第72話:魔法競技祭当日――決意の空へ
エドワードが魔女の前に倒れ伏した、その刹那。
少し離れた草むらが、微かに揺れた。
そこには、諜報部隊・七が息を殺して潜んでいた。
隊員は目の前で起きた惨状に青ざめ、震える手で通信機を掴む。
「こちら諜報部隊・七――!
“戦闘訓練場・一”にてガブリエウとの戦闘は終結。
しかし――例の少女付近に、正体不明の人物が突如出現!
エドワード公が単独でこれに突撃しましたが――攻撃はまったく通じず!
公は現在、生死不明!
ガブリエウおよびパイヤンは本部へ退却中!
状況は、極めて深刻です! 本部、至急の対応を要請します!」
◇
通信が途切れた瞬間、作戦本部に重苦しい沈黙が落ちた。
「エドワード公が……正体不明の存在に突撃し、生死不明……?」
総指揮代理カエイの声が、わずかに揺れた。
一瞬、隠し切れない動揺が瞳をよぎる。
胸の奥に、冷たい予感が走った。
だがカエイは、すぐに深く息を吸う。
迷いを断ち切るように、視線を鋭く引き締めた。
通信機を握り、低く、しかし明確な声で命じる。
「諜報部隊・七、報告を確認した。
本部より全部隊へ一斉通信。
“戦闘訓練場・一”に新たな敵性存在を確認。
周辺の乙種部隊は接触を回避。
敵の偵察および情報収集を最優先とせよ。
また、退却中のガブリエウおよびパイヤンに合流可能な部隊は、
直ちに援護に向かえ」
通信を切ると、カエイは重く息を吐き、隣に立つエンジャクへ視線を向けた。
「エンジャク、残存戦力の状況は?」
「イチイセンが健在だ。だが現在は地下牢にて陛下の護衛中。動かすことはできん」
「他は?」
「即応可能なのは……シシンのみだ。
他の部隊は戦闘不能、あるいは出撃不可。
イチヨンセンはあれから応答がなく……おそらく全滅だ。
ただし――イチゴセンが、間もなく復帰できるかもしれん」
「イチゴか……」
カエイがその名を低く呟いた、その瞬間だった。
通信機が鋭く鳴り、専用回線が開く。
『こちら諜報部隊・十三――!
ガブリエウおよびパイヤンとの合流に成功!
正体不明の敵の正体を確認!
――魔女だ!
エドワード公が、そう断言したとの情報を得た!
繰り返す、敵は魔女!』
空気が、凍りついた。
誰も動かない。
言葉も、呼吸も、そこで止まった。
「……魔女、だと……?」
誰かの喉を絞るような声が、ようやく漏れる。
「結界が……破られた、というのか……?」
「ありえん……魔女が、なぜここに――」
その瞬間――
扉が激しく開く音が響いた。
険しい表情のシシンが、作戦本部へ飛び込んでくる。
その横には、ヒヨリの姿もあった。
「魔女とはどういうことだっ! 状況を説明してくれ!」
「シシン……!」
カエイは一瞬だけ息を詰め、
すぐに向き直った。
「“戦闘訓練場・一”にて、新たな敵性存在を確認。
その人物について、エドワード公が“魔女”と断言したそうだ」
その言葉を聞いた瞬間、シシンの表情が凍りつく。
「公は単独で突撃を試みたが……攻撃は通じず、
現在――生死不明だ」
「……エドワード公が……」
その名を口にした刹那、
地下牢で交わした視線が、鮮明に脳裏へ蘇った。
シシンは唇を強く噛み、ゆっくりと視線を落とした。
身体に残る結晶の傷が、じわりと疼く。
その沈黙を破るように、
隣で黙っていたヒヨリが小さく息を吸った。
「……私が行きます」
静かな声だった。
だが、その瞳には迷いがなかった。
「ヒヨリ……?」
シシンは思わず顔を上げる。
「俺も行こう」
反射的に踏み出した、その瞬間。
身体を貫く鋭い痛みが、無情にも膝を崩れ落とした。
「――くっ……!」
「シシン君は駄目だよ!」
ヒヨリが咄嗟に腕を伸ばし、
崩れかけた身体を、確かに支えた。
「そんな傷で動けるわけないよ。
お願いだから……ここで待っていて……ね?」
穏やかな声だった。
けれど、そこには譲らない意志があった。
シシンは拳を強く握りしめる。
痛みではない。
“動けない自分”という現実が、胸を焼いていた。
「しかし、このままお前を一人で行かせるわけには……!」
「大丈夫。
だって――私は光属性なんだよ?」
ヒヨリは耳元でそっと囁いた。
その声は、胸の奥深くまで染み渡るように穏やかで、
それでいて不思議なほどの力強さを帯びていた。
そのとき通信機がふたたび鋭く鳴り、専用回線が開いた。
『こちら諜報部隊・七――!
正体不明の人物がエドワード公を抱え、高速で移動中!
進路上には、退却中のガブリエウおよびパイヤン!
追跡を開始した可能性が高い!
本部、緊急対応を要請する、至急――!』
報告が終わるより早く、ヒヨリの瞳に静かで揺るぎない決意が宿った。
「大丈夫……! 私が行くから。
シシン君は、本部で指揮を執って」
シシンは息を呑み、苦渋に満ちた表情で数瞬を過ごしたのち、
ぎり、と奥歯を噛みしめ――小さく頷いた。
「……わかった。だが絶対に無理はするな、ヒヨリ」
「うん!」
ヒヨリは力強く答え、ためらいなく駆け出した。
扉が開き、閉じるまでの一瞬だけ、風を切る音が本部の空気を震わせる。
その背中を見送りながら、シシンは再び拳を握りしめる。
指揮官として、感情を表に出すわけにはいかない。
深く息を吸い込み、胸中の渦を、無理やり押し込めた。
そして鋭い視線をカエイへ向ける。
「……カエイ、悪いが――ここからは俺が指揮を執る」
静かな頷きとともに、指揮権は即座にシシンへと移った。
シシンは通信機を起動し、低くも揺るぎない声で一斉通信を発する。
「本部より一斉通信――。
“戦闘訓練場・一”に出現した魔女は、退却中のガブリエウとパイヤンを追跡中。
現在、ヒヨリが救援へ向かっている。
周辺の乙種諜報部隊は潜伏を維持し、
ヒヨリと魔女が接触次第、両者の音声を確実に拾えるよう通信網を展開せよ。
諜報部隊・七は現場に残された少女を確保し、安全最優先で本部へ帰還せよ」
『諜報部隊・七、了解!
少女を確保後、速やかに帰還する!』
本部の空気は、まるで張り詰めた糸の上に立つかのように緊張しきっていた。
戦力は絶望的なまでに不足している――。
今は、ヒヨリを信じるしかない。
シシンは唇を固く結ぶ。
結晶に裂かれた傷口が、まだ熱を帯びて疼いていたが、
シシンは眉一つ動かさず、通信機へと意識を戻した。
◇
ヒヨリは作戦本部を飛び出すと同時に風を纏い、軽やかに宙へ浮かんだ。
そのまま“戦闘訓練場・一”の方向へと一直線に飛翔する。
外壁を越えた瞬間――地上を疾走する一団が目に入った。
先頭を走るのはパイヤン。
風の魔力を全身に巡らせ、必死に速度を上げている。
その背には、ぐったりと意識を失ったガブリエウ。
周囲には、数名の乙種諜報部隊の隊員が護衛として並走していた。
そしてその場所は、奇しくも――グロリア修道院の跡地だった。
状況を瞬時に把握したヒヨリは速度を緩め、上空から呼びかける。
「パイヤン君、そのまま進んで!
魔女は私が引き受けるから!」
空を見上げたパイヤンは、一瞬だけ驚きに目を見開き、
すぐに安堵の色を滲ませた。
「え……ヒヨリさん……!? 戦線に復帰できたんですね……!
よかった、本当に……よかった……!
ですが相手は魔女です! あのエドワード公の攻撃すら通じなかったんです!
どうか……くれぐれも油断なさらないでください!」
「うん、わかった! ありがとう!」
「どうか、ご無事で……!」
パイヤンは強く頷き、
祈るような眼差しでヒヨリを一度だけ見上げると、
さらに速度を上げて駆け抜けていった。
――そして。
遠方から、不穏な気配をまとった黒い影が近づいてきた。
それはぐったりとしたエドワードを抱えた魔女の姿だった。
空中を高速で進んでいる。
ヒヨリの表情が静かに引き締まる。
迷いのない瞳が、真っ直ぐに魔女を捉えた。
突風が止み、空気が張りつめる一瞬――
ヒヨリは凛とした声で告げる。
「止まりなさい!!」
世界が一瞬、音を失った。
その短い静寂の中で、
ヒヨリの胸には、静かで燃えるような――消えることのない決意が宿っていた。
――もう、これ以上……誰も傷つけさせはしない。




