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第71話:魔法競技祭当日――散りゆく風

 ガブリエウの嗚咽は、まだ震えるように残っていた。


 父の胸に触れる。

 弱々しい鼓動が、指先をかすかに打つ。


 ――父上が……死んでしまう。


 絶望が、息を奪った。


 その時だった。


 背後、少し離れた地点から――

 地を歪ませるほどの禍々しい魔力が、ゆっくりと立ち上がった。


「まさか……そんな、馬鹿な……!」


 この尋常ならざる気配を、エドワードは知っていた。


 ――背筋を、氷のような悪寒が走る。


 若き日の戦場で、

 ただ一度だけ味わった“絶望”。


 父アルベルトが、“ダーマンベルクの惨劇”で、

 英雄シモンと共に挑んだ――あの存在。


 魔女だ。


 ガブリエウも異変に気づき、

 涙に濡れた顔を、ゆっくりと上げた。


 その瞬間、エドワードは悟った。


 ――自分に残された時間は、もうわずかだと。


 だが――

 父として、テックマン家として、果たすべき使命がまだ残っている。


 エドワードは、身体の奥底に残る力をひねり出し、

 息子へ向き直った。


 声はかすれていたが、

 その言葉に迷いはなかった。


「ガブリエウ……お前は、セシリアにとって……未来そのものだった。

 そして父は……決して“お前の刃”で倒れるのではない。


 お前の未来を守るために……

 この命を、捧げるのだ……」


「ち、父上……!?

 待って、お願いだ……!」


 ガブリエウの叫びは震え、

 涙に濁って、言葉にならなかった。


 だがエドワードの瞳に迷いは一片もなく、

 ただ静かで揺るぎない覚悟だけが宿っていた。


「よいか、ガブリエウ……。あれは――おそらく魔女だ。

 パイヤン殿と共に一旦退き、体制を急ぎ立て直せ。

 残された戦力で……必ず魔女を討ち果たすのだ……!

 私は……そのための時間を稼ぐ……!」


「父上……嫌だ、今離れるなんて――」


 悲痛な叫びが響く。


 その声に耳を傾けながら、エドワードは小さく目を細めた。


 そして最後に、深い愛情を宿した表情で、

 震える息子へそっと手を伸ばし――


 ガブリエウの首筋を、的確な一点へ打ち込んだ。


「……すまない、ガブリエウ」


「――ぁ……」


 ガブリエウの身体から力が抜ける。

 崩れ落ちる息子を、エドワードは優しく抱き止めた。


 胸から溢れた血が、ガブリエウの頬へ静かに落ちた。


 そっと地面へ横たえると、エドワードは顔を上げ、

 少し離れた場所で青ざめて立ち尽くしているパイヤンへ向け、鋭い声を放った。


「パイヤン殿……! 後のことは頼みましたぞ……!」


 声を聞いた瞬間、パイヤンが駆け寄る。

 その顔は蒼白に染まり、固く結ばれた唇は震えていた。


 握りしめた拳には、

 恐怖と動揺を必死で抑え込んでいる様子がありありと滲んでいる。


 パイヤンはエドワードの姿を見つめ――

 やがて、その覚悟に押し出されるように深く頭を下げた。


「……わかりました!

 ガブリエウ君は必ず守ります! どうか……ご武運を……!」


 エドワードが微かに頷く。

 それを合図に、パイヤンは意を決したようにガブリエウを抱え上げた。


 風を纏い、跳ぶ。

 一度だけ――まるで別れを刻みつけるかのように振り返り、

 次の瞬間には、本部の方角へ疾風となって消えていった。


 その背が視界から消えるのを見届け、

 エドワードは、残された命を削るように息を吐いた。


 ――私の……最後の務めだ。


 次の瞬間、耳を裂く轟音。

 激烈な風が渦を巻き、砂埃を叩き上げ、視界を白く塗り潰す。


 その嵐の中心で、血に濡れた身体をなお前へ押し出しながら、

 エドワードは、禍々しい魔力の発生源へと突撃する。


 そこにいたのは――女。


 漆黒の髪が不規則に揺れ、

 倒れ伏す少女へ向けられた白く細い指先から、

 黒い霧が、毒のように滴り落ちている。


 それは“絶望が形を成した”かのような異様さだった。


 エドワードは一瞬だけ躊躇する。


 かつて相対した魔女は、

 禍々しくとも、確かに“実体”を持つ存在だった。


 だが、目の前のそれは違う。


 輪郭は闇に侵食され、黒く揺らぎ、

 形を保っているのかさえ曖昧で、

 まるで闇が、人を真似て立っているようだった。


 その異様さに、呼吸が止まる。


 ――だが、迷いは一瞬で断ち切られた。


 あれは――

 我が故郷ダーマンベルクを滅ぼし、

 父アルベルトの命を奪った魔女。


 姿がどう変わろうと、

 この禍々しい気配だけは、決して誤りようがない。


 エドワードは呼吸を整え、間合いを測る。

 足を半歩ずらし、腰を落とし――

 静かに刃へ、風属性の魔力を流し込んだ。


 そして。


「――はあああああッ!!」


 気迫とともに抜かれた刀が、

 疾風と閃光をまとい、宙を裂く。


 一筋の白光。

 それは魔女の影を、真っ二つに断ち割らんと迫った。


 ――残された力は、ただ“この一太刀”のみ。

   この一刀に……すべてを賭ける!!


 だが、その渾身の一閃は――

 魔女の目前に突如として生まれた“漆黒の壁”にあっさりと受け止められた。


 甲高い悲鳴。

 刃先が弾かれ、衝撃が右腕を痺れさせる。


「……なっ、ば、馬鹿なっ――!?」


 よろめきながら後退し、息を呑む。


 生涯をかけて磨き抜いた誇りの剣。

 そのすべてが――

 あまりにも無力に、砕け散った。


 その衝撃は、胸の奥深くまで鋭く突き刺さった。


 ――無念……。

   これほど研鑽を重ねても、なお埋まらぬ“力の差”があるというのか……。


 胸の奥が激しく波打ち、苦い熱が喉を焼く。


 しかし魔女は、そんなエドワードをただ静かに見つめ返した。


 その瞳には、勝者の驕りなど一片もなく――

 むしろ、深い哀れみすら滲んでいた。


「風の加護しかない……それに属性値もごく平凡。

 私だったら絶対耐えられないわ……

 きっと、生きていることすら苦痛で仕方ないと思うの」


 魔女はゆっくり首を傾げ、ほんの少しだけ柔らかな声で続けた。


「なのに……あなたはどうして……

 どうしてそこまでの境地に、辿り着けたの……?」


 問いかけに、エドワードは返す言葉すら持てなかった。

 ふらつく足でなんとか立っているだけでも精一杯だ。


 口元から、鮮血が静かに滴り落ちる。


「どれだけ極めたところで、四属性の混合防御壁を展開すれば、

 簡単に防げてしまうのに……」


 その言葉は嘲りではなく――

 ただ圧倒的な現実を告げるだけの、“静かな真実”だった。


 エドワードの意識は、ゆっくりと遠のいていく。


「……え……?

 それって……もしかして……」


 魔女の声が、わずかに揺れた。


「私のため、だったんですか……っ!?」


 ――何を言っている……。


 その言葉の意味を考えようとして、

 だが思考は、そこまで辿り着かなかった。


 問いに応える力も、

 問いを理解しようとする意識も、

 もはや、残っていない。


 それが現実なのか、幻なのか――

 判別する余地すら、静かに溶けていく。


 揺れる視界の向こうで、

 魔女が駆け寄ってくるのが見えた。


 先ほどまでの威厳は消え失せ、

 そこにいるのは、ただの“無防備で儚げな少女”だった。


「お願い……! 目を閉じないで……!

 私を置いて逝かないで……!

 このままひとりにされたら……もう私……生きていけない……っ!!」


 必死な声が、遠くで響く。


 だが――

 その声は、もう届かない。


 口の端から血が溢れ、

 全身から、静かに力が抜けていく。


 そして――

 エドワードは、その場に崩れ落ちた。


 ――セシリア……すまない。

   君が愛してくれた……ダーマンベルクを……

   結局、私は……取り戻せなかった……。


 視界が暗闇へ溶けてゆく。

 その中で、エドワードは亡き妻の面影を思い浮かべる。


 いつも優しく微笑んでいた彼女へ、

 胸の奥で何度も、何度も謝罪を重ねる。


 ――君が待つ世界で……

   せめて許しを……請うことができるだろうか……。


 やがてその意識は、

 静かに――永遠の闇へと溶けていった。


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