第69話:ガブリエウ物語
――酷い頭痛だ。身体も鉛のように重い。
もう眠りたいのに……身体が勝手に動く。この声のせいだ。
『目の前にいる王血部隊を、皆殺しにしろ』
――まぁ……いいさ。
母上を殺した王家。
それに従う王血部隊。
どうせ、全部ボクの敵なんだ。
霞む視界の向こうで、
誰かが必死に防御壁を張っているのが見えた。
――誰だ……?
もうよく見えない……。
でも、どうでもいい。
全部まとめて……
混合魔法で切り刻めば、終わる。
防御壁が砕け散る音が、遠くで響いた。
――ほら……これでやっと、静かになる……。
ようやく、眠れる……。
……いや。
まだ、一人残っているのか……?
でも、もうどうでもいい。
ボクの身体なんて、勝手に動かせばいいさ。
……ボクはもう限界なんだ。
ガブリエウの意識は、
ゆっくりと、深い闇へ沈んでいく。
その闇の底には、
決して消えぬ、忌まわしい記憶が横たわっていた。
意識は急速に、
過去へと引きずり戻されていく――。
◇
――忌まわしき日々の記憶――
シングウ王国には、数多くの貴族が存在する。
その中でも最高位に位置する五家は、“ファイブマン”と呼ばれていた。
第一貴族から第五貴族まで――明確な序列をもって、王国の中枢を支えてきた家々だ。
その筆頭こそが、第一貴族・テックマン家である。
かつて彼らは、ダーマンベルク地方に広大な領地を有し、
軍事・経済の両面で、他の追随を許さぬ勢力を誇っていた。
しかし――十九年前。
魔女に率いられたアルグランド王国の軍勢が、
ダーマンベルク地方へ、予告もなく襲来した。
この危機に際し、防衛を託されたテックマン家は、
シングウ王国のため、すべてを賭して戦う道を選んだ。
後に「ダーマンベルクの惨劇」と呼ばれるその戦いで、
当主であった祖父アルベルトは、備える間もなく、戦場へと立たされた。
それでも彼は退かなかった。
わずかな兵を率い、少しでも侵攻を遅らせようと、最後まで剣を振るった。
――だが、その奮戦も虚しく。
アルベルトは戦死し、ダーマンベルク地方は陥落した。
広大な領地は、アルグランド王国の支配下へと落ちる。
領地を失ったテックマン家は、
家臣団を抱えたまま、王家の金銭的援助と配給に頼らざるを得なくなった。
支援は続けられた。
だがその暮らしは、もはや“貴族”の名にふさわしいものではなかった。
国庫への負担が増すにつれ、
王都では、次第に不満の声が囁かれるようになる。
「没落した家柄に、いつまで国の富を投じるつもりだ?」
「配給に頼るなど、乞食と何が違う」
「そんな家が、第一貴族だと?」
こうした言葉は、テックマン家の名誉を深く傷つけるだけでなく、
容赦なく――次の世代へと向けられていった。
貴族学校に通っていたテックマン家の子供たち。
ガブリエウと、その兄アーヴィングは、
幼い頃から、嘲笑と蔑視の的だった。
「あいつら、乞食貴族なんだって」
「近づくな、貧乏が移るぞ」
「貴族学校から出ていけ!」
ある日の帰り道。
学校で受けた執拗な嫌がらせに、ガブリエウの心は限界に達していた。
歩きながら、ぽつりと零す。
「ボクたち……乞食で、貧乏だから……もう貴族じゃないの?」
その言葉に、母は一瞬だけ足を止めた。
ほんの刹那、悲しげな影が瞳をよぎる。
隣で聞いていた兄アーヴィングも、抑え込んでいた感情を吐き出すように声を震わせた。
「俺も……先生に言われたんだ。
『お前の祖父アルベルトが負けたせいで、シングウ王国は広大な領土を失った。非国民だ』って……」
普段は弟を守ってくれる兄の声も、この日ばかりは弱々しく揺れていた。
母は静かに息をつくと、二人をそっと抱き寄せる。
「ガブ、それにアーヴ。
テックマン家は、シングウ王国のために戦い、命を賭した家なのよ。
落ちぶれたなんて言葉、気にする必要はないわ」
「でも……」
「いいえ、胸を張りなさい」
母は二人の目を、まっすぐに見つめた。
「あなたたちはテックマン家の子なの。
祖父アルベルトが“ダーマンベルクの惨劇”で守ろうとしたものを、確かに引き継いでいるのよ。
その誇りを、決して忘れてはいけないわ」
その声には、揺るぎない誇りが宿っていた。
「誰かを恨んでも、幸せにはなれない。
今は堪える時よ。
そしていつか――あなたたち自身の手で、ダーマンベルクを取り戻すの」
母はそう言って、二人の頭を撫で、ふっと柔らかく笑った。
そして「お歌を歌いましょう」と言い、
三人でダーマンベルク地方の歌を口ずさんだ。
その歌は――
母が心から愛してきた故郷を讃えるものだった。
歌っているうちに、まだ見ぬ故郷の穏やかな風が、
ガブリエウとアーヴィングの心にもそっと吹き抜けていくようだった。
母は、ダーマンベルクの話をするのが好きだった。
語るたび、その瞳は輝き、まるで本当にそこに立っているかのようだった。
「ガブ。ダーマンベルクは本当に素晴らしい場所なのよ。
広大な草原、風に揺れる小麦畑、青空の下で働く人々……。
あそこにはね、希望があるの。
みんなを笑顔にする、温かくて豊かな土地なのよ」
母が語るダーマンベルクの話は、
ガブリエウにとって、何よりも特別な時間だった。
目を閉じれば、まだ見ぬ草原が広がる。
風に揺れる大地と、そこで笑う人々の姿。
母の言葉に導かれるように、ガブリエウは胸の奥で誓った。
――ボクが、いつか必ず取り戻すんだ。
その日を境に、兄弟は泣かなくなった。
いじめに屈することもなく、
貴族としての誇りを、黙って示し続けた。
母が教えてくれた、“堪える強さ”を胸に抱きながら。
「負けるな、ガブ。今は耐えよう。
俺たちが必ずダーマンベルクを取り戻して、あいつらを見返してやるんだ。
母さんの言葉を、信じよう」
兄アーヴィングのその言葉と、
母の穏やかな微笑みは、
揺れやすいガブリエウの心を確かに支えていた。
どれほど辛い日でも、
母の声を思い出せば、不思議と立ち上がれた。
ガブリエウにとって、母が語るダーマンベルクの景色は――
どんな闇の中でも消えない、希望の光だった。
だが、いつの頃からか、
テックマン家への配給は、目に見えて変わり始めた。
量は減り、質も落ち、
腐りかけた食料が混じることも増えた。
屋敷に残っていた使用人たちは、
一人、また一人と姿を消し――
ついには、誰もいなくなった。
それでも母は、
子供たちに空腹を悟らせまいと、
食卓に笑顔を絶やさなかった。
しかし、その努力にもやがて限界が訪れる。
「今日のご飯……これだけなの……?」
ぽつりと漏れたガブリエウの声に、
母はほんの一瞬だけ、眉を下げた。
しかしすぐに、いつもの優しい笑みを取り戻す。
「ガブ、アーブ、お母さんは平気よ。
お腹なんて空いていないから、あなたたちが全部食べなさい」
母の分まで口に運ぶたび、
胸の奥が、じくりと痛んだ。
自分が母を苦しめていると分かっていても、
耐えがたい空腹に、手を止めることはできなかった。
やがて母は、体調を崩した。
それでも弱音を吐くことはなく、いつもと変わらない優しい声で二人に語りかけた。
「私たちは……シングウ王国に感謝しなければならないのよ。
領地を失っても、こうして長い間支えていただいたのだから。
ねえ、ガブ、アーヴ。今は堪える時なの。
誰かを恨んでも幸せにはなれないわ。
未来はね、自分たちの手で切り開くものなのよ」
「あなたたちは――いつか必ずダーマンベルクを取り戻すの。
その日のために、たくさん食べて、強くならなくちゃ。
……お母さんのことは、心配しなくていいのよ」
その声には、変わることのない愛情と、
決して折れぬ信念が宿っていた。
けれど――
言葉とは裏腹に、母の身体は日を追うごとに衰えていった。
やせ細っていく指先。
力なく揺れる肩。
深い咳をこらえながら、それでも浮かべる微笑み。
その一つ一つが、
ガブリエウの胸の奥に、
冷たく重い塊となって溜まっていった。
そして――母は、ついに倒れた。
その日、ガブリエウは母を救うため、街中を駆け回った。
薬を求め、何軒もの店を回ったが、
必要な薬はどれも高価で、
配給に頼るテックマン家には手の届かないものばかりだった。
帰り道。
肩を落とし、引きずるように歩く足取り。
胸の奥では、どうしようもない無力感が、
渦を巻いて膨らんでいく。
「……母さん、ごめん……」
かすれた声で呟きながら帰宅したガブリエウを、
母は衰弱した顔のまま、それでも穏やかに迎え入れた。
「ガブ……あなたは、よく頑張ってくれたわ。
お母さんには、本当にもう何もいらないの。
ただ……あなたがそばにいてくれるだけで、幸せよ」
その手は、驚くほど冷たく、細かった。
けれど触れた瞬間、
ガブリエウの胸には、かすかな温もりが灯った。
その夜、母は力の抜けた声で、
ぽつり、ぽつりと語り始めた。
「ああ……でもね……。
もう一度だけ、ダーマンベルクの……
あの美しい景色が見られたら……
どんなに、幸せでしょうね……」
短い沈黙のあと、母は微笑んだ。
「ガブ……。
いつか……私たちのダーマンベルクを……
取り戻してね……」
ガブリエウは涙をこらえながら、
何度も、何度も頷いた。
「うん……うん……」
冷たい手を両手で包み込み、
離さぬよう、強く握りしめながら。
――その言葉を最後に、
母の意識が戻ることは、なかった。
翌朝。
母の傍らに座っていたガブリエウのもとへ、
父エドワードと兄アーヴィングが、音を立てぬようそっとやってきた。
三人は寄り添うように腰を下ろし、
静かに横たわる母を見守った。
やがて、母の呼吸が――
ゆっくりと、浅く、そして弱くなっていく。
その様子を見つめながら、
父エドワードが、かすかな声で口を開いた。
「……お母さんは、きっと今、
ダーマンベルクで暮らす夢を見ているんだ。
だから……このまま、静かに見守ってあげよう」
その言葉を聞きながら、
ガブリエウは母の顔から目を離せずにいた。
唇が、わずかに震える。
「お母さん……死んじゃうの……?」
誰も、その問いに答えることはできなかった。
ただ、
穏やかな表情のまま眠る母を見つめ、
三人は黙って、その場に座り続けた。
そして、その日のうちに、
母は、静かに息を引き取った。
最後まで母の手を握り続けていたガブリエウの胸には、
深い喪失と、
どうすることもできなかった自分への悔しさが、
重く、深く刻み込まれていった。
翌日。
ガブリエウは父エドワード、兄アーヴィングとともに、
シングウ城へ登城した。
王家への挨拶と、
テックマン家の現状を報告するため――
そう説明されても、
ガブリエウの心は、まだ悲しみの底に沈んだままだった。
――だが。
城内へ足を踏み入れた、その瞬間。
ガブリエウの胸に、別の感情が、ゆっくりと芽生え始めた。
荘厳な廊下には、
山のような食料や薬品が、次々と運び込まれている。
整然と積み上げられた物資の数々。
それは、
つい昨日まで、母が命を削りながら耐え続け、
口にすることすら叶わなかった――
あの屋敷の日々と、
あまりにも、あまりにも、かけ離れていた。
廊下を行き交う王血部隊の生徒たちは、
王族の血筋にふさわしい制服をまとい、
静かで、揺るぎのない足取りで通り過ぎていく。
その姿は、
民の犠牲や痛みとは無縁であるかのようだった。
“恵まれた者が、恵まれていることにすら気づかず生きる世界”。
その現実が、
何の違和感もなく、目の前に広がっていた。
ガブリエウは無意識に拳を握りしめた。
母が命を削り、堪え続けた日々の記憶が、まざまざと脳裏によみがえったからだ。
「俺たちの家族がどれだけ耐えたか……誰も気にしていないんだな……」
隣でアーヴィングが、苦々しい表情のまま低く呟いた。
その一言は、
ガブリエウが胸の奥に押し込めていた疑念を、
はっきりとした“形”にしてしまった。
王国のために命をかけた祖父。
すべてを捧げ、最後は命を落とした母。
その母が最期を迎えた屋敷と、
十分な物資に囲まれたこの城との落差。
――自分たちは、見捨てられたのではないか。
そんな思いが胸の底へずしりと沈んでいく。
堂々とそびえる王城は、
ガブリエウたちを守るはずの“象徴”ではなく、
手の届かない別世界そのものに見えた。
そして、心の奥底にひとつの疑念が浮かび上がる。
――母があれほど信じて、堪えてきたことに……
果たして意味はあったのだろうか?




