第46話:魔法書室に見えた兆し
――魔法書室――
魔法書室は静まり返っていた。
古びた魔法書の紙をめくる音だけが、乾いた空気の中で淡く響く。
俺は机に肘をつき、開いた本をじっと見つめた。
何度も読み返した箇所なのに、まるで頭に入ってこない。
視線だけが、紙の上をさまよっていた。
――あの日から、もう一か月か。
“戦闘訓練場・弐”で、泥まみれのエミリが倒れていた光景。
それでも何度も立ち上がり、諦めずに挑み続けた姿。
その背中が、今も脳裏に焼き付いている。
あの日を境に、俺は魔法書室に籠もった。
もう逃げるのはやめた。
できない理由を探すのも、誰かのせいにするのもやめた。
本当は、とっくの昔から知っていたんだ。
手がかりがつかめなくなったラァラを探し出すことも、
エミリが期待する“転移者様”としての使命を果たすことも、
モラタが果たせなかった夢を引き継ぐことも――
それは全部、俺がやりたいことなんだ。
だから、どれも中途半端にはしない。
全部、やりきってみせる。
そのために、乙種クラスの授業で聞き流していた魔法理論を一から学び直した。
今では、理論上なら実戦レベルにも到達できる――そう自負している。
けれど、わかっている。
……それだけじゃ足りない。
俺には“加護”がない。
どれだけ理屈を極めても、力を持つ者たちには届かない。
――だからこそ、目指すしかない。
加護を超える何か。
誰も辿り着いたことのない、もうひとつ上の領域を。
その答えを探すために、俺はこの本を選んだ。
タイトルは『特殊魔法理論』。
この国でも、完璧に理解している奴は十人もいないと言われる、最難関の魔法書だ。
……けど、正直言って、無理ゲーすぎる。
何度読み返しても、理解しようとする意識を跳ね返すように、思考が止まる。
ため息を吐き、こめかみを押さえた。
そのとき、ふとモラタの言葉が蘇る。
「だから俺たちは、これからもずっと――
“ひたすら前に進み続ける最強のコンビ”なんだ」
あのときの笑顔。
あのときの瞳。
胸の奥が熱くなる。
立ち止まってる場合じゃない。
俺はもう、前に進むしかないんだ。
そう自分に言い聞かせ、再びページに視線を落としたその時――。
背後で、かすかな靴音がした。
「難しい本を手にしていらっしゃる」
落ち着いた低音。
けれど、その声には奇妙な圧があった。
反射的に振り返る。
そこにいたのは、見知らぬ男だった。
背筋はまっすぐで、無駄のない動き。
仕立てのいい黒の上着は埃ひとつなく、胸元には金糸の紋章が縫い込まれている。
どこか軍人にも似た威厳が漂っていた。
「だが――」
男は一歩、こちらへ踏み出した。
瞳の奥には、刃のような冷たさが光っている。
「そんな本を読んだところで、果たして意味はあるのかね?」
……は?
皮肉めいた響きに、思考が一瞬止まった。
だが男は構わず、ゆるやかに笑う。
「なるほど。難解な本を読んでいれば、自らの弱さを“努力”という言葉で覆い隠すことができる――便利ですな」
――何だこいつ。
胸の奥に、カッと熱が走った。
喉が勝手に動く。
「は? ……いきなり何なんだよ。こっちは真面目にやってんだけど」
「ヒカル君っ、し、失礼だよぉ!」
慌てた声が飛び込んできた。
振り向くと、魔法書棚の間からヒヨリさんが駆け寄ってくる。
息を弾ませながら、俺と男の間に立つ。
「お久しぶりでございます、エドワード公。ヒカルの無礼をお許しくださいませ!」
――公爵だって……!?
言葉が頭の中で弾けた。
目の前の男――エドワードと呼ばれた人物は、微動だにせず軽く頷く。
「これはヒヨリ殿、お久しぶりでございます」
穏やかな声。だがその奥には、鉄のような圧が潜んでいた。
ヒヨリさんが小声で囁く。
「ヒカル君、この方は……第一貴族、テックマン家当主のエドワード公だよっ!」
背筋が一瞬で冷たくなる。
心臓の鼓動が速まる音が、自分でもはっきり聞こえた。
「――っ! も、申し訳ありません!」
慌てて席を立つ。
椅子の脚が床を擦り、甲高い音を立てた。
深く頭を下げる。
「先ほどは無礼な態度をとり、大変申し訳ありません。ヒカルと申します!」
エドワード公はわずかに口元を緩めた。
「いや、こちらも少し言葉が過ぎた。気にすることはない」
柔らかい口調――だが、その声音にはどこか探るような響きがあった。
「ただし、ひとつ尋ねてもよいか。
その本を読んで……本当に“強くなれる”と、君は信じているのか?」
唐突な問いに、思わず顔を上げた。
まっすぐにエドワード公の瞳を見返す。
「もちろんです。この理論を理解できれば――」
「では問おう」
静かな声が、俺の言葉を断ち切った。
その瞳が、一瞬で鋭さを増す。
「その理論を完全に理解している数少ない者たちは、皆“最強”なのか?」
――息が詰まった。
反論の言葉が出てこない。
彼の言葉が、まるで胸の奥を突き刺したように響いた。
たしかに、その通りだ。
王国でも数人しか読み解けないとされるこの理論――。
だが、その研究者たちは決して最強の魔導士ではない。
彼らの知識は深くても、戦場では何も生み出せていない。
……俺は、ただ信じていた。
この『特殊魔法理論』を理解できれば、加護のない自分でも、“前に進む力”を手に入れられると。そのための答えが、ここにあると思い込んでいた。
だが――。
エドワード公の言葉が、その幻想を静かに打ち砕いた。
必死で掴もうとしていた希望の糸が、指の間からすり抜けていく。
道標を失ったような感覚。
重たい沈黙が流れ――その空気を破るように、ヒヨリさんが口を開いた。
「えっと……エドワード公。ヒカル君は今、本当に真面目に勉強して――」
「失礼――今は軍務の話だ。
軍隊から離れたあなたが口を挟むことではない」
エドワード公は厳しい口調で遮った。
その一言で、ヒヨリさんの言葉が凍りつく。
「我々は国家の安全を背負う立場にある。
理想ではなく、現実を語らねばならんのだ」
ヒヨリさんは唇を結び、俯いた。
握られた手が小さく震えている。
エドワード公は、ふっと息を吐くと、少しだけ口調を和らげた。
「……先ほどの非礼については詫びよう。
悪い癖でね、初対面の相手にはつい“試すような”物言いをしてしまう」
そう言って軽く頭を下げ、表情を少し緩める。
「実は、君のことはガスポール殿から聞いている。
無気力な日々を送っていると聞いていたが……思っていたよりずっと目がいい。
それに、その難解な本に挑むとは、大した根性だ」
真剣な眼差しが、俺をまっすぐ射抜いた。
その瞳には、もはや皮肉も嘲りもない。
ただ、何かを確かめようとする静かな意志だけが宿っていた。
短い沈黙のあと、エドワード公はゆっくりと頷き、再び口を開く。
「……一つ、提案がある。
私のもとで修業をしてみる気はないか?」
「――え?」
「成功の保証などないし、強くなる約束もできない。
だが、その本を睨み続けているよりは――まだ“可能性”があるだろう」
……可能性。
その言葉が胸に染み込んでいく。
込み上げてくるものを抑えきれず、思わず笑いが漏れた。
「ハハッ……」
この難解な本よりも“可能性”がある、だって?
そんなの、俺に言わせりゃ――ありまくりの勝ち確じゃねぇか。
なぁ……モラタ。
視界が滲んでいく。
頬を伝う熱を拭い、顔を上げた。
エドワード公の瞳をまっすぐに見据える。
「……失礼しました。やります。
やらせてください、エドワード公!」
エドワード公は目を見開いた。
やがて何かを察したように、静かに頷く。
「……よろしい。では、ついてきなさい」
踵を返したエドワード公の背中は、凛としていた。
その一歩一歩が、まるで俺に“覚悟の重さ”を教えるかのように響く。
ふと、その先に立っていたヒヨリさんと目が合った。
彼女は小さく肩を震わせ、何かを言いかけて――けれど、言葉にならなかった。
エドワード公は立ち止まり、穏やかな声で言った。
「ヒヨリ殿。あなたがお辛い立場にあったことは、私も承知している」
だが今は、他人の心配をしている時ではない。
まず、ご自身と向き合われよ。
――あなたにも、果たすべき使命がまだ残されているのですから」
ヒヨリさんは小さく息を呑み、何も言わずに目を伏せた。
指先がスカートの裾をかすかに握りしめている。
俺はヒヨリさんに深く一礼し、小走りでエドワード公の背中を追う。
足音が静まり返った書室に響き、やがて扉の向こうへと消えていった。
最後にもう一度だけ振り返る。
ヒヨリさんは、ただ黙って俺たちの背中を見つめていた。
その瞳は何も語らず――ただ、遠ざかっていく光を追っていた。




