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第75話:魔法競技祭当日――バイバイなんて言うなよ

「バイバイなんて言うなよ!!」


 ヨツビシの必死な叫びに、魔女は漆黒の指先をぴたりと止めた。

 冷たく鋭い瞳が、ゆっくりとヨツビシへ向けられる。


「……何よ、あなた」


 その瞳に射抜かれ、ヨツビシは恥ずかし気に顔をそらす。

 それでも――再び必死に声を張り上げた


「バイバイとか……そういうの、やめろって言ってるんだ!!」


 魔女は呆れたように目を細め、小さくため息をつく。

 そして、口元に薄く歪んだ笑みを浮かべた。


「ああ、そういうこと? あんた、この子が好きなの?」


 狂気と嘲笑をたっぷりと含んだ声。

 右手の黒い魔力は依然としてヒヨリを照準に捉え、いまにも放たれようとしている。


「ちょうどいいわ。好きな女が殺される瞬間……しっかり目に焼き付けなさい」


 魔力が収束し――放たれようとした、その瞬間。


「待った、待ってくれ!!」


 ヨツビシが両手を広げるように一歩踏み出した。

 魔女の唇に狂ったような笑みが深まる。


「あはははっ! やっぱり当たりじゃない! ほんとバカみたい……!」


「違う! そうじゃないんだ!!」


 必死の叫びに、魔女の笑みがふっと止まる。


「俺は……お姉さんに、そんなこと……してほしくないだけなんだ!」


 ヨツビシの思わぬ発言に、魔女の表情が怪訝に曇る。


「……はあ? なにそれ。意味わかんないんだけど?」


 ヨツビシは喉で息を呑み、視線を落とす。

 胸を押さえるように拳を握りしめ、震える声で言葉を絞り出した。


「その……お姉さんを見た瞬間から……なんか胸が苦しくて……

 頭の中がぐちゃぐちゃで……

 でも『バイバイ』って聞いたら、このまま終わるなんて耐えられなくて……。

 気づいたら、飛び出してて……」


 魔女は眉を寄せ、不可解そうにヨツビシを見つめる。


「よくわかんないけど、お姉さんと目が合うと苦しくなるんだ……。

 他の子には、こんなことないのに……」


 ヨツビシは頬を赤く染め、うつむいてしまった。


 静寂。


 魔女は言葉を探すように唇を開きかけ――固まった。

 彼女を覆っていた冷たい殺意が、ほんの一瞬だけ揺らぐ。


 その瞳には、怒りでも憎悪でもなく――

 どう扱えばいいのかわからない、小さくて不器用な戸惑い。


 ――……何を言ってるのよ、この子……どうして……。


 魔女は苛立ちを隠すように眉をひそめ、そっぽを向いた。

 だが、その仕草は“怒り”というよりも――“動揺”に近かった。


「……何それ。意味わかんない……気持ち悪いんだけど」


 言葉は冷たかった。

 だが、その声は、わずかに震えていた。


 魔女の脳裏に、否応なく過去が流れ込む。


 薄暗い部屋。

 背を向けたまま振り返らなかった母。

 頬を打たれた熱と、誰にも抱きしめてもらえなかった夜。


 指先が、わずかに震えた。

 黒霧がほどけるように消え、殺意が輪郭を失っていく。


 沈黙。


 胸の奥から込み上げる、得体の知れない感情に、

 魔女は息を止めた。


 ――やめてよ。

   そんなこと言われても……どうすればいいのよ……。


 その沈黙に耐えきれず、

 ヨツビシは顔を真っ赤にして頭を下げた。


「ご、ごめんなさい!

 こ、こんなの……気持ち悪いですよね……!

 俺、どうかしてました。

 やっぱり今の、なかったことにしてください!!」


 言い切ると同時に踵を返す。

 逃げ出すように走り出した――その瞬間。


「おい待てヨツビシ! 何逃げようとしてんだよ!」


「そうだぞ! お前、さっき『俺はちゃんと告白するんだ!』って意気込んでたじゃねえか!」


 大声が響き、ヨツビシは反射的に振り返る。


 タカノハとオウギが全力疾走でこちらへ駆け寄ってくるところだった。


「ちょっ……なんでお前らがここに!?

 ていうか、そんなこと大声で言うなよ!」


 ヨツビシは恥ずかしさのあまり全身を震わせる。


 魔女はその様子を見て、一瞬ぽかんとした顔をした。


 すぐに眉をひそめ、そっぽを向くが――

 その頬には、消えかけの黒霧よりも淡い“居心地の悪さ”が滲んでいた。


 タカノハはヨツビシの肩をがしっと掴む。


「お前の応援がしたいんだよ!」


 オウギも真剣そのものの顔つきで続けた。


「そうそう、ここで逃げたら、せっかく勇気出したのにもったいないだろ!」


「うるさいっ、もう無理だって!

 恥ずかしすぎて死にそうなんだよ……!!」


 ヨツビシは二人の手を振りほどくと、

 そのまま全力で駆け出してしまった。


「あっ、ヨツビシ!」


 二人の叫びも虚しく、

 ヨツビシの姿はあっという間に遠ざかってしまった。


 魔女はその一部始終を静かに見守っていたが、彼が走り去る背中を目で追いながら、

 むしろ言い知れない戸惑いとわずかな寂しさの色が滲んでいた。


 自分でも理解できないその感情に、困惑したようにそっと視線を伏せる。


 やがてヨツビシが修道院の壊れた壁の陰へ消え、

 完全に見えなくなったのを確認すると、

 タカノハは魔女へ厳しい視線を向けた。


「……お姉さん、一体ヨツビシになんて言ったんですか?」


 オウギも真摯な瞳で問いかける。


「あいつ、本気で告白しようとしてたんですよ。

 断るなら断ればいいです。でも……真面目に向き合ってほしかったです」


 魔女はふたりの視線を静かに受け止めていたが、

 やがてほんの少し俯き、小さな声で呟いた。


「……別に。あの子が勝手に、変なこと言い出しただけよ」


 淡々と言い放った――


 はずだった。


 だが、その言葉を耳が拒むように跳ね返した。


 脳裏に浮かぶのは、

 ほんの少し前、自分がヨツビシへ投げつけた冷たい言葉。


『……何それ。意味わかんない……気持ち悪いんだけど』


 胸の奥で、小さな罪悪感がちくりと疼いた。


 魔女はそっと胸元へ触れた。

 その指先は――自分でもわかるほど、かすかに震えていた。


 その震えを、タカノハは見逃さなかった。


『魔女相手に真っ向勝負を挑むのは無謀だ』


 作戦会議でゲンジが放った言葉が、タカノハの脳裏に蘇っていた。


『魔女だって感情を持つ人間だ。

 エドワード公に向けていたあの歪んだ愛情は、きっと弱点になる』


 恋愛経験が豊富だと自慢していたゲンジが放った言葉の通りになった――今、魔女は、感情に揺れている。


 タカノハは静かに息を吐くと、もう一押し声をかけた。


「あいつ、ああ見えて初めての告白だったんです。

 上手く言えないのは当たり前でしょう。

 それに――お姉さんのこと、本当に真剣に考えてたみたいです」


 魔女の肩がぴくりと小さく震えた。隠しきれない動揺が滲み、視線が揺れ動く。

 オウギもまた、魔女の変化を見逃さず、真剣な表情で畳みかけた。


「そうです。だからあんなに必死になってたんですよ。

 無理に応えろとは言いませんけど、

 せめてあいつの気持ちと真面目に向き合ってやってもらえませんか……お願いします」


 魔女はオウギの真摯な言葉を受け止め、何かを言いかけて口ごもった。


 しばし、重い沈黙が流れる。


 ――愛情?

   純粋な気持ち?


   ……そんなもの、あるはずがない。

   期待したら……傷つくだけ。

   もう二度と――信じないって決めたのに。


   なのに、どうして……

   胸がこんなにざわつくの……?


 魔女の瞳が揺れ、二人を交互に見つめる。

 小さく唇を震わせながら、絞り出すように声が漏れた。


「その……。

 私、どうしたらいいのか……わからない……」


『幼少期に愛情が足らないと性格って歪むんだぜ?

 魔女が愛に飢えているのなら、俺たちは徹底的に“純粋でまっすぐな恋”をぶつけてやろう。

 きっと、それで混乱するんじゃないか?』


 タカノハは、会議でゲンジが語ったその言葉を信じた。

 そして、そっと優しく背中を押すように口を開いた。


「追いかけてやってください」


 魔女の肩がびくりと震えた。

 胸元へ触れた指先が、かすかに震えている。

 そこに生まれた痛みの正体は、彼女自身にもわからない――けれど。


 魔女は大きく目を見開き、迷いを振り払うように顔を上げた。


 そして――

 くるりと身を翻し、ヨツビシが逃げ込んだ修道院の壊れた壁の裏側へと、

 迷いなく駆け出していった。


 その背が完全に視界から消えた瞬間、

 タカノハは即座にオウギと視線を交わす。

 言葉は不要だった。


 タカノハは倒れ伏すヒヨリのもとへ駆け寄り、その身体を抱き起こす。

 ヒヨリは眉をわずかに寄せ、小さく呻いたが――意識は戻らない。


 そのとき、近くの茂みがばさりと揺れ、

 地面の裂け目からゲンジが顔を出した。


「おい、こっちだ! 早く来い!」


 生成されたばかりの脱出用トンネルが、ぽっかりと口を開けている。

 その脇では、囮を務めきったヨツビシが、肩で荒く息をしていた。


「ナイスタイミングだ、ゲンジ!」


 タカノハはヒヨリを抱え直し、風属性の魔力を全身に纏う。

 次の瞬間、疾風のようにトンネルへ飛び込み、

 一気に出口へと駆け抜けていった。


 出口では、乙種諜報部隊がすでにエドワード公を回収し、待機している。

 そこでヒヨリを引き渡し、本部まで撤退させる手はずになっていた。


 一方、トンネル入口に残されたのは、

 ゲンジ、ヨツビシ、オウギの三人。


 遠ざかっていくタカノハの背中を、

 誰も言葉を発さぬまま、しばらく見送っていた。


 やがてオウギがぽつりと呟く。


 「……これで、ヒヨリ救出作戦は成功、だな」


 ヨツビシは肩をすくめ、いつもの調子で言った。


 「俺、マジで頑張ったわ。

  なあゲンジ、これで通信機壊した件、チャラだからな?」


 ゲンジは小さく笑い、

 そっと視線を地面へ落とした。


 「生き残れたらの話だ。

  ――なんたって、次の作戦が“最高にイカれてる”からな」


 三人の間に、短い沈黙が落ちる。


 作戦によれば――

 ヒヨリが戦闘不能だった場合、

 彼女を撤退させるまではいいとしても、その後が問題だった。


 ――魔女の激情を全て自分たちが引き受け、

   限界まで攻撃をひたすら耐え続ける。


 攻め手も逃げ場もない。

 もはや『作戦』と呼べる代物ですらなかった。

 ただ時間を稼ぎ、仲間が安全圏に逃げ切れるまで、

 死ぬ気で耐え凌ぐだけだ。


 つまり、ここから先は――

 イチヨンセン全滅前提の、絶望的な耐久戦が始まるのだ。


「……まあ、大丈夫だって」


 ヨツビシが口を開く。


「エンジャクさん、イチゴセンが間もなく復帰可能だって言ってたしな」


「イチゴか……」


 オウギが噛みしめるように呟く。


 ヨツビシは続けた。


「ヒヨリも早期復帰できるかもしれないし、

 他の部隊だって――ほら、イチイセンとかさ」


「イチイセンは陛下の護衛中って言ってたんだろ」


 ゲンジがすぐに突っ込みを入れる。


 ヨツビシは肩をすくめ、大雑把に返した。


「まあ、そこらへんはさ、シシンの指揮を信じようぜ」


「お、なになに。もしかして次の作戦のことで盛り上がってんのか?」


 声の方を振り向くと、

 ヒヨリを引き渡して戻ってきたタカノハが、

 不敵な笑みを浮かべて立っていた。


 親指で背後を指す。


「ほら……向こうもかなり盛り上がってるみたいだぜ?」


 四人が視線を向ける。


 そこには――

 黒く濁った魔力が渦を巻き、

 激しい感情を抑えきれない“魔女”が、

 ゆらりと立ちはだかっていた。


 風が止む。

 空気が、軋む。


 イチヨンセンの、絶望的な耐久戦が――いま、始まる。


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