第68話:魔法競技祭当日――風属性を極めし者
予想していた衝撃は、訪れなかった。
代わりに叩きつけられたのは、耳を裂くほどの烈風。
連続して砕け散る結晶の甲高い破砕音。
そして――すべてが終わったあと、
静かに刀が鞘へ収まる、澄んだ余韻だけだった。
「パイヤン殿。よくぞ、一人で耐えられた」
落ち着き払った低い声音。
導かれるように、パイヤンは恐る恐る目を開ける。
視界の先にあったのは、
自分の前に、ただ立ちはだかる一つの背中だった。
風になびくマント。
静かに鞘へ収められた細身の刀。
場の空気を支配する、圧倒的な存在感。
――第一貴族、エドワード公。
なぜ、ここに……。
答えはすぐに思い至った。
一斉通信でアーヴィングからの救護要請が流れていた。
となれば――
テックマン家が関与する、残された戦場は――ここしかない。
エドワード公は振り返らず、静かに言葉を放つ。
「……しかしパイヤン殿。
君はまだ、風属性というものの“真髄”を理解しておられないようだ」
その瞬間――
ガブリエウが再び動いた。
風と土を融合させた無数の結晶を空中へ展開し、
二人を標的に、一斉射出する。
「風属性とは――」
エドワード公は鞘に添えた手を、わずかに動かした。
刹那、刀身に宿る風の魔力が淡い光を帯びる。
呼吸一つ。間合いを測り――
攻撃が射程に完全に入りきった瞬間。
爆ぜたような疾風と共に、エドワード公が抜刀した。
一閃目で空気が裂け、白い軌跡が舞う。
次の瞬間――視認すら不可能な速度で、二閃目、三閃目、そして数え切れぬ斬撃が空間を奔った。
空を埋め尽くしていた混合結晶は、寸分違わず斬り刻まれ、
細かな破片となって四散しながら、風の余韻に溶けるように消えていく。
砕け散る音はやがて止み――戦場には風のざわめきと静寂だけが残った。
「――すべてを一瞬に凝縮する爆発的な速度と鋭さ。
それこそが風属性の真価」
エドワード公は静かに、刀を再び鞘へと戻した。
その所作はあまりにも滑らかで――
まるで最初から、ここは自分が支配しているかのようでさえあった。
「速さとは単なる武器ではない。己の覚悟と心を乗せるための“器”なのだ」
言い終えた彼の姿から漂う威風は、
まさに風属性の極致を体現していた。
「さて、パイヤン殿は安全な場所で待機していてください。
あとは私が引き受けよう」
落ち着いた声音に、パイヤンは小さく頷いた。
全身は傷と疲労に覆われていたが、エドワード公への深い尊敬が胸に刻まれていた。
瞼を閉じれば、倒れ伏す仲間たちの姿が鮮やかに甦る。
あんな悲しい光景は二度と見たくない――だけど、今の自分では何も守れなかった。
ガブリエウに対して何一つ通じず、ただ救われただけ。
その事実が痛烈に胸を刺し、己の未熟さを嫌というほど思い知らされる。
パイヤンは唇を強く噛みしめると、
うつむいたまま傷ついた身体を引きずり、静かに物陰へと退いた。
◆
エドワードはゆっくりとガブリエウへ視線を向けた。
虚ろな瞳。
ふらつく足取り。
精神支配を受けているのは、もはや疑いようがない。
「ガブよ……お前は心が弱い。
故に、そのような精神支配に操られてしまうのだ……」
その言葉にも、反応はない。
ガブリエウはただ淡々と、
風と土を融合させた鋭い結晶を再び生成し、
容赦なくエドワードへ撃ち放した。
だが、その攻撃は――
先ほどと同じ。
磨き抜かれた剣技によって、
軽々と切り裂かれ、霧散していく。
――だが、まだ間に合うかもしれぬ。
この子は、精神を操られている。
自らの意思で、このクーデターに加担したわけではない。
――ならば……なんとしても救わねばならぬ。
そう判断した、次の瞬間だった。
「ぐぅあああああああああああああああああああああッ!!!!」
突如、ガブリエウが苦悶に満ちた咆哮を放つ。
虚ろだった瞳に、
一瞬だけ――正気の光が宿った。
だが、それは刹那。
次の瞬間、
瞳孔が大きく開き、全身が痙攣するように激しく震え出す。
制御を失った風の魔力が、内側から破裂するように噴き上がった。
「……ッ!?」
エドワードが目を細めた、その刹那――
ガブリエウは地面を蹴った。
弾丸のような踏み込み。
轟音とともに、一気に間合いを詰めてくる。
「――速い……!」
先ほどとは、次元が違う。
だが、驚愕は一瞬。
エドワードは深く、澄んだ呼吸を一つ。
鞘へ添えた手に、静かに風の魔力を流し込む。
静寂を纏った構え。
抜刀の刃は、すでに臨戦の極みにあった。
――だが。
刀が閃く、その直前。
エドワードの足元が、
突如、泥のように崩れ落ちた。
「――な、なんと……!」
完璧に整えられていた体勢が、一瞬で瓦解する。
身体は無防備に前へ傾き、踏ん張る余地すらない。
ガブリエウほど、エドワードの戦い方を知る者はいない。
幼い頃から憧れ、いつか超えたいと願い続けてきた父だった。
その研ぎ澄まされた剣技が、
強靭な足腰と正確無比な踏み込みの上に成り立っていることを――
誰よりも理解していた。
だからこそ、この“一瞬”を完璧に狙えたのだ。
――この体勢では捌けぬ……だが、逃げることも叶わぬか。
エドワードは崩れかけた身体を必死に立て直そうとし、
迫りくる一撃を、せめて一太刀だけでも受け止める覚悟を固めた。
ガブリエウの両腕に、風属性の魔力が刃となって凝縮する。
その瞳は依然として虚ろ。
だが動きには一切の迷いがなく、
胸の前に走る軌道は――寸分違わず、急所を射抜いていた。
次の瞬間。
ガブリエウは地面を深く踏み込み――
二刀を振り下ろすように、凄まじい刃を解き放った。
「ぐぅ……っ!」
エドワードも即座に抜刀し、渾身の斬撃で迎え撃つ。
しかしガブリエウの左腕の刃がその剣を正確に弾き飛ばし――
続く右腕の刃が、無防備となったエドワードの胸元を深々と貫いた。
激痛が全身を貫き、視界が赤に染まる。
裂けた胸から溢れた血が、花弁のように宙を舞った。
その瞬間だった。
ガブリエウの瞳に、ゆっくりと正気の光が戻っていく。
薄れゆく靄の中、徐々に輪郭を取り戻す“現実”。
その瞳は、驚愕と絶望へと一気に染まっていった。
「ち、父上……?
ボ、ボクは一体……何を……」
震える視線が、ゆっくりと下がっていく。
――そこにあったのは、
父エドワードの胸を、深々と貫いている自分の右腕だった。
堰を切ったように溢れ出す真紅の血が、
ガブリエウの腕を伝い、熱を持って滴り落ちていく。
思考が、完全に停止した。
息の仕方がわからない。
胸が締め付けられ、全身が氷のように強張る。
耳の奥では、狂ったように自分の心臓の鼓動だけが鳴り続けていた。
「……み、見事な動き……だったぞ……ガブ……」
エドワードは、かすかに口元を緩めた。
だがその直後、唇から血が溢れ、吐息とともに零れ落ちる。
『こちら本部――。
魔法陣の破壊、確認した。よくやった、イチサンセン。
これで精神操作の影響は消えるはずだ。
直ちに救護部隊を向かわせる。
その場で待機しろ。絶対に無理はするな。いいな?』
エドワードの腰に取り付けられた通信機から、
淡々とした報告が流れる。
だがその声は――
ガブリエウには、遠い世界の出来事のようにしか聞こえなかった。




