第60話:魔法競技祭当日――カイエンの蒼炎
脱出用のトンネルが閉じ切る、その瞬間。わずかな地響きが通路に伝わった。
――ちぃ……っ! 逃げられたか。
アーヴィングは舌打ちをして唇を噛む。
だが、通路の入口へ戻ったとき、そこには一人で立つカイエンの姿があった。
その光景を見た瞬間、アーヴィングの口元に、不敵な笑みが浮かぶ。
「これでようやく一対一だ。……本気で行かせてもらうぞ」
カイエンの声は静かだった。だが、その静けさの奥に、燃え上がるような熱があった。
アーヴィングは肩を揺らし、余裕を纏ったまま応じる。
「カイエン、君まで退いたかと思っていたが……よくぞ残ってくれた。礼を言おう。
モンドを確実に仕留め、君とこうして対峙する――これこそが、まさに私の描いた通りの展開なのだよ」
ゆっくりと、一歩。
アーヴィングは笑みを崩さず前へ進む。
カイエンは鼻先で軽く笑った。
「ハハッ、残念だったな。モンドは仕留め損なったようだぞ」
アーヴィングは微動だにしない。
むしろ、その笑みをさらに冷たく深めていく。
「モンドはすでに瀕死だ。仮に生き延びたとしても――あとからいくらでも始末はつけられるさ」
その瞳には、凍りつくような愉悦が宿っていた。
「君を倒せば、あのイチニセンを二人とも私が葬ったことになる。
――悪くない展開だと思わないか?」
アーヴィングは右手を高く掲げた。
その掌から、無数の水の矢が一斉に生まれる。狭い通路の幅いっぱいに展開され、逃げ場を奪うように放たれた。
「さあ、不利属性の炎で防ぐか――それとも、狭いこの場所で避けてみせるか!?」
カイエンは歯を食いしばり、即座に火属性の防御壁を展開。
後方へ跳びながら距離を取るが、水の矢は止まらない。
炎の壁を次々と削り取り、数本が貫通してカイエンの身体を浅く切り裂いた。
「……っく!」
焼けるような痛みが走る。呼吸が乱れ、体勢が一瞬だけ崩れた。
その隙を、アーヴィングは逃さない。
床が波打つように隆起し、氷の槍が突き出した。狙いは――心臓。
「速い……っ!」
カイエンは咄嗟に炎の旋風を纏い、無数の氷槍を激しく弾き飛ばす。
しかし全ては防ぎきれず、鋭い氷片が肩と脇腹をかすめた。
それでも、カイエンは奥歯を噛みしめ、右手に限界まで魔力を集中させる。
そして、腕を振り抜いた。
――灼熱の業火。
凝縮された炎が通路を一気に呑み込む。
だがアーヴィングは眉一つ動かさず、水の防御壁を瞬時に形成。
カイエンの炎をあっさりと防ぎきった。
その口元には、嘲笑にも似た余裕の笑みが浮かんでいる。
これが――覆しがたい属性の相性だった。
すぐさま、カイエンは通路の床に魔力を流し込み、無数の小爆発を連鎖的に起こす。
炎と煙と粉塵が渦を巻き、視界が一瞬で白濁した。
その混乱に乗じて、カイエンは一気に距離を取る。
壁の影に身を潜めた。
煙の奥から、アーヴィングの嘲笑が響き渡る。
「ハハッ……! 本気を出すんじゃなかったのか、カイエン?
属性の差は絶対的だ。小細工でどうにかなるとでも思っているのか?」
壁に背を預け、肩で激しく呼吸を整えるカイエン。
だがその口元には、微かな笑みが浮かんでいた。
「アーヴィング……その水属性、本来お前に備わっている力ではないな?」
その言葉に、煙の奥でわずかに空気が揺れた。
アーヴィングが息を呑む気配が、はっきりと伝わってくる。
先ほどまで余裕に満ちていた嘲笑は、氷のような沈黙に変わった。
――……やはり、そうか。
カイエンの瞳が、確信に近い光を宿す。
沈黙を破ったのはアーヴィングだった。
抑えきれない動揺が、その低い声の震えに滲む。
「……なぜ、わかった?」
カイエンは息を整え、冷静な声音で淡々と答えた。
「最初にモンドを襲った風の刃。あれは確かに見事だった。
お前が加護を持つ風属性によるものだろう」
「だが、風属性単体であれほどの速度と強度を出すのは不可能だ。
――すなわち、あの風の刃は、加護のない火属性と土属性で補助していたということ。
――すなわち、お前は魔力器を三つ持っている」
アーヴィングの唇がわずかに震える。
「お前の水魔法には初めから違和感があった。
根本的に、何かが欠けている。……まるで“借り物”のようにな」
カイエンの声が、低く鋭く響く。
「慎重に観察していたが――
やはり、お前は水属性を使うとき、魔力器を二つしか扱えないようだな」
「……黙れぇっ!」
アーヴィングが激昂の声を上げた。
怒りと焦りが混ざり合い、その魔力の奔流が空気を震わせる。
「それがどうした! 結局は属性相性だ!
君がこの私の水属性に勝つことなど――あり得ない!」
カイエンもまた、それを否定することはできなかった。
属性の相性という不利な現実は覆しようがない。
戦いを長引かせれば、確実に追い詰められる。
――やはり、あれを使うしかないか。
カイエンの瞳から迷いが消えた。
新魔法大会で披露するはずだった――誰も見たことのない切り札。
それを今、この場で解き放つしか道はない。
カイエンは静かに息を整え、意識を一点に集中させた。
「ブレイズモード・オン!」
鋭い叫びと共に、カイエンの全身が激しく発火したように赤く染まる。
次の瞬間、それは一気に高熱を放ち、青白く変化した。
炎は揺らめき、通路全体の空気が歪む。
やがて、鮮烈な青い光がすべてを包み、炎は静止した。
強烈な魔力の負荷に耐え切れず、カイエンの表情が苦痛に歪む。
額には大粒の汗が浮かび、全身の筋肉が軋むように震えた。
その間にも、アーヴィングはゆっくりと距離を詰めてくる。
冷たい足音が通路に反響し、不気味に空気を震わせた。
「無駄なあがきはやめろ、カイエン。勝負はすでについている。
――大人しく出てこい、楽に終わらせてやる」
カイエンは壁に背を預け、荒い息を吐きながら呟いた。
「……頼むぞ、俺の身体。持ちこたえてくれよ……」
アーヴィングが一歩、二歩と近づく。
その瞬間を――カイエンはじっと見計らっていた。
そして、刹那。
壁の影から飛び出す。
「――燃え尽きろ!!」
放たれたのは、青く燃え盛る渾身の業火。
アーヴィングの瞳に、一瞬の困惑が走る。
――……青い炎?
だがすぐに鼻で笑い、水の防御壁を展開。
属性の相性で負けるはずがない――そう信じていた。
しかしその瞬間。
青い炎が防御壁に触れた途端、轟音と共に蒸気が噴き上がった。
水の壁は激しく波打ち、溶けるように崩壊していく。
「なっ……!?」
驚愕の声が通路を震わせた。
アーヴィングは必死に魔力を注ぎ、防御壁を再構築しようとする――その刹那。
視界の端に、青白い光を纏ったカイエンの影が映った。
――いつの間に防御壁の背後まで回り込んだ……!?
アーヴィングの焦りを見透かすように、カイエンは薄く冷笑を浮かべる。
「俺を前にして、その慢心……命取りだ」
青い炎を宿したカイエンの右拳が、アーヴィングの頬を打ち抜いた。
鋭い衝撃が骨を砕き、青炎が肌を焼く。
アーヴィングの体は弾き飛ばされ、灼熱の衝撃にのたうちながら地面を転がった。
「ぐあああっ……!」
苦痛の叫びが通路に反響する。
カイエンは間髪を入れず距離を詰め、追撃に移ろうとした――。
「エレメントリライト!」
アーヴィングの叫びと同時に、その胸が鮮やかな緑光を放つ。
瞬間、彼の体が掻き消えるように視界から消え、数十メートル先へと跳躍していた。
だが、その体はなおも青炎に包まれ、燃え盛っている。
「くそぉおおおお……! エレメントリライト!」
再び魔法名を唱えると、アーヴィングの周囲に激しい水の旋風が巻き起こった。
沸騰した蒸気が白く立ちこめ、青炎の勢いを押し潰していく。
蒸気が晴れたとき――。
そこに立つアーヴィングの姿は、もはや見る影もなかった。
全身は裂かれ、焦げつき、呼吸すらままならぬ様子で、それでもなお――意地のように立ち尽くしていた。
一方のカイエンも無事ではなかった。
青炎を纏う代償はあまりに大きく、魔力は急速に枯渇していた。
肩で息をしながら、燃え尽きかけた炎がその身を包む。
「……はぁ、はぁ……っ」
もはや言葉を発することすらできず、意識は霞んでいた。
それでもカイエンは、最後の力を振り絞り――右手に、すべての魔力を集める。
その掌に灯る光は、もはや炎ではなかった。
見る者すべてを飲み込み、跡形もなく焼き尽くす、純粋な“力”そのもの。
青白い輝きは瞬く間に膨張し、通路を染め上げるほどの蒼炎が、音もなく広がっていく。
震える右手を、カイエンはアーヴィングに向けて突き出した。
アーヴィングには、もう一歩も動く力は残っていない。
ただ迫りくる死を悟り、絶望に染まった瞳で、その光景を見つめることしかできなかった。
――そして、蒼炎が放たれようとした、その刹那。
カイエンの瞳から、急速に光が失われた。
糸が切れたように崩れ落ち、その身体が静かに地へ倒れる。
蒼炎が放たれることは――なかった。
静寂が訪れる。
通路の壁と床には、二人の激闘の痕跡だけが深く刻まれていた。
くすぶる炎の煙と、消え残る蒸気がゆっくりと宙を漂う。
やがて、小さな火の粉がひとつ、
音もなく――静かに散った。




