展開が“わずかに遅れた”。
ガギィィィィンッ!!
重ね合わせた防御壁は悲鳴を上げ、火花を散らしながらも何とか攻撃を弾いた。
だが衝撃で四人は一歩、二歩と後ろへ弾かれてしまう。
「くっ……!!」
ヨツビシの胸に、嫌な予感がひりつくように走った。
先ほどまで“漆黒の霧”に頼っていた魔女の攻撃が――
速度と切れ味に特化した“風の刃”へと切り替わっている。
つまり、魔女は戦い方を変えてきた。
そして頭上には――。
地中に逃げたはずの魔女が、いつの間にか空中に浮かんでいた。
その周囲には漆黒の風が渦巻き、
まるで最初からそこに存在していたかのように――移動した気配すらない。
戦場に、一瞬だけ異様な静寂が落ちる。
「……時魔法か」
タカノハが苦々しくつぶやいた。
魔女はゆるく唇の端を持ち上げ、愉しげに囁く。
「驚いたわ。あなたたち、一人一属性しか使えないはずなのに……
まるで四属性を同時に扱っているみたいじゃない。
本当に――面白い子たちね」
だがその声音は、じわじわと温度を失い、鋭さを帯びていく。
「でもね、あなたたちには――致命的な欠点があるのよ」
魔女の周囲で揺らめいていた漆黒の風が、一気に収束し、
鋭い“黒刃”へと変貌する。
「それはね……属性を重ねる、その一瞬の隙よ!」
空気が悲鳴を上げる。
黒刃が音を置き去りにして迫る。
ヨツビシの額を、一筋の冷汗が伝った。
――くそっ、嫌な予感が当たった……!
必死に防御壁を重ねようと魔力を駆け巡らせる。
しかし――風魔法は全属性中、最も速い。
やはりイチヨンセンの“偽りの四属性”防御展開は、ほんのわずかに遅れた。
その“一瞬の遅れ”こそが、魔女が狙っていた“死角”だった。
次の瞬間――
四人の身体に、衝撃が叩き込まれる。
爆音とともに全員が宙へ弾き飛ばされ、
地面を転がり、砂煙が激しく舞い上がった。
固まっていた隊列は崩れ、
四人の身体は、無残にバラバラへと散らばっていった。
「しまった……!」
タカノハの焦り混じりの呻きが、
状況の深刻さを残酷に告げていた。
魔女は優雅な動きで、ふわりと地面へ降り立つ。
足音すら立てない静かな着地。
軽く乱れた髪を指先で払い、その唇には人を嘲るような冷たい微笑み。
「あらあら……ずいぶん離れちゃったわね?
これじゃあ――せっかくの得意な“連携”も意味がないんじゃないかしら?」
くすり、と静かな笑い声が響く。
その声音は、ただの嘲笑ではない。
“遊び”にすらならない相手に向けた、退屈と残酷の混ざった音色だった。
ヨツビシは右足に走る激痛に顔を歪めていた。
地面に手を突いて立ち上がろうとするたび、
足首から鋭い痛みが脳天まで突き抜け、身体が痙攣するように拒む。
タカノハも地面に手を突きながら息を荒げ、
オウギは震える脚でどうにか立ち上がろうとしている。
ゲンジは歯を食いしばり、膝を押さえながら必死に踏ん張っていた。
ヨツビシの額から流れ落ちた汗が、頬をつぅ……と滑り落ちる。
――まずい。
この距離じゃ……連携が組めない……!
頭の中で何度も作戦を組み立てては崩れ、
激痛と焦りで思考が空回りする。
仲間たちの荒い息遣いが耳の奥で反響し、
心臓は嫌になるほど激しく打ち鳴らされていた。
魔女は楽しそうに、
地面へ倒れ伏す四人をゆっくりとなぞるように見渡す。
その瞳には――
勝利を確信した捕食者の“残酷な喜び”が宿っていた。
完全な静寂が広場を支配した。
それは、石の破片が風に転がる音すら聞こえるほど、凍りつくような静けさだった。
そして――その静寂を破るように、
魔女の冷ややかな声が甘く囁くように響く。
「――ねぇ、誰から殺してほしい?」
唇がゆっくりと、愉悦に歪む。
「……決められないなら――私が“選んであげる”けど?」




