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第69話:ガブリエウ物語

 ――酷い頭痛だ。身体も鉛のように重い。

   もう眠りたいのに……身体が勝手に動く。この声のせいだ。


『目の前にいる王血部隊を、皆殺しにしろ』


 ――まぁ……いいさ。

   母上を殺した王家。

   それに従う王血部隊。

   どうせ、全部ボクの敵なんだ。


 霞む視界の向こうで、

 誰かが必死に防御壁を張っているのが見えた。


 ――誰だ……?

   もうよく見えない……。

   でも、どうでもいい。


 全部まとめて……

 混合魔法で切り刻めば、終わる。


 防御壁が砕け散る音が、遠くで響いた。


 ――ほら……これでやっと、静かになる……。

   ようやく、眠れる……。


   ……いや。

   まだ、一人残っているのか……?


   でも、もうどうでもいい。

   ボクの身体なんて、勝手に動かせばいいさ。


   ……ボクはもう限界なんだ。


 ガブリエウの意識は、

 ゆっくりと、深い闇へ沈んでいく。


 その闇の底には、

 決して消えぬ、忌まわしい記憶が横たわっていた。


 意識は急速に、

 過去へと引きずり戻されていく――。





――忌まわしき日々の記憶――


 シングウ王国には、数多くの貴族が存在する。

 その中でも最高位に位置する五家は、“ファイブマン”と呼ばれていた。

 第一貴族から第五貴族まで――明確な序列をもって、王国の中枢を支えてきた家々だ。


 その筆頭こそが、第一貴族・テックマン家である。


 かつて彼らは、ダーマンベルク地方に広大な領地を有し、

 軍事・経済の両面で、他の追随を許さぬ勢力を誇っていた。


 しかし――十九年前。


 魔女に率いられたアルグランド王国の軍勢が、

 ダーマンベルク地方へ、予告もなく襲来した。


 この危機に際し、防衛を託されたテックマン家は、

 シングウ王国のため、すべてを賭して戦う道を選んだ。


 後に「ダーマンベルクの惨劇」と呼ばれるその戦いで、

 当主であった祖父アルベルトは、備える間もなく、戦場へと立たされた。


 それでも彼は退かなかった。

 わずかな兵を率い、少しでも侵攻を遅らせようと、最後まで剣を振るった。


 ――だが、その奮戦も虚しく。

 アルベルトは戦死し、ダーマンベルク地方は陥落した。


 広大な領地は、アルグランド王国の支配下へと落ちる。


 領地を失ったテックマン家は、

 家臣団を抱えたまま、王家の金銭的援助と配給に頼らざるを得なくなった。


 支援は続けられた。

 だがその暮らしは、もはや“貴族”の名にふさわしいものではなかった。


 国庫への負担が増すにつれ、

 王都では、次第に不満の声が囁かれるようになる。


「没落した家柄に、いつまで国の富を投じるつもりだ?」

「配給に頼るなど、乞食と何が違う」

「そんな家が、第一貴族だと?」


 こうした言葉は、テックマン家の名誉を深く傷つけるだけでなく、

 容赦なく――次の世代へと向けられていった。


 貴族学校に通っていたテックマン家の子供たち。

 ガブリエウと、その兄アーヴィングは、

 幼い頃から、嘲笑と蔑視の的だった。


「あいつら、乞食貴族なんだって」

「近づくな、貧乏が移るぞ」

「貴族学校から出ていけ!」


 ある日の帰り道。

 学校で受けた執拗な嫌がらせに、ガブリエウの心は限界に達していた。


 歩きながら、ぽつりと零す。


「ボクたち……乞食で、貧乏だから……もう貴族じゃないの?」


 その言葉に、母は一瞬だけ足を止めた。

 ほんの刹那、悲しげな影が瞳をよぎる。


 隣で聞いていた兄アーヴィングも、抑え込んでいた感情を吐き出すように声を震わせた。


「俺も……先生に言われたんだ。

 『お前の祖父アルベルトが負けたせいで、シングウ王国は広大な領土を失った。非国民だ』って……」


 普段は弟を守ってくれる兄の声も、この日ばかりは弱々しく揺れていた。


 母は静かに息をつくと、二人をそっと抱き寄せる。


「ガブ、それにアーヴ。

 テックマン家は、シングウ王国のために戦い、命を賭した家なのよ。

 落ちぶれたなんて言葉、気にする必要はないわ」


「でも……」


「いいえ、胸を張りなさい」


 母は二人の目を、まっすぐに見つめた。


「あなたたちはテックマン家の子なの。

 祖父アルベルトが“ダーマンベルクの惨劇”で守ろうとしたものを、確かに引き継いでいるのよ。

 その誇りを、決して忘れてはいけないわ」


 その声には、揺るぎない誇りが宿っていた。


「誰かを恨んでも、幸せにはなれない。

 今は堪える時よ。

 そしていつか――あなたたち自身の手で、ダーマンベルクを取り戻すの」


 母はそう言って、二人の頭を撫で、ふっと柔らかく笑った。


 そして「お歌を歌いましょう」と言い、

 三人でダーマンベルク地方の歌を口ずさんだ。


 その歌は――

 母が心から愛してきた故郷を讃えるものだった。


 歌っているうちに、まだ見ぬ故郷の穏やかな風が、

 ガブリエウとアーヴィングの心にもそっと吹き抜けていくようだった。


 母は、ダーマンベルクの話をするのが好きだった。

 語るたび、その瞳は輝き、まるで本当にそこに立っているかのようだった。


「ガブ。ダーマンベルクは本当に素晴らしい場所なのよ。

 広大な草原、風に揺れる小麦畑、青空の下で働く人々……。

 あそこにはね、希望があるの。

 みんなを笑顔にする、温かくて豊かな土地なのよ」


 母が語るダーマンベルクの話は、

 ガブリエウにとって、何よりも特別な時間だった。


 目を閉じれば、まだ見ぬ草原が広がる。

 風に揺れる大地と、そこで笑う人々の姿。


 母の言葉に導かれるように、ガブリエウは胸の奥で誓った。


 ――ボクが、いつか必ず取り戻すんだ。


 その日を境に、兄弟は泣かなくなった。

 いじめに屈することもなく、

 貴族としての誇りを、黙って示し続けた。


 母が教えてくれた、“堪える強さ”を胸に抱きながら。


「負けるな、ガブ。今は耐えよう。

 俺たちが必ずダーマンベルクを取り戻して、あいつらを見返してやるんだ。

 母さんの言葉を、信じよう」


 兄アーヴィングのその言葉と、

 母の穏やかな微笑みは、

 揺れやすいガブリエウの心を確かに支えていた。


 どれほど辛い日でも、

 母の声を思い出せば、不思議と立ち上がれた。


 ガブリエウにとって、母が語るダーマンベルクの景色は――

 どんな闇の中でも消えない、希望の光だった。


 だが、いつの頃からか、

 テックマン家への配給は、目に見えて変わり始めた。


 量は減り、質も落ち、

 腐りかけた食料が混じることも増えた。

 屋敷に残っていた使用人たちは、

 一人、また一人と姿を消し――

 ついには、誰もいなくなった。


 それでも母は、

 子供たちに空腹を悟らせまいと、

 食卓に笑顔を絶やさなかった。


 しかし、その努力にもやがて限界が訪れる。


「今日のご飯……これだけなの……?」


 ぽつりと漏れたガブリエウの声に、

 母はほんの一瞬だけ、眉を下げた。


 しかしすぐに、いつもの優しい笑みを取り戻す。


「ガブ、アーブ、お母さんは平気よ。

 お腹なんて空いていないから、あなたたちが全部食べなさい」


 母の分まで口に運ぶたび、

 胸の奥が、じくりと痛んだ。


 自分が母を苦しめていると分かっていても、

 耐えがたい空腹に、手を止めることはできなかった。


 やがて母は、体調を崩した。

 それでも弱音を吐くことはなく、いつもと変わらない優しい声で二人に語りかけた。


「私たちは……シングウ王国に感謝しなければならないのよ。

 領地を失っても、こうして長い間支えていただいたのだから。

 ねえ、ガブ、アーヴ。今は堪える時なの。

 誰かを恨んでも幸せにはなれないわ。

 未来はね、自分たちの手で切り開くものなのよ」


「あなたたちは――いつか必ずダーマンベルクを取り戻すの。

 その日のために、たくさん食べて、強くならなくちゃ。

 ……お母さんのことは、心配しなくていいのよ」


 その声には、変わることのない愛情と、

 決して折れぬ信念が宿っていた。


 けれど――

 言葉とは裏腹に、母の身体は日を追うごとに衰えていった。


 やせ細っていく指先。

 力なく揺れる肩。

 深い咳をこらえながら、それでも浮かべる微笑み。


 その一つ一つが、

 ガブリエウの胸の奥に、

 冷たく重い塊となって溜まっていった。


 そして――母は、ついに倒れた。


 その日、ガブリエウは母を救うため、街中を駆け回った。

 薬を求め、何軒もの店を回ったが、

 必要な薬はどれも高価で、

 配給に頼るテックマン家には手の届かないものばかりだった。


 帰り道。


 肩を落とし、引きずるように歩く足取り。

 胸の奥では、どうしようもない無力感が、

 渦を巻いて膨らんでいく。


「……母さん、ごめん……」


 かすれた声で呟きながら帰宅したガブリエウを、

 母は衰弱した顔のまま、それでも穏やかに迎え入れた。


「ガブ……あなたは、よく頑張ってくれたわ。

 お母さんには、本当にもう何もいらないの。

 ただ……あなたがそばにいてくれるだけで、幸せよ」


 その手は、驚くほど冷たく、細かった。

 けれど触れた瞬間、

 ガブリエウの胸には、かすかな温もりが灯った。


 その夜、母は力の抜けた声で、

 ぽつり、ぽつりと語り始めた。


「ああ……でもね……。

 もう一度だけ、ダーマンベルクの……

 あの美しい景色が見られたら……

 どんなに、幸せでしょうね……」


 短い沈黙のあと、母は微笑んだ。


「ガブ……。

 いつか……私たちのダーマンベルクを……

 取り戻してね……」


 ガブリエウは涙をこらえながら、

 何度も、何度も頷いた。


「うん……うん……」


 冷たい手を両手で包み込み、

 離さぬよう、強く握りしめながら。


 ――その言葉を最後に、

 母の意識が戻ることは、なかった。


 翌朝。


 母の傍らに座っていたガブリエウのもとへ、

 父エドワードと兄アーヴィングが、音を立てぬようそっとやってきた。


 三人は寄り添うように腰を下ろし、

 静かに横たわる母を見守った。


 やがて、母の呼吸が――

 ゆっくりと、浅く、そして弱くなっていく。


 その様子を見つめながら、

 父エドワードが、かすかな声で口を開いた。


「……お母さんは、きっと今、

 ダーマンベルクで暮らす夢を見ているんだ。

 だから……このまま、静かに見守ってあげよう」


 その言葉を聞きながら、

 ガブリエウは母の顔から目を離せずにいた。


 唇が、わずかに震える。


「お母さん……死んじゃうの……?」


 誰も、その問いに答えることはできなかった。


 ただ、

 穏やかな表情のまま眠る母を見つめ、

 三人は黙って、その場に座り続けた。


 そして、その日のうちに、

 母は、静かに息を引き取った。


 最後まで母の手を握り続けていたガブリエウの胸には、

 深い喪失と、

 どうすることもできなかった自分への悔しさが、

 重く、深く刻み込まれていった。


 翌日。


 ガブリエウは父エドワード、兄アーヴィングとともに、

 シングウ城へ登城した。


 王家への挨拶と、

 テックマン家の現状を報告するため――

 そう説明されても、

 ガブリエウの心は、まだ悲しみの底に沈んだままだった。


 ――だが。


 城内へ足を踏み入れた、その瞬間。

 ガブリエウの胸に、別の感情が、ゆっくりと芽生え始めた。


 荘厳な廊下には、

 山のような食料や薬品が、次々と運び込まれている。


 整然と積み上げられた物資の数々。


 それは、

 つい昨日まで、母が命を削りながら耐え続け、

 口にすることすら叶わなかった――

 あの屋敷の日々と、

 あまりにも、あまりにも、かけ離れていた。


 廊下を行き交う王血部隊の生徒たちは、

 王族の血筋にふさわしい制服をまとい、

 静かで、揺るぎのない足取りで通り過ぎていく。


 その姿は、

 民の犠牲や痛みとは無縁であるかのようだった。


 “恵まれた者が、恵まれていることにすら気づかず生きる世界”。


 その現実が、

 何の違和感もなく、目の前に広がっていた。


 ガブリエウは無意識に拳を握りしめた。

 母が命を削り、堪え続けた日々の記憶が、まざまざと脳裏によみがえったからだ。


「俺たちの家族がどれだけ耐えたか……誰も気にしていないんだな……」


 隣でアーヴィングが、苦々しい表情のまま低く呟いた。


 その一言は、

 ガブリエウが胸の奥に押し込めていた疑念を、

 はっきりとした“形”にしてしまった。


 王国のために命をかけた祖父。

 すべてを捧げ、最後は命を落とした母。


 その母が最期を迎えた屋敷と、

 十分な物資に囲まれたこの城との落差。


 ――自分たちは、見捨てられたのではないか。


 そんな思いが胸の底へずしりと沈んでいく。


 堂々とそびえる王城は、

 ガブリエウたちを守るはずの“象徴”ではなく、

 手の届かない別世界そのものに見えた。


 そして、心の奥底にひとつの疑念が浮かび上がる。


 ――母があれほど信じて、堪えてきたことに……

   果たして意味はあったのだろうか?


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